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まことの王

2023年10月15日

ヨハネによる福音書 第12章12-19節
嶋貫 佐地子

主日礼拝

主イエスのエルサレム入城の場面を、ご一緒に読みました。主イエスがエルサレムの都にお入りになりました。ろばに乗って。それも小さな、子どものろばに乗って、カポカポ。

子どもの頃、教会学校で聴いたことをよく覚えています。説教だけでなく、教会学校の先生が用意してくれた分級でも紙芝居でも、よく見ました。その場面を思い出しますと、エルサレムの城壁にアーチ状の門があって、大歓声の中、そこをくぐって、イエスさまが入って来られる。イエスさまが、エルサレムの中に入って来られる。小さな子ろばに乗って。
そしてその時に先生たちは言いました。
イエスさまは勝利者。まことの王。

でも不思議に思いました。
イエスさまは、何に勝たれたんだろう。

子どもでも、そんな素敵なイエスさまにお会いしましたらドキドキしますけれども、私も小さい時、幼いながらに悩みもありましたから、イエスさまは何に勝たれたんだろう。と憧れながら、でもそうだ、イエスさまは一番お強いから、私の悩みなんて吹っ飛ばしてくださる。と、一人で泣いた時も思っていました。

この時に、イエスさまを出迎えた沢山の群衆も、そんな思いだったのではないかと、今は思います。自分たちの悩みなんて吹っ飛ばしてくださる。苦しかったに違いないです。自分の国が圧迫されていて、占領されていて、でももしかしたら、この人がメシアなんじゃないか。もともと主イエスは大評判でしたけれども、そこにラザロのニュースも入ってきました。あの人は死人もよみがえらせたらしい。これはもうメシアに違いない。あの人なら私たちをローマ帝国から解放してくれるに違いない。そうしたらその方がいよいよ、エルサレムに入って来るってさ!それでこぞって、群衆は溢れんばかりに主イエスを出迎えました。「ホサナ、ホサナ」。昔はその言葉の意味がよくわかりませんでしたけれども、ホサナとはヘブライ語で「救ってください」。「どうぞ神様、この方を救ってください」「この方を救ってください」。この方は勝利者、私たちの王だから。群衆はそう叫びました。でもそれはもっと感情的な言葉なんだそうです。たとえば私どもが嬉しい時に「わあ!」と言うように。私どもが嬉しくて「わあ!」とか「きゃー!」とか言うような、そんな言葉にならないような、感情的な言葉なんだそうです。一昔前なら紙吹雪が舞いそうです。城壁の門、アーチ状。そこをくぐって主が来られた時、群衆は熱狂して、そしてなつめやしを振りました。なつめやしは勝利のしるしだったそうです。そして彼らは、昔も同じことをしたんだそうです。昔、戦争で勝ってくれた勝利者を、同じように群衆がなつめやしを振って出迎えた。その時の勝利者は、軍馬に乗って、颯爽と。

その時とはちょっと様子が違うけれども、子ろばに乗って、城壁の中に入って来られるその方を見た時、ファリサイ派の人たちも互いに言いました。ああ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行った。これを「妬み」と言った人がいました。それは妬むくらいだった。この人に逮捕状まで出していたのに、もう誰も止められない。

でも私は、子どもの頃、じつはイエスさまが何に勝たれたんだろう、ということよりも、この場面がせつなかったのを覚えています。
何かとても、せつなかったんです。イエスさまがエルサレムに入って来られる。たぶんわかっていたんだと思います。イエスさまは十字架に、おかかりになりに来られた。

棕櫚の主日、なつめやしが降られた日曜日。
でもこの数日後にはイエスさまは十字架におかかりになる。世の中が一変して、神様に反対して、この熱狂はどこかに行っちゃって、世は、この方を追い出そうとしたんだ。

でもヨハネ福音書は初めから、イエスさまは初めからいらしたと言っていました。イエスさまは神の言だった。万物はこの方によって成った(1:3)と言われてますのに、その方が世に来られた、と言っていますのに、でもそのすぐあとに言われるんです。世は受け入れなかった(1:11)。世は言を認めなかった。(1:10)

最近はYouTubeでいろんなものが見られますけれども、このあいだろばを観かけて、観ていたら、その足音がほんとうにカポカポいうんですね。ほんとうにカポカポ。優しい顔つきで大きな目にはまつ毛、従順にたくさんの荷物や人を乗せて歩くろばです。そうしますと余計に、「イエスは子ろばを見つけて、お乗りになった。」(12:14)というのは、もう沿道にも人が溢れて、「イスラエルの王」と叫んでいた時に、それに応えられるように、イエスさまが子ろばを見つけてお乗りになった。それは大人のろばよりも小さくて、イエスさまを乗せた子ろばが、小さな音でカポカポと。こんな大群衆の中を入って来たのです。馬のように勢いよくでもなく、主イエスを背中に乗せて、カポカポと。

どうして音のことを申しましたかというと、この時は大群衆の大きな声が、城壁から何から響き渡っていたと思うのですけれども、それに消されるかのような、カポカポというのは、主イエスの主張だったのではないかと思われるからです。

主イエスはどうして、子ろばにお乗りになったのでしょう。
それはすぐにおわかりなることと思いますが、これは聖書に書いてある通りだったんだと福音書は言いました。

「次のように書いてあるとおりである。『シオンの娘よ、恐れるな。/見よ、あなたの王が来る。/ろばの子に乗って。』」(12:14-15)

これは先ほど読みましたゼカリヤ書の引用です。ゼカリヤ書のほうを読みます。

「娘シオンよ、大いに喜べ。/娘エルサレムよ、喜び叫べ。/あなたの王があなたのところに来る。/彼は正しき者であって、勝利を得る者。/へりくだって、ろばに乗って来る/雌ろばの子、子ろばに乗って。」(ゼカリヤ9:9)

ゼカリヤ書は預言していました。あなたの王が来る。あなたの王があなたのところに来る。

そして続けて言いました。

「私はエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。/戦いの弓は絶たれ/この方は諸国民に平和を告げる。/その支配は海から海へ/大河から地の果てにまで至る。」(9:10)

読むだけで充分な御言葉ですけれども、預言書は言ったのです。神様は王を立て、戦争を絶つ。あなたの王は戦争ではなくて正しさで勝つ。

「彼は正しき者であって、勝利を得る者。」

この正しき者で私はイザヤ書を思い出しました。第53章です。神様の「私の正しき僕」。

「私の正しき僕は多くの人を義とし、彼らの過ちを自ら背負う。」(イザ 53:11)
「彼が自分の命を死に至るまで注ぎ出し/背く者の一人に数えられたからだ。」(イザ 53:12)

神様の「正しき僕」は、自らを投げうち死んで、多くの人の過ちを背負う形で勝利を得る。

だからもう軍馬は要らない。平和を告げるろばがいい。それも子どものろばがいい。柔和で謙遜な子ろばがいい。神様がお決めになりました。
彼がそうだから。
けれども、世は受け入れなかった。誰も理解しなかった。

そこに入ってゆかれるのは、主イエスの戦いでありました。ヨハネ福音書の第2章では、主が「人の心を知っておられた」とありました。「イエスは、何が人の心の中にあるかをよく知っておられた」(2:25)。

主は知っておられた。何が人の心の中にあるか。これから何がなされてゆくか。
この方はすべてを見通されますので。
あなたの中に何があるか。
何が心の中にあるか。何に弱いのか。
何に負けてしまうのか。
いったい何に負けちゃうんだ。

それに勝たねばならないと、真剣になられたのは神だけです。人の心の中を知っておられながら、万人の目が注がれる中で、子ろばに乗って、主は、死を目前にして最後の主張をなさった。
あなたの罪は消され、命を与えると。
主は愛を表しておられた。
愛の最後の訴えだった。

その時はそのことを誰もわかりませんでしたけれども、でも弟子たちはあとでわかったのです。弟子たちは「最初これらのことがわからなかったが」、と言われていますけれども、でも「主が栄光を受けられたとき……思い出した」(12:16)。この時のことを思い出した。主が栄光を受けられたとき、というのは十字架のときです。そして復活のときです。

神の栄光が現れたのは、主が十字架にかかられたとき。

そしてその傷をもって、主が、復活の朝、弟子たちの前に現れてくださったとき。弟子たちがその栄光の主を体験したときに、彼らは思い出した!エルサレム入城のこの時にフラッシュバックした。ただ思い出したんじゃなくて、そうだ!あれは聖書の通りだった!

「見よ、あなたの王が来る。
ろばの子に乗って。」

この聖書はこの方について書かれたものだった。そして人々はその通りにした!人々の思いは間違っていたけれども、でも神様が言われた通りに、人々はこの方にしたんだ! 復活の朝、弟子たちは主の「栄光で」このことがわかったんです。
主よ、あなたはまことの王。

ある詩人がこんな詩を書きました。
主が十字架におかかりになって、息を引き取られたのは午後の3時頃でしたけれども、その時の詩で、その最後の部分ですけれどもこういう詩です。

「かの人は世を贖うために、自分の命をかけた。
太陽が西に傾き、沈む前に。
その日こそ黄金の冠を得た日、
かの人が勝ったのを知った日だった。」

夕日を背にしてこの方が首をもたげられた時、そのかしらに黄金の冠が見えた。主が勝ったのを知った日だった。

主の愛が勝った日だった。

イエスさまは、何に勝たれたんだろう。
イエスさまは、罪と死の勝利者。

病床に訪問に行かせていただきますけれども、その方々にお会いして、お体が許される限り、お話をさせていただきます。でも教えていただきます。どれだけ主を愛しておられるか。

ある人は横になっていらっしゃるから、私もこうして。顔を横にして、にこやかにお話して、そうすると気づくのです。私じゃなくて、はるか先、主を見ておられる。お身体はきつい。そしてほんとうに厳しいことですけれども、死が見えてくる。でも、その死が見えている中で、主の愛が見えている。

かつて「ろばの音が聴こえる」と言った人がいました。病室で死が向こうからやってくる、というときにドキドキして眠れないときに、でも向こうから、その時、子ろばの足音が聴こえてきた。子ろばの足音が聴こえてきた。あの方が来られる。勝利の音だ。

それを今、目の前におられるその方とも二人で体験する。聴こえますね。
主の愛の勝利の音。

なつめやしは勝利のしるしと申しましたけれども、次にもう一度なつめやしが出てくるのは、ヨハネの黙示録の第7章です。お読みします。

「この後、私は数えきれぬほどの大群衆を見た。彼らはあらゆる国民、部族、民族、言葉の違う民から成り、白い衣を身にまとい、なつめやしの枝を手に持って、玉座と小羊の前に立っていた。彼らは声高らかに言った。『救いは、玉座におられる私たちの神と/小羊にある。』」(黙7:9-10)

その白い衣を着た人たちのことはこう言われます。

「この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」(黙7:14)

その時には、イエスさまのことが言われている、「小羊」の血で洗った白い衣の人たちが小羊についてゆく。なつめやしを持って礼拝する。

それは将来のことです。そのときには、かつてこの礼拝堂にいたあの方も、そしてあの方もそこにいる。そうして将来、いつかご一緒に、私どもの主イエス、まことの王について行かせていただく、その希望を持つのです。

 

天の父なる神様
まことの王を私どもに遣わしてくださって感謝をいたします。私どもをこの勝利の大群衆としてください。
主の御名によって祈ります。アーメン