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ただひとつの望み

2023年11月5日

マルコによる福音書 第9章2-13節
川崎 公平

主日礼拝

■伝道開始の記念礼拝において『雪ノ下讃美歌』11番を歌うのは、実に4年ぶりのことになります。本当に久しぶりにこの歌を歌いながら、「この教会は神のものだ」、「鎌倉雪ノ下教会の106年の歴史を導いてくださったのは神だ」と、そのことに改めて感謝の思いを深くさせられます。

潮さいもほど遠からぬ 海のほとりに
キリストのみ声が聞こえ
召し出された ちいさい群れが
神を父と呼ぶよろこびを分かちあう
そこに生まれた 主のからだ
(『雪ノ下讃美歌』11番第1節)

私がいつもこの歌を歌いながら心を打たれることは、「キリストのみ声が聞こえ」という、この一句です。「潮さいもほど遠からぬ 海のほとりに キリストのみ声が聞こえ」、そのキリストのみ声が教会を生むのです。キリストのみ声が教会の命となり、教会を生かし、今もこの教会を導くのは、キリストのみ声です。

その関連で、もうひとつ皆さんにいつも覚えていただきたいことは、「伝道開始」という、この呼び方です。実は決してありきたりの呼び方ではなくて、多くの教会では、教会設立○○周年、教会創立○○周年、と言います。けれども、106年前の10月31日にとある信徒宅で最初の礼拝が行われたときは、まだ正式な教会ではありませんでした。正式に教会の看板を出すことができるようになったのは、もっとあとの話です。けれども私どもの教会は、最初の礼拝の日から教会の年齢を数えるようにしてきました。

ところが私どもは、「礼拝開始106年」とも言わないのです。「伝道開始106年」。この教会が106年間してきたこと、そして今もしていることは、伝道です。イエス・キリストのことを伝えるのです。キリストのみ声によって生まれた教会ですから、今もいつも、キリストのみ声を聞き、だからこそ、キリストの恵みを世に広く告げ広めるために、教会は生かされています。私が時々好んで用いる表現で言えば、イエスさまを紹介するのです。けれどもそのときに、実はいつも問題になることは、いったいどういうイエス・キリストのことを紹介するのか、ということです。これは実際には、そんなに簡単なことではないかもしれません。

■私どもの信仰生活というのは、イエス・キリストに生かされる生活です。このお方に愛され、だからこそこのお方を愛し、このお方のみ声を聞き、そしてだからこそ、このお方のみ声をほかの誰かに聞かせないわけにはいかないのです。けれども問題は、今申しましたように、いったいどういうキリストのことを紹介すればよいのでしょうか。

長く信仰生活をしていると、イエス・キリストのことがだんだん深く分かってきます。つまり、初めて礼拝に来るようになったころは、聖書を読んでも礼拝に出ても、キリストなんて自分とはほど遠い存在でしかなかったのに、いつの間にか、このお方の存在がかけがえのないものになってくる。そしてそういうときに、それぞれ自分の中で、イエス・キリストのイメージというか輪郭のようなものが、だんだんはっきりしていくということがあるだろうと思います。たとえば道を歩いているとき、主イエスが一緒に歩いていてくださる、あるいは前を歩いていてくださる、そのお方にわたしは従うのだ、という信仰のイメージに生かされている方もあるだろうと思います。天の高みからいつも見守ってくださるイエスさまのイメージもあるでしょうし、逆に自分の心の中に住んでいてくださるイエスさまのイメージが、いつも自分の生活を生かしている。そういう人だっているかもしれません。つらいときに慰めてくれる、あるいは自分が罪を犯すときに耐えられないほど悲しい顔をなさるイエスさまの姿を思い浮かべる方だっているだろうと思います。

こういうイエス・キリストのイメージというのは、一方ではとても大切なことです。私どもの信仰生活というのは、先ほど申しました通り、主イエスに愛され、主イエスを愛する生活ですから、何のイメージもないというのでは、その信仰生活は本物にならないと思います。けれどもその一方で大切なことは、そういうイエス・キリストのイメージが、自分の勝手な想像の世界で作り上げたものでは困ります。自分の勝手な妄想ででっち上げたキリストを喜んでみたり感動してみたり、とやっている人を主イエスご自身がご覧になって、「いや、それ、違うよ」ということになったら何の意味もないし、何よりもそれでは〈教会の歴史〉を造ることはできません。

そこで大切なことは、いつでも聖書に戻ることです。聖書が証ししているキリストに出会うのです。それで今日読みました聖書の箇所はしかし、皆さんの多くを戸惑わせるだけであったかもしれません。「イエスさまのことを紹介しよう」と言われても、この聖書の記事はいったい、何をどう受け止めたらいいのか皆目わからん、と当惑された方も少なくないと思います。

■主イエスが三人の弟子たちだけを連れて、高い山に登られた。そうしたら、その山の上で、突然主イエスの姿が変わり、その衣は真っ白に輝いた。その白さを見ていると、どうもわれわれが見たことのある白は、全然白くなかったらしい、というくらいの白さであったというのです。それだけではありません。そこにモーセとエリヤという、ふたりの伝説の偉人が現れて、イエスさまと語り合っている。それを見たペトロという弟子がすっかり舞い上がって、「うわあ、やっぱりイエスさまってすごいんだ、こんなに輝いて、こんなレジェンドたちと肩を並べて話をなさって……」。それで思わずこんなことを言いました。「先生、すばらしいじゃないですか、わたしたちのいるこの場所は。そうだ、いいことを思いつきました。ここに幕屋を三つ建てましょう。もちろん、先生とモーセさまとエリヤさまのためです」。

聖書には、ペトロは自分でも何を言っているのかわからなかったと書いてありますが、実はわけがわからずにいるのはペトロだけではないと思います。今私どもがこのようなイエス・キリストのイメージを示されて、どうにも受け止めかねるものがあると思います。しかも、少し飛んで9節には、「一同が山を下っているとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない』と弟子たちに命じられた」と書いてあります。ということは、逆に言えば、人の子イエスが復活された今は、大いにあの山の上での出来事を話しなさい、わたしのことを世界中に言い広めなさい、ということでしょう。私どもの教会も、このイエス・キリストのことを伝道する務めを与えられているのです。けれども、どうでしょうか。山の上で、キリストの姿が輝いたというのですが、それが何になるのでしょうか。そんなイエスさまのことを誰かに紹介して、いったい誰が本気で喜ぶでしょうか。まあね、神の子キリストなら、多少輝いたって別に驚きやしませんよ。でも、どんなに輝いていたって、ただ輝いているだけなら、わたしには何の関係もないじゃないですか。

教会に来ると、いつも牧師は判を押したように教えるんです。「イエスさまが一緒にいるから、だいじょうぶ」。なるほど、百歩譲ってそれは認めよう。でも、そのイエスさまって、何者ですか。こんなに輝いているんですか。へー、すごいですね。でも、輝いているだけですか。つらいことがあったり、悲しいことがあったり、どうしてもあいつだけは赦せない、ということがあったり、あるいは逆に、隣人をいたく傷つけてしまって、もう取り返しがつかないというときに、わたしと一緒にいてくださるキリストがどんなに輝いていたって、ただ輝いているだけなら、何の意味もないじゃないですか。

■けれども、この聖書の記事が伝えようとしていることは、むしろ今申しました趣旨とは、まったく正反対です。確かに、ここでキリストの姿は輝きました。それは、神の輝きですから、「この世のどんなさらし職人の腕も及ば」ないのは当然です。ところが、本当はこんなに輝いているお方の輝きが、一瞬にして消えた。けれども、すべてが消えてしまったわけではありません。

すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これは私の愛する子。これに聞け」。弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはや誰も見えず、イエスだけが彼らと一緒におられた。

ある聖書学者がこのところを説き明かしながら、ひと言簡潔に、「教会には、キリストだけが与えられたのだ」と書きました。「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはや誰も見えず、イエスだけが彼らと一緒におられた」。彼らと一緒におられたのは、イエスだけであった。今私どもの教会に与えられているのも、キリストだけであります。あれが欲しい、これが足りないと、いつもいろんなものを欲しがっている私どものために、けれども、キリストだけが与えられたのです。

しかもそれに添えて、神の声が聞こえました。「これは私の愛する子。これに聞け」。これは決定的な発言であります。「これに聞け」。いつどんなときにも、私どもはキリストのみ声を聞くのです。教会には、キリストのみ声だけが与えられたのです。私どもが悲しみ、涙が止まらないときに、私どもはいろんな慰めを求めるかもしれません。けれども結局のところ本当の慰めになるのは、キリストのみ声を聞くことでしかないのです。「これは私の愛する子。これに聞け」。私どもが怖くてしょうがないとき、自分はひとりぼっちだ、どこにも助けはないと思うとき、そんな私どもを本当に救う言葉は、「これに聞け」ということでしかないのであって、それ以外の言葉はまやかしでしかありません。人を恨んだり、憎んだり、怒りの感情をどうしても抑えることができないとき、そんな私どもが救われる唯一の道は、「これに聞け」、キリストのみ声を聞け。ただ、それだけなのです。自分なんか生きていても意味がないと思い込むとき、あるいは逆に傲慢になって、誰の助けもいらないとうそぶくとき、そんな私どもを救うのも、「これに聞け」ということでしかないのです。私どもの罪が、隣人を傷つけ、あるいはつまずかせてしまうときにも、結局のところ私どもが立ち返らなければならない場所は、「これは私の愛する子、これに聞け」。キリストのみ声を聞きなさい。そして、だからこそ教会が伝道に生きるというときにも、私どもが伝えるべき福音というのは、「これに聞け」という、このひと言に凝縮されるのです。それ以外の伝道の言葉は、教会には与えられていないのです。

「これは私の愛する子。これに聞け」という声が聞こえたとき、「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはや誰も見えず、イエスだけが彼らと一緒におられた」。私どもにも、キリストだけが与えられています。ほかの何もいりません。ただ「これに聞け」。キリストのみ声を聞けばよい。そうすれば、あなたは救われる。ここに、私どもの教会の伝道の姿勢も定まるのです。

■先ほども読みましたが、9節で主はこう言われました。「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない」。それでペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、「彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った」(10節)というのですが、論じ合いながら、結局わけがわからないまま、しかしこの三人は、主イエスと一緒に山を下りました。下りたところには、汚れた霊に取りつかれた息子を抱えて途方に暮れる父親がいました(14節以下)。主イエスはもちろん、すべてをご存じの上で、「さあ、山を下りよう」と言われるのです。私どものところにも、下りて来てくださるのです。

けれども主が山を下りてくださったのは、ただ山の下に悩みがあるとか、悲しみがあるとか、それを助けなきゃ、ということにとどまらず、主の道行きの最後には十字架がありました。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、そのキリストの十字架と、復活の証人とされたのです。

マルコによる福音書に、このあともう一度、この三人がキリストのお供をさせられた場面が出てきます。主が十字架につけられる前の晩、ゲツセマネと呼ばれる場所で、徹夜の祈りをなさいます。その祈りの場所に特別に連れて行かれたのも、ペトロとヤコブとヨハネの三人でした。ゲツセマネの園にペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われ、けれどもそこで主はひどく恐れ、悶え始めて、三人に言われました。「苦しみのあまり、死にそうだ。どうか、ここを離れないでくれ。そして、一緒に目を覚ましていてくれ」(第14章33節以下)。

そのとき、この三人の弟子たちは、山の上で聞いた神の声を思い出すことができたでしょうか。「これは私の愛する子。これに聞け」。あなたがたは、キリストの声だけを聞いていればいいんだ。それをこのとき三人が思い出すことができなかったとしても、あとで思い出さないわけにはいかなかっただろうと思います。

「これに聞け」というのですが、ところがゲツセマネで聞いたキリストのみ声は……私の想像ですが、この三人は、山の上で主イエスが輝いたときの100倍はびっくりしたと思います。弟子たちの見ている前で、弟子たちの聞いているところで、主イエスはひたすらひとつの祈りだけをなさいました。「アッバ、父よ」。「お父さん、お父さん、あなたには何でもできるのですから、今すぐ、わたしを助けてください。こわいんです。苦しいんです。助けてください。十字架だけは勘弁してください。けれども、わたしの願いではなく、お父さんの思い通りにしてください」。三人の弟子たちは、このキリストのみ声を、生で聞いたのです。それは、人間としては、それこそ何をどう言えばよいのかまったくわからない事態であったと思います。

三人が立ち会わされた場所は、おそらく世界でいちばん暗い場所であったに違いありません。この三人は、この世でいちばん明るい場所と、いちばん暗い場所に立ち会わされたのです。どうしてこの場所は、こんなに暗いんだろう。どうしてこのお方は、あんなに輝いていたのに、ここまで苦しんでおられるのだろう。

その主イエスが遂に十字架につけられ、「人の子が死者の中から復活する」という、まさしくそのことが起こったとき、ペトロもヤコブもヨハネも、自分たちが見たこと、聞いたことを、誰かに話さないわけにはいかなくなりました。このお方は、あんなに輝いていたのに……わたしのために苦しんでくださったのだ。わたしたちのために傷ついてくださったのだ。

そのお方がお甦りになって、もう一度弟子たちをお集めになって、教会をお建てになりました。今私どもが生かされているこの教会を、お建てになったのです。そのとき、もうペトロたちは迷うことなく、ひとつのことだけを語り続けました。「これは私の愛する子。これに聞け」。どんなに暗いところに立つことがあったとしても、キリストが一緒にいてくださる。あなたは、ただキリストのみ声を聞けばいいんだ。そのように語り続ける弟子たちの心の中にはいつも、あの山の上で見た確かな光が輝き続けていたと思います。今私どもにも等しく与えられている命の光であります。お祈りをいたします。

 

どうか今、私どもにもあなたの命の光、望みの光を見せてください。私どもの罪が暗くしてしまっているこの世界に、しかしあなたは確かな光をともしてくださいました。あなたの御子は、お甦りになりました。そのみ声を、今私どもも聞きます。それを誰かに伝えるために召されています。私どもがこれから出て行く生活は、悲しみも悩みも尽きない生活です。何よりも、罪深い私どもの生活なのです。だからこそ、「これに聞け」と言われるあなたの呼びかけにいつも従順であることができますように。感謝し、主のみ名によって祈り願います。アーメン