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愛と恵みがあなたとともに

2023年7月30日

コリントの信徒への手紙一 第16章13-24節
中村 慎太

主日礼拝

「目を覚ましていなさい。信仰にしっかりと立ちなさい。雄々しく強くありなさい。何事も愛をもって行いなさい。」

コリントの信徒への手紙一の最後は、力強い励ましの言葉で終わりを迎えます。

コリント教会に向けられた言葉でありながら、時代と場所を超えた私たちにさえも、心を奮い立たせるようなメッセージです。主なる神さまのことをまだ知らない、教会にまだ集ったことがない人でさえ、この励ましの言葉を示されたら、その力強さを感じざるを得ない言葉です。

この手紙を書いた伝道者パウロは、どんな思いでこの言葉たちを連ねたのでしょうか。コリント教会の愛する兄弟姉妹たちに、どれほどの思い出これらの励ましを送ったのでしょうか。

移動の手段も、連絡の手段もそうない時代です。そして、パウロは主イエス・キリストの福音を伝道するのに、文字通り命がけの日々を送っていました。たしかにパウロは、その時代なりにできるだけたくさんの手紙のやり取りをしており、だからこそ聖書に彼の手紙がいくつも残っています。とはいえ、パウロは実際数年後には殉教の死を迎えるのです。この手紙の最後でも、もう自分が書ける最後の手紙かもしれない、最後の愛のメッセージかもしれない、と思いながら、この言葉たちを連ねたのではないでしょうか。

もし私たちが同じように誰かに最後のメッセ―ジを伝えるなら、どれほどの愛を、そして励ましを込められたらと思うのです。

これらの励ましの言葉を、パウロはまず「目を覚ましていなさい」という励ましから始めました。

この言葉、新約では何度か出てくる言葉となっています。実は、伝道者パウロが書いた手紙では、最後の励ましとして、この言葉が使われることがいくつか例があるのです。

単に、眠ってばかりいるな、という意味ではありません。目を覚まし、気を付けて、キリスト者としての歩みを続けなさい、というメッセ―ジです。

そして、この言葉は、イエスさまが弟子たちに語った言葉でもあります。

マルコによる福音書第13章。イエスさまが、4人の弟子たちに、主がこの地上に来られる、終末の時、主のみ国が完成する時のことを伝えています。それは、イエスさまが十字架にお架かりになるまで、あと数日という時でした。

「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたは知らないからである。それはちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに責任を与えてそれぞれに仕事を託し、門番には目を覚ましているようにと、言いつけるようなものである。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴く頃か、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

この言葉を伝えられたイエスさまの弟子たちは、新しい弟子たちにも、このイエスさまの遺言とも言えるようなメッセージを、伝えていったはずです。伝道者パウロ自身も、ほかの弟子が、受難の歩みの中でイエスさまが語りかけた言葉を、何度も聴いたはずなのです。

そのイエスさまの言葉を引き継いで、パウロはコリント教会の人たちに伝えたのです。「目を覚ましていなさい」。世界が完成する時は、終末の時はいつか分からない。だから、眠りこけるように、なってしまわないで、目をさまし、いつでも再び来てくださるイエスさまを迎えられるように、待とうではないか、と伝えるのです。

続けての命令は、「信仰にしっかり立ちなさい」です。しっかり立つ、という語は、新約のもとの言葉で言えば、1単語です。命令の言葉を4つ連ねても良かったのではと思わされます。しかし、パウロはそこに、信仰に、という語を加えました。信仰において、信仰の中に、と訳してもいい言葉です。私たちがしっかり立つのには、神さまから与えられた信仰が無くしてはありえないということが、その表現にも込められているのではありませんか。

自分一人で立つのではない、神さまから与えられた信仰に依り頼んで、いやむしろその中にすっぽり包まれるようにして、しっかり立ち続けようではないか、とパウロは伝えます。

「雄々しく、強くあれ」という語があります。これも、実は聖書において、何度か出てくる、励ましの言葉です。特に、旧約においてもこの二つの連なる語がでてきます。パウロ自身が、そのみ言葉に励まされながら、歩んできたのではないでしょうか。

特に、詩篇第31編の言葉を、パウロ自身が大事に読んでいたであろうことが分かります。なぜなら、この詩編のメッセージは、まさにコリント教会の皆に伝えるべきメッセージであり、そのことを念頭に、この励ましの言葉をパウロが記したであろうと、分かるからです。

詩編31編24節から。

すべて主に忠実な者たちよ、主を愛せ。主は真実な人を守り、高ぶる者には厳しく報いる。勇ましくあれ、心を強くせよ、主を待ち望む人は皆。

コリントの信徒への手紙では、自分たちの知識を求めて、それを誇ってしまった者を正す言葉も記されていました。

私たちにとって大切なものは、知識ではない、神さまに愛されていることを知ることではないか。そして、その神さまを愛することこそが、もっとも大切なことではないか。神さまから与えられた愛を、行っていくことこそ、その愛に生きることこそが、もっとも偉大な賜物ではないか、とこの手紙は伝えていたのです。

だからこそ、「主を愛せ」「勇ましくあれ、心を強くせよ」という詩編をまるで引用するように、パウロは言葉を連ねたのです。

そして、この手紙の中心とも言えることを、パウロは命令します。

何事も愛をもって行いなさい。

すべてを愛のうちに行いなさい、という強い命令の言葉です。

多くの問題と課題を抱えていたコリント教会にとって、一番大切なものとして伝えられていたことが愛でした。その愛を行うことを、パウロは全力で伝えているのです。

これらの励ましの言葉を、パウロは伝えていた。そこには、深い思いが込められていたのです。

コリント教会の者たちが、どれほどの思いでこの言葉を受け取ったかは、返事が残っていないから、分かりません。しかし、心を打たれたであろうことはわかります。

なぜなら、私たち自身が、これらの言葉を受けて、心打たれるからです。

私たち自身も、コリント教会と同じように、欠けがあり、また課題がある群れです。

目をさましていると言えるだろうか。信仰にしっかりとたっているだろうか。強く雄々しいといえるだろうか。愛を行えているだろうか。

いや、むしろ、私たちは、眠りこけるように、自分が神さまから与えられた使命から離れてしまう者だった。信仰に固くたつどころか、この世の基準と、自分の思いに流されてしまう。強く、雄々しいどころか、恐れに囚われで、憂鬱になってしまうことがたくさんある。教会の未来においても、希望ではなく、不安ばかりを持ってしまう。隣人を愛するどころか、愛せず、無関心になり、蔑ろにし、憎んでしまう。呪われてもおかしくないほどの者たちです。いやむしろ呪われてもしょうがない者たちだった。

しかし、その私たちを、主イエスは愛してくださった。欠けだらけで、自分だけを中心としてしまい、神さまから離れてしまう私たちをも、イエスさまは愛して、その命を恵みとして、十字架でくださったのです。

この手紙の第1章が、その主の恵みを、救いを、招きを感謝して始まっていました。

1章4節から。

私は、あなたがたがキリスト・イエスにあって与えられた神の恵みのゆえに、いつも私の神に感謝しています。あなたがたはキリストにあって、言葉といい、知識といい、すべての点で豊かにされたからです。こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、私たちの主イエス・キリストが現れるのを待ち望んでいます。主も、あなたがたを最後までしっかり支えて、私たちの主イエス・キリストの日に、非の打ちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。この方によって、あなたがたは神の子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。

私たちは、この主の招きに、救いにもう入れられた者として、信仰が与えられています。その信仰の中で、初めて私たちは目をさまし、立ち、雄々しく、強く、愛を行うことになるのです。

聖書は、そのように主の励ましの中で、再び立ち上がらされた者たちの証しの書でもあります。ヨシュアが、ダビデが、パウロが、コリント教会の者たちが。

その先頭には、十字架で一度死なれ、復活してくださったイエスさまがいてくださいます。

私たちも。私も。

欠けがたくさんある。

課題もある。

しかし、それらもすべて神さまにささげたうえで、初めて、私たちは目を主へと向けて、力強く愛を行うことができるのです。

教会は、そのように目を覚まし、信仰に固く立つ群れです。強く、雄々しく、愛を行っていく群れです。そのような歩みを続けながら、主イエスが再びきてくださるのを待つむれです。

主イエスの恵みが、教会と共にあります。主の愛にあって、私たちは主よ、来てくださいと祈り、賛美をささげ続けます。