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嵐の中に眠るイエス

2023年4月23日

川崎 公平
マルコによる福音書 第4章35-41節

主日礼拝

■マルコによる福音書第4章の最後の部分を読みました。最初のきっかけは、弟子たちにとって思いがけないことであったと思いますが、突然主イエスが「向こう岸へ渡ろう」と言われたので、主イエスと12人の弟子たちは一緒に舟に乗って、ガリラヤの湖に漕ぎ出しました。そうしたらたいへんな嵐が起こって、もうだめかもしれないと思ったときに、なんと主イエスはその舟の中でぐうぐう眠っておられたというのです。弟子たちは大慌てで、「先生、わたしたちが死んでもどうでもいいのですか」と言って主イエスをたたき起こすと、主はひと言、「黙れ、静まれ」と嵐にお命じになり、今度は逆に弟子たちが、「どうして怖がるのか。あなたがたには信仰がないのか」と叱られてしまいます。筋書きとしてはたいへん簡単な話ですが、さまざまな思いを呼び起こされる聖書の記事だと思います。

この記事においてひとつ際立っていることは、ここにさまざまな問いが満ちていることだと思います。表立って問いの形になっているところだけ取り出しても三つの問いの文章を見つけることができます。まず38節に、「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」という弟子たちの問いがあります。キリストへの問い、究極的に言えば私どもの神に対する問いであると読むこともできます。「神さま、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」。そうしたら逆に主イエスから、「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか」(40節)と問い返されてしまいます。これもまた、神からの問い、キリストからの問いであります。私どもも問われるのです。いつも、問われているのです。「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか」。そうして嵐が静まったら、当然またそこに新しい問いが生まれます。「一体この方はどなたなのだろう。風も湖さえも従うではないか」(41節)と、もっと大きな問いをもってこの記事は閉じられるのです。

主イエス・キリストというお方の存在そのものが、私どもにとっての大きな問いかけであると思うのです。いつでも主イエスは、私どもの前に、大きな問いをもって立っておられる。そのために、主は私どものところにおいでになったのです。「なぜ怖がるのか。あなたには、まだ信仰がないのか」。その問いの前に誠実に立つことがなければ、そして私どももこのお方に対して、「一体この方はどなたなのだろう」と真剣に問うことがなければ、何をどう考えても、どういう理屈をこねてみたとしても、本当の意味でこの聖書の記事を読んだことにはならないだろうと思うのです。

■ここで何と言っても強烈な印象を残すことは、主イエスが嵐の中で眠っておられたということです。弟子たちは、正気を失ったように主イエスをたたき起こし、そしてまた正気を失ったようにしつこく問うただろうと思います。「先生、起きてください。どうして寝てるんですか。あり得ないですよ。わたしたちが溺れ死んでもかまわないのですか」。この弟子たちの問いは、私どもにもよく理解できるのです。

舟が沈みそうになったとか、嵐が奇跡的に静まったとか、こういう聖書の話を読みますと、いかにも現実離れしたような、特に21世紀の日本のような場所で生活しておりますと、どう考えてもこれは自分の生活とは関係ないとお考えになる方もあるかもしれませんが、絶対にそんなことはありません。私どもの生活には、それがどんな生活であったとしても、いつでも危機があり、嵐があるものです。それは昔も今も、どんなに貧しい人であってもどんなに豊かな人であっても、ひとつも変わることはありません。

いろんな嵐が起こったり、あるいは不思議なしかたで嵐が静まる経験をしたり、その嵐が静まる静まり方だって、自分が期待していたのとは全然違っていたり、そういうことがあるたびに、人間というものは、その本性を表してしまうものです。つまり、嵐が起こったり静まったりする、そのたびに、その人が何を怖がっているか、あるいは何を信じているのか、あるいは何を信じていないのか、そういう意味で私どもの弱さとか、不信仰とか、あるいはその人の罪深さとか、そういったものが全部暴露されるということが起こると思うのです。

経済の危機に直面したときに、実は自分がどんなにお金を信じていたか、どんなにお金というものに依存していたか、それが明らかになってしまうということだってあるでしょう。自分の名誉が危機にさらされたというときに、自分がどんなに名誉欲に捕らわれていたか、その意味で自分が何を恐れているのか、何に信頼を寄せているのか、自分でも気づかなかったような自分の本性に気づかされるということが、きっとあるだろうと思うのです。

そういう私どもの生活の、いちばん根本的な問題は、結局のところ「怖い」ということではないでしょうか。もしも、「怖い」という感情さえ正しく克服できれば、私どもの問題の99パーセントは解決するのではないかと思うほどです。主イエスは、「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか」と言われるのですが、私どもには信仰がないために、つまり神を信じていないがために、いろんなものを怖がるのです。貧乏が怖い。病気になるのが怖い。悪口を言われるのが怖い。何と言っても、ほかの人が怖い。ほかの人の目が怖い。ほかの人の顔色が気になる。もちろん隣人の表情をよく観察して、できるだけの配慮をすることは人間として当然のことであります。周りの人が泣いていようが怒っていようが俺は気にしない、というのは、ただのわがままでしかありません。ところが問題は、私どものいちばん根本的なところに神を信じない不信仰があり、その不信仰に根差す恐れがあり、だからこそ主イエスは私どもにも、「なぜ怖がるのか。あなたには、まだ信仰がないのか」とお問いになるのです。いつも問われているのです。

嵐の中で眠っておられた主イエスのお姿というのは、それ自体が私どもに対する強烈な問いかけなのだと思います。つまり、私どもが怖がっているものを、主イエスはちっとも怖がっておられないのです。「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか」。もちろん主イエスは、わざと弟子たちの信仰を試すために、意地悪をして、眠ったふりをなさったわけではないでしょう。本当にお疲れだったから、嵐の中でも眠っておられたのです。しかしそこには、神を信じて生きる人間の姿が見事に現れておりました。そのお方が、今私どもにも問われるのです。「なぜ怖がるのか。何も怖がることはないじゃないか。あなたは、何を信じているのか。誰を信じているのか」。ここには「〈まだ〉信仰がないのか」と書いてあります。「まだ」というのは、いつかは信仰を持ってほしいという期待の表れでもあるかもしれません。

■しかし少なくともそのときの弟子たちには、まだ、そのことが分かりませんでした。嵐の中で主イエスが眠っておられる姿を発見したとき、弟子たちはむしろますますその不信仰を募らせてしまいました。もちろん主イエスは、先ほども申しましたように、弟子たちの教育のためにわざと狸寝入りをしたわけではないのです。恐れからも不信仰からも解き放たれた、いつも通りの生活を舟の上でも続けておられただけなのです。ところがその姿を弟子たちが見たとき、ああ、このお方はわれわれが溺れ死んでも、どうだっていいんだ、としか考えることができませんでした。

こういう弟子たちの思いを、私どももよく理解できると思います。私どもも、いろんな嵐に遭うたびに、もちろん一所懸命祈ることもあるでしょう。けれども、その祈りが真剣であればあるほど、そこに不信仰が忍び込んでくるものです。どんなに祈っても、嵐はいっこうに収まりません。ですから、祈れば祈るほど、何だか神さまに無視されているように思うのです。わたしがこんなに恐れているのに、わたしがこんなに祈っているのに、きっと神さまはぐうぐう眠っておられるんだ。私どもは、自分自身が薄情な人間なものですから、何だかんだ言ってやっぱり自分がいちばんかわいい、愛のない人間であることを自分でもよく分かっておりますから、きっと神さまも同じだろうと考えるのです。自分が溺れ死のうが、きっと神さまにとってはどうでもいいんだ。「神さま、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」。そのようにして、弟子たちの本当の姿が暴露されてしまいました。恐れと、不信仰と。人間の本性が、嵐の中で暴露されるということが起こりました。

■この聖書の記事を読みますときに、もうひとつこういうことを問う方もあるかもしれません。なぜここで弟子たちは嵐に遭ったかというと、もともとのきっかけは、主イエスが弟子たちに、「向こう岸に渡ろう」と声をかけられたところから始まっていたのです。そこにも大きな問いが生まれるかもしれません。つまり、弟子たちを嵐の中に連れ込んだのは、主イエスなのです。陸地でおとなしくしていたら、嵐に遭うことはなかったのです。何で、わざわざ? これはどうも屁理屈のようですが、案外大切な問いだと思います。

古来教会は、自分たちを一艘の舟にたとえてきました。この福音書の記事において嵐に遭った舟も、いやこの舟こそが、すなわちわれわれ教会の姿であると読んできたのです。ここにいる皆さんも、主イエスに招かれて、この舟に乗り込んだのです。そしてこの舟に乗って、主イエスと共に、湖を渡っていくのです。実際に教会の歴史の中で、教会堂を建てるときに舟の姿を思わせるようなデザインが用いられることもありました。しかしこれは、「大船に乗った気持ちで」というような話とは何の関係もありません。舟の上というのは、むしろ、これ以上不安定な場所はないかもしれません。

なぜ教会が、そんな不安定な舟にたとえられるのでしょうか。ある人はそのことを説明して、「教会はこの世に基盤を持たないのだ」と言いました。この世に基盤を持つような教会は、教会ではない。教会は、神だけに基盤を持っている。それは信仰の理屈から言えば、いちばん確かな生活の場所を与えられているということになるのかもしれませんが、現実にはこんなに苦しいことはないだろうと思います。この世に基盤を持っていないがために、いろんな嵐に遭ったときに苦しい思いをするのです。地上にとどまっていればまだ、多少の嵐に遭ったとしてもいろいろな手立てを探すことができたかもしれないけれども、この舟にいたら、この舟以外には何も頼れるものがないのです。

だがしかし、まさにそこで、私どもの正体が明らかになるのではないでしょうか。

先ほど、嵐の中で、舟の上で、人間の本性が暴露されるのだと申しました。〈本性〉という日本語は、ふつうはよい意味では使わないでしょう。しかしここで暴露される人間の本当の姿というのは、もしかしたら、必ずしも悪い意味ばかりではないかもしれません。この舟とは教会のことだと申しましたが、本当はすべての人間が、実に不安定なところに立っているのです。平穏なときには偉そうに、落ち着きはらった顔をしている人間が、けれどもいろんな嵐に遭うときに、まるで自分が大海原のど真ん中で、たったひとり小さな舟に乗って、どこに流されていくのか分からないような、それが実は自分自身の本当の姿である。生まれたままの丸裸の自分というのは、結局そういう存在でしかないのだということに気づかされることが、きっとあると思うのです。弟子たちは、主イエスと共に舟に乗ることによって、いやでもそういう意味での本当の自分の姿に気づかされてしまいました。けれども、教会という小舟に乗っている私どもは、同時にもっと大切な事実を知っています。この小舟に、主イエスが一緒に乗っていてくださるという事実です。

いったい、このお方は何者なのでしょうか。一緒に舟に乗って、このお方は、私どものために何をしてくださるのでしょうか。そのことを学ぶために、ここに出てくる主イエスの弟子たちは、敢えて嵐の中に漕ぎ出させられるという、訓練を受けました。私どもも同じ訓練を受けるために、主イエスの教育を受けるために、ここに集められているのです。自分が何者であるか。自分が本当は、何を怖がっているのか、何を信じているのか、何に依存しているのか。そしてそういう自分が、いかなる舟に乗っているのか。この舟に、一緒に乗っていてくださるのがどなたなのか。そのことを学ぶための、主イエスの教育を、私どもはこの舟の上で、すなわちこの教会において受けるのです。

■しかしそれにしても、弟子たちはこの嵐の中、ずいぶん強烈な訓練を受けたものだと思います。繰り返しますが、嵐の中で、主イエスは眠っておられたというのです。いくら何でも、あり得ません。いったい、私どもはここから、何を学び取ればよいのでしょうか。これは決して、簡単な問いではないと思うのです。「われわれは何を学び取ればよいのでしょうか」という言い方が分かりにくければ、ここで弟子たちは、本当はどうするべきであったのでしょうか。もしこの場にわたしがいたとしたら、どうすればよかったのでしょうか。弟子たちは、眠っている主イエスをたたき起こしてしまったために、その不信仰をなじられているのです。「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか」。弟子たちは、まだ信仰の訓練が足りなかったようなのです。それなら、もし私どもが十分に信仰の訓練を受けたなら、どうするべきなのでしょうか。これは簡単なようで、実はたいへん難しい問いだと思うのです。

いちばん安易な答えは、たとえばこういうことです。「世の中にはいろんな嵐がある。でも大丈夫。イエスさまが同じ舟に乗っていてくださるんだから、苦しいとき、泣きたいときには、この弟子たちのようにお祈りをすればいい。『助けてください』と、イエスさまを呼べばよい。そうすれば、ほーら、嵐はすっかり止んで……」。けれどもおそらく皆さんは、そんな幼稚な牧師の話に引っかかることはないと思います。「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか」と、主イエスは弟子たちの不信仰を戒めておられます。弟子たちには信仰がなかったから、だから眠っている主イエスを起こしてしまったのです。

しかし、そうすると、どういうことになるのでしょうか。「お祈りなんかしちゃいかん」ということでしょうか。もちろん、そんなことは考えられません。私どもも、さまざまな嵐に遭うのです。世の荒波の中でにっちもさっちもいかなくなる経験を、いくらでもするのです。そういうときに、神を信じる私どもは、もちろん祈ります。信じていないから祈るわけではありません。少なくとも自分では、神を信じているからこそ、祈っているつもりなのです。けれども問題は、その私どもの祈りに、いつも不信仰がこびりついているということです。その不信仰に根差す恐れが、私どもの存在を支配しているということです。

ところがそこで私どもが心打たれることがある。弟子たちの叫びは、確かに不信仰の叫びでしかなかったのです。神を信じない者のぶざまな姿でしかなかったのです。ところがその信仰なき叫びに応えて、主イエスは立ち上がってくださいました。だからこそ、私どもも祈ることができるのではないでしょうか。完全な信仰、絶対に主イエスに叱られることはない、完璧な信仰を持った人しか祈りをしちゃいかんということになったら、いったい誰が神に祈ることができるでしょうか。何十年教会生活をしていたって、私どもの不信仰が癒されることは、なかなかありません。こわがりで、自分勝手な私どもの祈りは、神さまからしたら、「神さま、わたしは神さまなんか信じておりません」というような、まるで不信仰の表明のような祈りにしかなっていないかもしれないのです。ところがここで主イエスが弟子たちの不信仰の祈りに応えて嵐を静めてくださった、その出来事を学ぶとき、私どもは新たな問いの前に立たされるのだと思うのです。

弟子たちは非常に恐れて、「一体この方はどなたなのだろう。風も湖さえも従うではないか」と互いに言った(41節)。

「弟子たちは非常に恐れて」と書いてあります。嵐を恐れるよりも、ずっと大きな恐れに捕らえられたのです。「一体この方はどなたなのだろう。風も湖さえも従うではないか」。私どもも、同じように、主の弟子としての訓練を受けていきます。その訓練とは、「一体この方はどなたなのだろう」と、そのことを問い続け、学び続ける訓練です。その弟子たちの訓練は、福音書の終わりまで続きます。

■ある牧師がこういうことを書いています。ここで弟子たちは嵐を恐れた。そしてその嵐の中で眠っておられる主イエスの姿に驚き、これを起こそうとした。ところが福音書を最後まで読み進めていくと、主イエスと弟子たちの立場がちょうど逆になる。そのことに気づいているか、とその牧師は書くのです。マルコによる福音書第14章の32節以下に、ゲツセマネという地名が出てきます。その場所で、主イエスは十字架につけられる前の晩、身もだえするほどに苦しみ、恐れ、悲しみながら祈られたというのですが、その横で弟子たちはぐうぐう居眠りをしていたというのです。「父よ、あなたには何でもおできになるはずです。どんな嵐だって、静めることがおできになるはずです。それならば、どうか十字架だけは勘弁していただけないでしょうか。お父さん、お父さん、こわいんです」。主イエスは、死ぬほど怖がっておられました。他の福音書を読むと、主のお体からは、血の滴りのように汗がだらだら流れたと書いてあります。主イエスはそういう祈りをされながら、弟子たちにも、頼むからわたしと一緒に目を覚ましていてくれとお願いをされました。考えられないことではないでしょうか。

そこでこの牧師は、さらにこういうことを書いています。弟子たちは嵐を恐れた。しかし神の裁きを恐れなかった。主イエスは神の裁きだけを恐れた。だからこそ、湖の嵐を恐れることはなかったのだ。そのようにして主イエスがお受けになった神の裁きというのは、本当は、神なんか信じないと言ってはばからない、私どもの罪人の受けるべき裁きを、このお方が代わりに受けてくださったのです。そして最後には、十字架の上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(第15章34節)と、大声で叫ばれました。その主イエスの叫びは、あの舟の上にいた弟子たちの叫びとまるでそっくりです。わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのですか。神さま、わたしがこんなに恐れているのに、神さま、どうしてあなたは眠っておられるのですか。それほどの深い絶望を、神の子イエスが私どもの代わりに担ってくださったことを思うとき、私どもの不信仰が実はどんなに深い主の真実によって支えられているか、そのことに気づかされます。

そして、この主イエスを神が死者の中から甦らせてくださったとき、そのとき弟子たちは初めて、あの嵐の中での出来事を、正しく受け止めることができました。「一体この方はどなたなのだろう。風も湖さえも従うではないか」。風がどんなに強くても、それを造られたのは神。死の力がどんなに強そうに見えても、その死の力も、神に服従させられるのです。

そのお甦りの主イエス・キリストが、今も私どもの前に立っておられます。そして、私どもにも問いかけておられるのです。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。今はもう、このお方を信じるほかないのであります。祈りをいたします。

 

お甦りの主、イエス・キリストの父なる御神、あなたこそがすべての主でいてくださいます。どんなに嵐が強くても、私どもは、主と共に舟を進めるあなたの弟子の集まりです。いつも共にいてくださる主のお姿に気づかせてください。いつまでたっても、あなたを信じようとしない私どもなのです。「まだ信仰がないのか」とのみ声を、深い痛みをもって聞き続けることができますように。あなたこそ私どもの神、私どもの救い主です。感謝し、主のみ名によって祈り願います。アーメン