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主よ、私の唇を開いてください

2023年8月27日

マタイによる福音書 第7章31-37節
川崎 公平

主日礼拝

■祈りについての本を、旧約聖書を専門とするもうひとりの先生と共著という形で出しました。結局ずいぶんと図書委員会の方たちの手を煩わせてしまい、だいぶ恐縮しておりますが、それだけ多くの方が、この小さな書物に関心を持ってくださったことを心から喜んでいます。

『聖書の祈り31』というタイトルがついていますが、つまりひと月分31箇所、聖書の中の祈りの言葉、あるいは祈りについての言葉を取り上げました。私が担当したのは、その半分弱の15日分です。しかし実際に本を書く方の身になってみると、この数はどう考えても少なすぎるのです。本当はあの聖書の言葉も捨てがたい、あの箇所も読みたいと、悔しい思いさえ抱きながら、ずいぶんたくさんの聖書の言葉を候補から外していかなければなりませんでした。前回私がここで説教した、シリア・フェニキアの女と主イエスのやりとりなどもそうですし、本当に原稿の締め切りぎりぎりまで悩んで、泣く泣く候補から外したのは、ローマの信徒への手紙第8章26節です。こういう言葉です。

霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。

私どもは、実は祈ることなんかできないんだと、はっきり申します。「私たちはどう祈るべきかを知りませんが」、ところが、そういうわたしたちのために、神の霊が執り成してくださる。わたしの代わりに神の霊が祈っていてくださる。ところがその神の霊の執り成しというのは、「言葉にならない呻き」であると、そう言うのです。私どもは、この〈神の霊の呻き声〉を聞いたことがあるでしょうか。

このローマの信徒への手紙の第8章において際立っていることは、実はここで呻いているのは神の霊だけではなくて、三つの呻きが重なるように聞こえるはずだと、この手紙を書いたパウロという人は言うのです。その少し前、22節以下を読んでみます。

実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。

被造物全体が共に呻いていると言います。いかにも不気味な表現ですが、「いや、でも、確かにその通りだ」と言わなければならないかもしれません。海も陸も、草木も、地球全体、宇宙全体が呻いている。しかもその被造世界の中心で、誰にもまさって深く呻いているのは、私どもキリスト者であると言うのです。「霊の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます」。神よ、助けてください、わたしのこの体を救ってくださいと、呻きながら待ち望んでいるというのです。

「呻く」と訳されている言葉ですが、「ため息をつく」と訳されることもあります。私どもの生活においても、「呻く」というような大げさな声を出すことはあまりないかもしれませんが、大きなため息をつくことはしょっちゅうだと思います。「はあ~~~………」と、言葉にならない悩みを、ため息と共に吐き出し続けているのがわれわれの生活であって、しかも実は、この地球という星全体が、生まれてこのかた、何かというと深いため息をつき続けている、呻いている、悲鳴を上げている。そんなことを想像し始めると、私どもの心はどんどん暗くなっていくかもしれません。けれども、その背後で、神の霊が言葉にならない呻きをもって、私どものために執り成していてくださるならば、そこに希望が見えてきます。だからここでもパウロは24節で、「私たちは、この希望のうちに救われているのです」と書いたのです。呻きながら、そう書いたのです。

しかし、改めて問います。皆さんは、この神の聖霊の呻き声を聞いたことがあるでしょうか。いったいどこで、どのように聞いたことがあるでしょうか。今紹介したローマの信徒への手紙の言葉は、たいへん印象深いものがありますし、素直に読めば深く心を打たれるに違いないと思いますが、「いや、ちょっと待て」と考える人だっているかもしれません。この手紙を書いたパウロという人が、何となく思いつきでうまいことを書いただけだとしたら、こんなばかばかしい作り話はないのです。けれども、もちろんパウロは、根拠のない作り話を書いたのではありません。確かな事実を根拠とした救いの道筋を、このように書いているのです。その確かな事実というのは、言うまでもなく主イエス・キリストご自身であります。

■今日私どもの礼拝に与えられている聖書の言葉は、マルコによる福音書第7章の31節以下です。先ほど聖書朗読をお聞きになりながら、もしかしたら「おや」と思われた方もあるかもしれません。34節に、「そして、天を仰いで呻き」と書いてあります。以前用いていた新共同訳では「深く息をつき」と訳されました。つまり、まさしく、「ため息をついた」わけです。しかし新しい翻訳では「呻く」となりました。もちろん、先ほど紹介したローマの信徒への手紙第8章の被造物の呻き、私どもキリスト者の呻き、そして聖霊の呻きと、原文のギリシア語でも同じ言葉です。あの手紙を書いたパウロという人も、主イエスの呻きを知っていたのだと思います。私どもも、このお方の呻きを、耳を澄ませて聞きとらなければならないと思うのです。耳が聞こえない、したがって口も利けない人のために、主イエスは呻きをもって執り成してくださった。その様子が、このように記録されています。

そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾を付けてその舌に触れられた。そして、天を仰いで呻き、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である(33、34節)。

ここで何と言っても印象深いのは、主イエスのしぐさ、そのひとつひとつであります。「指をその両耳に差し入れ、それから唾を付けてその舌に触れられた」と書いてあります。なぜ主イエスはわざわざ、こんな丁寧なしぐさをなさったのでしょうか。主イエスというお方は、福音書の別の記事からも分かるように、何もわざわざその人に手を触れなくたって、遠く離れたところから、何なら一度も会ったこともない人のためにも、癒しのみわざをなさったことがありますし、このときもそうしてもよかったかもしれません。ところがここでは、「指をその両耳に差し入れ、それから唾を付けてその舌に触れられた」。それはなぜか、ということを、理屈で説明するのは難しいかもしれません。けれども、少なくともここで癒やされた人は、理屈抜きによく分かったと思います。わたしは愛されているんだ。このお方に。

耳が聞こえない、口が利けない人であります。昔のことですから、こういう人が生きていくということは、今以上にたいへんだったと思います。けれども、この人は孤独ではありませんでした。この人を、主イエスのところに連れて行ってくれる人たちがいました。そしてその人たちは主イエスに、どうかこの人を助けてくださいとお願いをしました。この人は、耳は聞こえませんが、目は見えるのです。皆が何を言っているのか、それはさっぱり分からない。けれども、どうも自分のことが話題になっているようだ。すると、主イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、ふたりきりになって……もしかしたら、最初はたまらなく不安であったかもしれません。どこに連れて行かれるんだろう。そうしたら、主イエスはこの人の両耳に指を差し入れ、唾をつけてその人の舌に触れ、まるでこの人の痛みに、主イエスご自身の体をぐーっとくっつけるようにして……そして、天を仰いで、呻き声を上げられました。言葉に表わせない呻きをもって、いや、正確にはただひと言、「開け」と、呻くように言われました。主イエスの手のぬくもり、あるいはその呻きの息遣いを感じながら、この人は理屈抜きに分かったと思います。わたしは、愛されているのだ。

「すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すようになった」(35節)。もしかしたら、この人が生まれて初めて聞きとった音は、主イエスの呻きであったかもしれません。呻くように、「開け」、「エッファタ」と言われた、その言葉が、その人の人生で初めて聞いた言葉であったかもしれません。「耳よ、開け。口よ、開け」。わたしのための、神の御子の呻きです。そしてそれに答えて、この人も自由に話すことができるようになりました。何を最初に話したのでしょうか。「イエスさま、ありがとうございます」と、この人が最初に申し上げたのはその言葉であったかもしれません。あるいは、自分を主イエスのもとに連れて来てくれた仲間のところに戻って行って、喜びを分かち合ったかもしれません。そんなことをしながら、この人は、死ぬまでこのときのすべてを忘れることはなかったでしょう。自分の耳に入れられた、イエスの指。それは、神の指だったんだ。そしてあのとき、呻くように息を吐いておられたイエスの息、その息の匂いまで、死ぬまで忘れなかったかもしれない。あれは、神ご自身の呻きだったんだ。

神の霊は、今も、私どものためにも、呻きをもって執り成してくださいます。「霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです」。それはいったい、何を意味するのでしょうか。

■先ほど、マルコによる福音書の記事と合わせて、詩編第51篇の一部を読みました。その17節に、「わが主よ、私の唇を開いてください」という祈りがあります。「わが主よ、私の唇を開いてください。/この口はあなたの誉れを告げ知らせます」と言うのです。神よ、もしあなたがたわたしの口を開いてくださるならば、わたしは直ちに、あなたへの賛美を歌います。15節にあるように、罪人をあなたのもとに立ち帰らせるような、そのような言葉さえ、語ることができるのです。どうかそのような言葉を、この罪人の口に与えてください。けれども主よ、もしあなたがわたしの唇を開いてくださらなければ、わたしの口は閉じられたままのです。……本当にそうだと言わなければならないと思うのです。

この詩編第51篇は、別に口の利けない、耳の聞こえない人のための祈りではありません。そうではなくて、罪人の祈りです。最初のところには、こう書いてあります。

神よ、私を憐れんでください
あなたの慈しみによって。
深い憐れみによって
私の背きの罪を拭ってください。
過ちをことごとく洗い去り
私を罪から清めてください。(3、4節)

どうしたって神に憐れんでいただかなければならない、それこそ呻くような罪人の祈りの中に、「わが主よ、私の唇を開いてください」という祈りがあるのです。主よ、もしあなたがわたしの口を開いてくださらなかったら……もしそうなら、どうなるのでしょうか。それでも私どもの口は勝手に開きますから、無駄な言葉はいくらでも出てくるのです。自慢したり、人をねたんだり、悪口を言ったり、少しでも自分の偉さや正しさを証明するための言葉なら、いくらでも出てくるのです。耳もそうです。私どもの耳というのは、ずいぶん自分勝手にできているものだと思いますし、現に人間の耳というのは、聞きたい言葉だけを聞くように、聞きたくない言葉は聞かないように、最初からそういう仕組みを持っているという研究もあるそうです。

だからこそ、私どもは呻いているのではないでしょうか。だからこそ、互いにため息をつき合うような生活しか作ることができないのではないでしょうか。それどころか、私ども人間の罪のために、世界全体が呻くような結果にすらなっているのです。だからこそ、この詩編第51篇は、呻くようにこう祈るのです。「わが主よ、私の唇を開いてください」。

ところが、そこで私どもは驚くべきことを知ります。そんな私どものために、主イエスが一緒に呻いてくださる。今もいつも、どう祈るべきかを知らないわたしに代わって、神の霊が呻いておられるのです。その意味で、今日読みました福音書の記事は、計り知れない重みを持っていると思います。今、私どものためにも、主イエスご自身がわたしの耳に指を入れて、わたしの口にも手を触れてくださるのではないでしょうか。私どもの耳も口もたいへん汚れておりますから、本当にしょうもないことばかり口にするような私どもですから、どうしたって主イエスは呻かないわけにはいかないのです。呻くように、このわたしの代わりに、あの詩編第51篇を祈っていてくださるのです。「神よ、どうか、この人を憐れんでください」。「どうか、この人の唇を開いてください。この口が、あなたの誉れを告げ知らせるように」。その主イエスの呻きが、聖霊の呻きが、昼も夜も聞こえてくるはずなのです。そうしたら、きっと私どもも、ここに出てくる人のように、耳を開かれ、口を開かれて、ふさわしい言葉を語ることができるでしょう。

■ところがこの福音書の記事は、少し思いがけない方向に進んでいきます。36節で、主イエスは人びとに、この奇跡について誰にも口外するなと言われたのです。こういう言い方は、特にマルコによる福音書にはしょっちゅう出てきますから、「なぜだろう」と疑問に思う方も多いと思います。ひとつには明らかに、奇跡を売り物にするな、ということであったと思います。それをもう少し深く言えば、このときの主イエスの呻きを理解することなく、ただ奇跡的な事件だけがひとり歩きしては困るということでしょう。

この福音書を最後まで読み進めていくと、主イエスは十字架で殺されます。今日読んだ箇所の最後のところでは、「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」と人びとは言ったというのですが、主イエスが十字架につけられたとき、誰もこの方をほめませんでした。けれども、福音書を書いたマルコの理解によるならば、その十字架の苦しみは、既にこの第7章においても始まっていたのです。だからこそ、ただ奇跡だけを言いふらすようなことをするなと言われたのです。

主イエスは十字架につけられたとき、最後に息を引き取ろうとするとき、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と、大声で叫ばれました。私はこう信じております。主イエスというお方は、十字架の上で初めてこのような叫びを叫ばれたわけではないのです。耳が聞こえず、口の利けない人に主イエスが触れてくださった時、そこでも主イエスは、同じ祈りをなさったに違いありません。「神よ、見捨てないでください。神よ、なぜこの人をお見捨てになるのですか」。耳に指を入れ、舌に手を触れられ、天を仰いで、呻くようにこの人のために執り成してくださったお方が、遂にご自身の体を、いけにえとしておささげになったのです。そして、今、罪人のわたしのためにも、主イエスが呻くような祈りをしてくださることを、思わないわけにはいかないのです。

主イエスが十字架の上で、そのような叫びを上げて息を引き取られたとき、そのすぐそばに立っていたローマの百人隊長が申しました。「まことに、この人は神の子だった」。主イエスの呻きをそばで聞きながら、真実の賛美が生まれました。そのとき、このローマの百人隊長も、主イエスの愛の中にあったことは明らかだと思います。主イエスの愛の中で耳を開かれ、口を開かれた、その出来事は、私どもの救いの出来事でもあるのです。このあと、臨時の長老会を開いて試問会を行います。来週の礼拝で行われる信仰告白式に備えての試問会です。そのような席でもいつも私のような者が思わされることは、主イエスがこの人のためにも、その耳に触れて、その口を開いてくださって、信仰の言葉を与えてくださるということです。ひとりの人が、信仰に生きるようになるということは、神の奇跡以外の何ものでもない。今既に、その恵みの中に立たされていることを、私どもの望みとしたいと思います。お祈りをいたします。

 

主よ、憐れんでください。私どもの耳と、私どもの口を、どうかあなたの憐れみによって清めてください。そうでもしなければ、私どもはただ呻き続けるほかないのです。今もあなたの救いを待ち望みつつ、世界中が呻いている、このあなたの造られた世界のためにも祈ります。み霊の助けがありますように。神よ、どうか私どもを罪から救い出してください。主のみ名によって祈り願います。アーメン