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神さま、もう忘れません

2023年9月3日

マルコによる福音書 第8章1-12節
川崎 公平

主日礼拝

■本日9月の最初の日曜日を、私どもの教会では〈振起日〉と呼びます。信仰を奮い起こす日、奮い立つ日と考えることもできるかもしれませんが、本当はそうではなくて、神が私どもを奮い立たせてくださると言うべきだろうと思います。「よーし、やるぞー!」と気合を入れるのも悪いことではないだろうと思いますが、むしろこのような日にこそ私どもがはっきりと知らなければならないことは、神さまが奮い起こしてくださらなければ、私どもの信仰は一日ももたない、ということだと思います。私どもの信仰を起こしてくださるのは神であり、今ここに教会を生かしてくださるのも、ただ神のみわざでしかありません。その恵みの中に、今新しい思いで共に立ちたいと思うのです。

今朝は、そのような振起日の礼拝のために、いちばんふさわしい聖書の言葉をいただいたと思います。日曜日の礼拝で、マルコによる福音書を読み続けておりますが、今日は第8章の前半を読みました。その終わりの方に、このような主イエスの言葉があります。17節以下を読みます。

「なぜ、パンを持っていないことで議論しているのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」(17、18節)。

ここでも主イエスは、まさしく弟子たちの信仰を一所懸命奮い立たせようとしています。まだ分からないのか、これでも分からないのか、と言葉を重ねて、弟子たちに信じる心を与えようとしておられるのです。「まだ、分からないのか。悟らないのか」。あなたには目があるだろう。あなたの耳は、何のためについているんだ。聞いていないはずがないじゃないか。それなら、覚えていないはずがないじゃないか。

「私が五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか」。弟子たちは「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか」。「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた(19~21節)。

弟子たちは、全部覚えていたのです。けれども問題は、数を覚えていても、それが信仰にはなっていなかったということなのです。きっと私どもも、この弟子たちと同じだと思うのです。「まだ分からないのか。どうして悟らないのか」。

■今日は第8章の1節から21節までを読みました。ずいぶん長いなあ、と思われた方もあるかもしれませんが、これは途中で切るわけにはいかないのです。その最初の段落に書いてあることは、七つのパンで、四千人がお腹いっぱいになったということです。ただの四千人ではありません。2節、3節を読むと、この四千人は、ほとんど三日間、飲まず食わずであったと書いてあります。その四千人をお腹いっぱいにさせるために主イエスがお用いになったものは、七つのパンと僅かな小魚であったというのですが、「どうしてこんな不思議なことが起こったんだろう」という疑問には、どうも聖書はちっとも興味がなかったようです。むしろこのような奇跡を経験してしまったがために、かえって弟子たちの不信仰が際立ってしまったというのです。このような奇跡を経験したにもかかわらず、いやむしろそのためにかえって、弟子たちの心は頑なになり、「目があっても見えない、耳があっても聞こえない」ということにしかなりませんでした。なぜなのでしょうか。

実は、この福音書の記事について、聖書の学者たちの中にこういうことを言う人がいます。既に第6章においても、五つのパンで五千人がお腹いっぱいになったという奇跡が記録されています。それに対して、ここでは七つのパンで四千人。微妙に数が違います。そこでこういうことを言い始める学者がいるのです。本当は、パンの奇跡は一度限りの出来事だったはずだ。ところが、のちの時代の教会が、この奇跡のことを喜んで伝えているうちに、パンと魚の数やら群衆の人数が変わってしまった。古代のことですから、最初は全部、口だけで伝えていくのです。それをある時、マルコという人がきちんと文字に書いて書き残そうとしたときに、「どうもパンの奇跡が二種類伝わっているようだけれども、せっかくだから、両方とも書いておこう」。……こういう説明のひとつの根拠とされるのが、4節の弟子たちの言葉です。「この人里離れた所で、どこからパンを手に入れて、これだけの人に十分に食べさせることができるでしょうか」。もし弟子たちが、既に五千人のパンの奇跡を経験していたら、こんなことを言うはずがない。「イエスさま、だったら、また前みたいにやりましょうよ。ほら、パンが七つもありますよ」と言ったに違いない。だから実は、この四千人のパンの奇跡も、本当は初めての、つまり一回限りのパンの奇跡であったはずだ。そういう主張をする学者たちがいるのですが、それこそまったくおかしなことだと私は思います。書斎でしか物事を考えないから、そういうおかしな結論になるのです。

きっと私どものためにも、主イエスは同じことを言われると思うのです。「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」。何度神の恵みを経験しても、それを簡単に忘れるのです。あのときは五つのパンで五千人、あのときは七つのパンで四千人。数は覚えていても、「でも、今度はだめだろう」。なぜなら、今はあのときと状況が違うから。条件が違うから。何かと理屈をこねて、意地でも神の恵みを信じようとしない私どもの頑なさが、どんなに主イエスを疲れさせているだろうかと思うのです。

■ここで大切な意味を持つのは、18節の最後に出てくる「覚えていないのか」という言葉です。これはもしかしたら、「思い出せないのか」と訳した方がよかったかもしれません。あなたは、覚えているはずだよ。なぜそれをここできちんと思い出さないか。信仰とは、思い出すことです。ただ覚えている、ただ記憶しているというだけでなく――その意味では、弟子たちも覚えてはいたのです。パン五つで五千人、余ったのは十二籠。パン七つで四千人、余ったのは七籠。けれどもその記憶を、肝心なときに記憶の引き出しから出してくることができなければ、いつまでたっても私どもの目は閉じられたまま、耳は閉じられたままだと言うほかなくなるだろうと思うのです。神を信じて生きるとは、思い出すことを思い出しながら生きるということなのです。

先ほど、旧約聖書の申命記第8章2節以下を読みました。「あなたの神、主がこの四十年の間、荒れ野であなたを導いた、すべての道のりを思い起こしなさい」と書いてあります。あなたがたは、思い起こさなければならないことがあるはずだ。「あなたの神、主がこの四十年の間、荒れ野で」何をしてくださったか。あなたは何を経験したのか。そのことを思い起こさなければ、将来に向かっても確信を持って歩み出すことができないのです。

この「思い出す」という言葉が、やがて教会の歴史においてたいへん重要な意味を持つようになりました。その典型的な場面が、このあとご一緒に祝う聖餐であります。聖餐のときに必ず読む聖書の言葉があります。「私の記念としてこのように行いなさい」という言葉を、皆さんの多くが既に覚えてしまっていると思いますが、この「私の記念として」というのは、言い換えれば、「私を思い出すために、この聖餐を行いなさい」と書いてあるのです。「私イエスを思い出しなさい」。そのための聖餐であります。そう言えば今日読みましたマルコによる福音書第8章の6節にも、「そこで、イエスは群衆に地面に座るように命じ、七つのパンを取り、感謝してこれを裂き」と書いてありました。何年も教会生活をしていると、自然と気づくのです。ああ、これも聖餐のときの言葉にそっくりだ。弟子たちもまた、あのとき、わたしたちのためにパンを取り、感謝してそれを裂いてくださったキリストの恵みに触れたのです。けれども問題は、それをきちんと思い起こすことができなかったということなのです。

今日も、このように聖餐を祝います。けれども、聖餐のたびに私どもが悲しまなければならないことは、私ども自身の物覚えの悪さだと思います。年のせいか、最近物忘れが増えちゃって、などと謙遜なさる方もあるかもしれませんが、この際そういう話はまったく関係がありません。老若男女、誰もがこの聖餐の食卓の前では、自分の物覚えの悪さに直面させられるのです。「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」。何度教えられても忘れるのです。だからこそ、神がここで、このように思い出させてくださいます。私どもの信仰を奮い立たせてくださるのです。

■その関連で、11節以下にはこんな話が書いてありました。「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論を仕掛けた」というのですが、この話はまるで前後の文脈と関係がないようです。けれどももちろん、そんなことはありません。その次の12節には、「イエスは、心の底から呻いて言われた」と、たいへん強烈な表現が出てきます。この主イエスの呻きの深さが分かるでしょうか。この「呻く」という言葉は、先週の礼拝で読みました第7章34節にも出てきましたが、そのときにも説明した通り、「ため息をつく」という意味も持ちます。ファリサイ派がイエスに天からのしるしを求めたとき、イエスは心の底からため息をついて言われた、というのです。もしも皆さんが、誰かに何かを言ったときに、その相手が、「はあ~~」なんて返してきたら、ショックでしばらく眠れなくなるかもしれません。まして主イエスに深いため息をつかれたりしたら、私どもはどうしたらいいか分からなくなるかもしれませんが、実際には私どもも、主イエスにため息をつかせるようなことを、言ったりしたりしているかもしれません。

ここでファリサイ派は、「天からのしるしを求めた」というのです。つまり、イエスよ、あなたが神から遣わされて、神のわざをしているというのなら、その証拠を見せろ、ということでしょう。しかし、ここはよく考えていただきたいのですが、七つのパンで四千人がお腹いっぱいになったのです。しばらく前にも、五つのパンで五千人がお腹いっぱいになったという出来事が起こったのです。そのような出来事を、自分の体で経験した人が、現に何千人と生きているのです。それを見ても、あるいは聞いても、いやまだ納得できません、もっと確かな証拠はないですか、というのは、いくら何でも、「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」と言うほかないのです。

この主イエスの心の底からの呻きがあって、だからこそ、その次の14節以下の段落で、遂に主イエスの感情が爆発したかのような言葉が語られるのです。「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」。「はあ~……。いい加減にしろよ」。主の嘆きは、深かったと思うのです。

■そのような、主イエスの感情の爆発と申しましたが、そのきっかけになった出来事がありました。それが、14節以下の段落の最初から問題になったことで、どうも弟子たちの誰かがうっかりしていたために、主イエスと十二弟子、合計13人グループの食糧が危うくなったらしいのです。「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせがなかった」(14節)。おいおい、パンがひとつだけだって? どうするんだよ。誰のせいだよ。今度こそやばいんじゃないか?

そのときにも、はっきりとは書いてありませんが、主イエスは心の底から呻きながら、こう言われたと私は思うのです。「なぜ、パンを持っていないことで議論しているのか。まだ、分からないのか」。「私が五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか」。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか」。なぜ、思い出さないのか。

何度神の恵みを経験しても、それを忘れるのが私どもだと思うのです。そしてそういうときこそ、主イエスの心の底からの呻きに、あるいはため息に、気づいていなければならないと思うのです。

弟子たちは、舟の中にひとつのパンしか持っていなかったというのですが、この話は私どもにもよく分かるのです。いろんなことで、足りない、足りないと嘆き続けているのが、私どもの生活だと思うのです。今、鎌倉雪ノ下教会には何人の人がいるでしょうか。お金はどのくらいあるでしょうか。それは10年前、20年前に比べて、減っているでしょうか、増えているでしょうか。10年後、20年後、この教会はどうなっているでしょうか。そういうことを考えるときに、もちろん私どもは数を数えるのです。ことに牧師とか長老とか、そういう人たちは、脳みそをフル回転させてそんなことばかり考えているかもしれない。数を数えるのは不信仰のしるしだ、などという話ではありません。現に主イエスも、ここで弟子たちに、数を数えさせているのです。「私が五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか」。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか」。弟子たちは、「十二です」、「七つです」と、主イエスの恵みを数で数えることができたし、今私どももきっとそうしなければならないのです。

鎌倉雪ノ下教会は、日本の教会の中でも、際立って恵まれた歴史を与えられてきたと言わなければならないと思います。あの十二弟子は、僅かなパンを差し出しただけなのに、何千人という人びとが主の恵みにあずかることができました。余ったパン屑を集めたら、籠がいくつあっても足りなかったというのですが、それを言ったら、鎌倉雪ノ下教会だって負けちゃいないんです。数においても、すばらしい実りを見ることができました。けれども問題は、その豊かな数を、信仰をもって思い出すことができなければ、何の意味もないということです。この舟には、パンがひとつしかない。おいおい、どうするんだよ。誰のせいだよ。今度こそやばいんじゃないか?……という議論を弟子たちがしたときにも、あるいはその前のところで、ファリサイ派の人たちが、「天からのしるしを求め、議論を仕掛けた」というときにも、主の呻きは深かったと思うのです。

だからこそ、主イエスは弟子たちに言われました。「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい」(15節)。「パン種」というのは、たいへん興味深い表現だと思います。ほんの少しのパン種を粉の中に入れただけで、どんどんパンが膨らんでいくように、ほんのわずかなパン種があなたがたの心の中に入り込んだら、一気に罪のパンが膨れ上がってしまう。十分、気をつけなさい。そのパン種というのは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種」だと言われます。

ファリサイ派のパン種というのは、おそらくその前の11節以下の話と関係があるのでしょう。「証拠を見せてくれたら、信じますよ。天からのしるしを見せてくれたら、われわれも納得しますよ」。ただし、五つのパンで五千人が満足しても、七つのパンで四千人がお腹いっぱいになっても、それはそれ、これはこれ。そうじゃなくて、私たちを納得させる証拠を見せてください。……そのファリサイ派のパン種が、弟子たちの心にも芽生えていることに主イエスはお気づきになったのでしょう。

■そんな私どものために、もう一度申します。「まだ、分からないのか」と、今も主イエスは、私どものためにも、呻きながら問うておられると思います。「まだ悟らないのか」。しかし、何を悟るべきなのでしょうか。パンは一個しかないけど、心配するな、ということでしょうか。「お前の分のお弁当くらい、ちゃんと用意してやるから、心配するな」。もしもその程度のことであったなら、私どもが信仰生活に励む意味はないのであります。

2節に、「群衆がかわいそうだ」という主イエスの言葉がありました。「かわいそうだ」という言葉は、お腹が痛い、内臓がきりきり痛むというような意味の言葉ですが、同じ言葉が、第6章34節の、五千人のパンの奇跡のところにも出てくるのです。そこでは同じ言葉が「深く憐れむ」と訳されています。

イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

この群衆には、飼い主がいないんだ。腹の底から、痛みを感じないわけにはいかないだろう? その上で、「まだ悟らないのか」と主は言われるのです。「私が五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか」。弟子たちは籠の数を正確に答えたのですが、数を覚えていたって、本当に大事なことを思い出さなければ、何の意味もないのです。なぜ主イエスは、あのパンの奇跡をなさったのでしょうか。その結果、余った籠の数は、いったい何を意味するのでしょうか。飼い主のいない羊のような群衆のために、主の深い憐れみが注がれたのです。

キリストの教会というのは、このキリストの深い憐れみ、深い痛みに仕えるために召されています。その意味では、この鎌倉雪ノ下教会というのは、今500人くらいの教会員がいますが、その500人のために生きているわけではありません。今も主イエスは、この地域に住む「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」、「群衆がかわいそうだ」と、そのためにこの教会を用いて、みわざを続けておられます。だから私どもも、そのためにわずかなパンを差し出した弟子たちのごとく、主と共に働かせていただくのです。そのような教会の中に、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種」が混じってはならないというのは、当然のことであります。

「まだ、分からないのか。悟らないのか」。今私どもがいただく聖餐は、あの主イエスの深い憐れみのしるしであります。主イエスよ、今はよく分かりました。もう忘れません、あなたの憐れみを。思いをひとつに、そう申し上げることができますように。お祈りをいたします。

 

私どもも、あなたの憐れみを受けました。そのようにして、あなたはこの教会の歴史を導いてくださいました。今、思い出すべきことを思い出すことができますように。ことにこの聖餐の食卓の前で思い出さなければならないことは、私どもの物忘れのひどさです。あなたにため息をつかせてしまうような私どもの愚かさを、どうか癒やしてください。「神さま、もう忘れません」と、喜びをもって祈りをひとつに集めることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン