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主イエスよ、振り返ってください

2023年5月14日

川崎 公平
マルコによる福音書 第5章21-34節(I)

主日礼拝

■マルコによる福音書第5章の21節から34節までを読みました。もともと今日は第5章の終わりの43節までを読むと予告していたのですが、途中で切りました。お気づきのように、ここにはふたつの物語が、互いに絡み合うように記されます。会堂長ヤイロという人の12歳の娘が、死にそうになっていた。そして実際に死んでしまった。けれどもその娘の手を主イエスが取って、生き返らせてくださったという物語の途中に、もうひとつの物語が飛び込んでくるのです。ヤイロの家に向かう主イエスを見て、人びとは何かが起こりそうだと期待したのでしょう。おびただしい群衆が、「イエスに押し迫りながら付いて行った」と、24節には書いてあります。ところが、その押し合いへし合いしている群衆の中に紛れて、12年間病気に苦しんできた女性が主イエスの衣にそっと触れたという物語が、ここに差し挟まれるのです。本当は、このふたつの物語の結びつきを大切にしながら読むのがよいのかもしれませんが、今日はこのあと教会総会もあり、あまり長い話をするわけにいきません。それで今日はひとまず34節までを読みたいと思います。

■いろんな意味で、私どもの心を打つ物語だと思います。12年間、病気に苦しんできたひとりの女性が、「せめて、この方の衣にでも触りさえすれば」と思って、そして実際に癒されたというのですが、何と言っても興味深いことは、30節で、「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気付いて、群衆の中で振り返り、『私の衣に触れたのは誰か』と言われた」というのです。しかしそれはおかしな話で、その次の31節でも弟子たちが言っているように、おびただしい群衆が主イエスに押し迫っているのです。ただ満員電車に乗っているような状態ではなくて、そこに押し迫っている群衆は皆、主イエスに興味津々なのです。したがって、中には、「わ、おれ、今イエスさまと体ぶつかっちゃったよ」と、変にウキウキしている人だっていたかもしれません。ところが主イエスの方からご覧になると、本当の意味でわたしに触った人はひとりしかいない。「自分の内から力が出て行ったことに気付いて」と書いてあります。自分の内から力が出て行くような、そういう触り方をした人が、今この中にいる。その人は、いったいどこにいるのかと、お探しになったというのです。

私どもの信仰生活というのは、主イエス・キリストと共に生きる生活です。主イエス・キリスト、このお方だけが、大事なんです。そして改めて思うのです。「私に触れたのは誰か」。そう言って探してもらえるような信仰生活を、いったい私どもはしているでしょうか。今申しましたように、いつも主イエスのいちばん近くにいた弟子たちも含めて、無数の人が主イエスに関心を持っているのです。そして実際に、主イエスの体に触れてさえいるのです。ところが主イエスの立場からご覧になると、いちばん近くにいる弟子たちをも含めて、ひとりも本当の意味で主イエスに触れてはいないのです。ところが、たったひとり、本当の触り方をした人がいる。その人はどこにいるかと、主イエスは懸命にその人をお探しになったというのですが、そのように主イエスに探してもらえるような信仰生活でなかったとしたら、どうしようもないと思うのです。

主イエス・キリストに触れると言っても、分かりにくいかもしれません。「キリストと共に生きる」とか、「キリストと交わる」とか言えば、少し分かりやすくなるかもしれません。しかしどのように言い換えても、正直に申しまして、私どもにはいつも一種の心もとなさが残るのです。自分は本当に主イエスに触れているだろうか。まだ十分にキリストと交われていないのではないか。だとしたら、いったい自分の信仰生活をどういうふうに改めたらいいんだろうか。それでたとえば、そりゃあ何と言っても祈らないと話にならんだろう。聖書も真面目に読まなきゃいかんだろう。自分をささげるようにして教会の奉仕も頑張らないといけないだろう。そういうことをしているうちに、何だかだんだんと主イエスに近づけた気がする。前よりも深く主イエスと交われているような気がする。と、そのように、私どもは案外いろんなことを考えるのですけれども、考えれば考えるほど、ひとりよがりになってくるかもしれません。

ひとりよがりの信仰生活ほど、たちの悪いものはないかもしれません。ひとりよがりでないというのはつまり、自分ひとりが良かれと思いこんでいる信仰生活ではなくて、主イエスが振り向いてくださるような信仰生活ということです。繰り返しますが、ここで主イエスに振り返っていただけるような触り方をしたのは、この女ひとりだけであった。しかも主イエスは最後に、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言ってくださっています。「あなたの信仰」です。本物の信仰をもって、主イエスと本物の交わりを作ることができたのは、少なくともここではこの女ひとりだけであった。私どもは、主イエスに振り返っていただけるような、そういう本物の信仰に生きることができているでしょうか。ここにひとつの、大切な問いが生まれると思うのです。

■皆さんもお気づきのように、私はいつも、わりと丁寧に準備した原稿を読みながら説教をしています。何日も前から、ああでもない、こうでもないと、一所懸命準備をします。そしていつもそういうときに、皆さんの顔を想像します。こういうことを言ったら、あの人はこういう顔をするだろうな。こんな下手な話し方じゃあ、あの人はうつむいてしまうだろうな。でもこういう話し方をしたら、きっと顔を上げて聞いてくださるに違いない。そういう予想をしながら、原稿を準備しているつもりなのですが、そこで私が考え込んでしまったことがあります。

「主イエスに振り返っていただけるような触り方をしたのは、この女ひとりだけ」。「本物の信仰をもって主イエスに触ったのも、ひとりだけ」。もしも、もしも仮にです、この礼拝に、あの12年間の病を癒されたご本人がいたとしたら、すごく困るだろうな、顔を真っ赤にしてうつむいてしまうだろうな、と思ったのです。下手をしたら礼拝のあと、「先生、ちょっとお話いいですか」と呼び止められてしまうかもしれません。「わたしの話は、そういうことじゃないんです」と、訂正を求められるかもしれません。「わたしの信仰じゃないんです。わたしの触り方とか、そんな問題じゃないんです。でも、イエスさまが振り返ってくださったんです。わたしはむしろ、絶対に気づかれたくなかったんです。先生、さっき礼拝で、『キリストと交わる』とか言いましたよね。でも、わたしはね、むしろ絶対に交わらないように、ちょっと触ったらすぐ逃げるつもりだったのに、それなのにイエスさまが振り返ってくださって……。『あなたの信仰が』と言われたとき、本当にびっくりしちゃった。今でも信じられないんです。わたしの信仰なんて!」 きっと、そういうことになるだろうと思います。

けれども、事実主イエスは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言ってくださったのです。したがって、今私どもに求められているのも、〈信仰〉でしかないのです。信仰がなかったらだめなんです。その場合の〈信仰〉って、しかし、いったい何でしょうか。

■12年間、この女が苦しんだ病気というのは、12年間、出血が止まらないという病気であったと書いてあります。もちろんこれは、女性特有の出血が止まらないという意味です。肉体的にもつらかっただろうと思いますが、もっとつらかったことは、その当時この病気が社会的・宗教的な汚れを意味したということです。その人が寝た寝床も汚れている。その人が座った椅子も汚れている。その椅子にほかの人がうっかり座ったら、その人にも汚れがうつる。それで彼女は、友達にも会えなくなりました。一緒に住む家族はいたとしても、厳しく隔離されて生活していたに違いありません。もしかしたらいちばんつらかったことは、礼拝に行けなくなったことかもしれません。すべての人との交わりを失いました。すべての触れ合いを奪われました。そんな生活が12年も続いたら、気がおかしくなっても不思議ではありません。けれども彼女は、あきらめずに多くの医者にかかりました。こういう病気で医者にかかるというのは、それこそ肉体的にも精神的にもつらい思いをしたでしょう。「多くの医者からひどい目に遭わされ、全財産を使い果たしたが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった」。東に有名な厄除けがあると聞けば飛んでいき、西に効き目のあるまじない師がいると聞けば出せるだけのお金を出しただろうと思います。

そんな彼女の耳に、イエスという不思議な力を持った人の噂が飛び込んできました。せめてこの方の衣にでも触れれば、何かが変わるかもしれない。それで、彼女は勇気を振り絞って、顔を隠して、群衆の中に紛れ込み、きっとぶるぶる手を震わせながら、うしろからそっと主イエスの服に触れました。そうしたら、なんと、即座に病気が治りました。「え? ええ?!……あ、そうだ、逃げなくっちゃ」。「ひとりよがりの信仰は意味がない」と申しましたが、そういうことを言うならば、この女の信仰こそ、ひとりよがりの最たるものではないかと、言おうと思えば言えるのです。病気が治った、さあ逃げようなんて、本当にそれが信仰なのか、本当に神の子キリストを信じる気があるのかと言われたら、この女は返す言葉もなかったと思いますし、実は私どもの信仰だって、この女と比べてひとつも偉いところはないのです。

けれどもここで起こった最大の出来事というのは、この女がどれだけ深く神を信じたかということではないし、病気が治ったということも実はそれがいちばんの問題ではないのです。何よりも決定的であったことは、主イエスがこの女の手を感じ取ってくださったということだと思うのです。押し寄せる群衆の中で、たったひとり、そっと後ろから衣に手を触れた、この女の小さな手に気づいてくださった。その祈りに気づいてくださった。その祈りだって、祈りと呼べるような高尚なものでもなかったかもしれないのです。ところが主イエスは、そのような病気の女の小さな手を通して、「自分の内から力が出て行った」というほどに、その悩みを受け止めてくださいました。祈りにもならない祈りを、全身で受け止めてくださいました。私どもひとりひとり、実は既に、このような奇跡を経験しているのではないでしょうか。

この女は、12年間病気で苦しんだというのですが、きっと皆さんにも、そういう祈りの歴史があると思うのです。そこで大切なことは、そういう悩みの中で、どれだけ立派な祈りができるか、どれだけ立派な信仰生活ができるかという話ではないのです。それぞれに祈りの歴史があるだろう、などと申しましたが、私どもの生活というのは、本当はそんなご立派なものではないんです。誰に何を祈ったらいいのか、分からないままに、ただもがいているだけ、ただ闇雲に小さな手を振り回しているだけかもしれません。あの長血の女の12年間だって、決して美化できないようなものがあったと思うのです。人には言えないような苦しみの中で、必死にもがきながら、何よりも罪を犯し続けた12年間であったのではないかと、私は、本当にわがことのようにそう思うのです。けれども、そんな私の小さな手を、罪に汚れた小さな手の祈りを、主イエスが背中で感じ取ってくださるなら……そこに信仰が生まれます。

■主イエスは振り返ってくださいました。「私に触れたのは誰か」。この女は、心臓が飛び出るくらいびっくりしただろうと思います。状況的に考えて、逃げようと思えば逃げることもできただろうと思います。人ごみに紛れて、知らんぷりをすれば、たぶん誰にもばれなかったのです。事実弟子たちは、「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『私に触れたのは誰か』とおっしゃるのですか」。そんなの、分かるわけがないでしょう。そう考えたのですが、この女は、自分はもう逃げられないのだと悟りました。なぜなら、この方は、神だから。33節には、「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し」と書いてあります。しかしそれは、どんなに幸せな恐れであったでしょうか。神ご自身に他ならないお方が、振り返ってくださったのです。わたしのために、神が立ち止まってくださったのです。そしてわたしのことを、神が懸命に探しておられるのです。恐ろしくなり、震えながら進み出たというのは、当然のことであります。

そしてこの女は、「すべてをありのまま話した」と書いてあります。12年間の苦しみを語るその言葉は、滔々として尽きることがなかったかもしれませんが、もしかしたら逆に、多くを語る必要も感じなかったかもしれません。語らずとも、このお方は実は全部知っていてくださる。こうして彼女は、もともと自分が望んでいた願いの、何万倍もの恵みを受けることができました。神の子キリストの前に立つことができたのです。

このような聖書の記事を読んで、つくづく思わされることは、信仰というのは決して私どものものではないということです。信仰とは、主イエスの側の事柄です。主イエスが立ち止まってくださる。私どもの小さな手に気づいて、振り返ってくださる。そして見つかるまで、私どもを探してくださる。語りかけてくださる。そこに信仰が生まれるのです。事実、私どもは今、主イエスを信じているではありませんか。そういう私どもに向かって、主イエスは、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。病苦から解放されて、達者でいなさい」。そう言ってくださるのです。

■ここから先は、私の想像でしかありませんが、この女は、事実、安心して出発することができたと思います。「安心して行きなさい」というのは、直訳すると「平和の中に行きなさい。平安の中に向かって行きなさい」という言葉です。そして事実、この女の行くところ、行くところ、どこであってもそこには平安があったと思います。それは、12年も病気をし、差別されていたのですから、ここから生活を立て直すのだってたいへんだったかもしれません。しかし平安の中に出て行き、死ぬまでその平安が彼女を離れることはなかったと思います。「あなたは、平安の中へと出発するのだ」。その主イエスの言葉が、一生涯、彼女の心の中に響き続けたと思います。死の間際まで、いや、死を超えて、その主の御声を聞き続けたと思います。

「平和のうちに行きなさい」。しばしばこの言葉は、礼拝の最後に牧師が告げる祝福の言葉としても用いられました。私どもの教会では、表面上はそういう言葉を用いませんが、実質的には同じことだろうと思います。私どもの教会の用いる祝福の言葉の中に、「主が御顔の光であなたがたを照らし」とあります。主が御顔を向けていてくださるのです。もしも、私どものどんな病気が治ったとしても、どんな悩みが解決したとしても、あの女が後ろから主の衣に触れたとき、もしも主イエスが振り返ってくださらなかったら……もしも、今も主イエスが振り返ってくださらなかったら、私どものしているこの礼拝は、この世でいちばんみじめな集団になるだろうと思います。けれども事実、主は御顔の光で私どもを照らしてくださって、そして「安心して行きなさい、あなたは平和のうちに出て行くのだ」と私どもを送り出してくださいます。今私も、牧師として心より皆さんに祝福を告げます。主イエスが振り返ってくださるのですから、平和のうちに出て行きましょう。お祈りをいたします。

 

主イエス・キリストの父なる御神、あなたの御顔の光に照らされて、今私どもはみ前に立ちます。祈りとも呼べないような祈りに時間を費やし、信仰とも呼べないような信仰を無残にさらけ出しながら、しかし今は、主の恵みの前に立ちます。感謝して、主のみ名によって祈ります。アーメン