1. HOME
  2. 礼拝説教
  3. イエス・キリストの体

イエス・キリストの体

2023年3月5日

川崎 公平
コリントの信徒への手紙一 第11章23-29節

主日礼拝

■今日は、3月の第1日曜日であります。月の最初の日曜日ですから、いつものように主の食卓・聖餐を祝います。皆さんと一緒にパンと杯をいただきながら、主イエス・キリストの言葉を共に聴きます。パンを取り、「これは、あなたがたのためのわたしの体である」。ぶどうジュースの入った杯を取り、「これは、あなたがたのために流されるわたしの血、新しい契約の血である」。本当にわずかなパンとぶどうジュースでしかありませんが、まさにそこで私どもは主イエス・キリストの体と血をいただくのです。考えてみれば、ずいぶん不思議な儀式を、主イエスはお定めになったものだと思います。なぜ私どもは、このような食事を大切にしているのでしょうか。

今朝の礼拝のために、伝道者パウロの書いたコリントの信徒への手紙Ⅰの第11章を読みました。私どもの教会で聖餐を祝うときに、必ず読む聖書の言葉です。いつも礼拝で読み続けているマルコによる福音書の説教を今日だけは中断して、なぜこのような聖書の言葉を選んだかというと、今日が3月の第1日曜日だからです。私どもの教会の歩みが、パンデミックによって深刻な影響を受けるようになって、ちょうど3年がたちました。皆さんも、3年前の3月の最初の日曜日のことを覚えておられると思います。「なるべく礼拝には来ないでください」と、事前に呼びかけ、それなのに150名を超える人たちがこの場所に集まってしまったわけですが、讃美歌も歌わず、説教もごく短く、しかしいちばん厳しかったことは、その日に予定されていた聖餐を取りやめたことであったかもしれません。

しかもその後1年以上、私どもの教会はまったく聖餐を祝うことができなくなりました。3年前の春にこの場所で洗礼を受け――いわゆる病床洗礼ではありません。この礼拝堂で洗礼を受け、その後もこの場所で礼拝生活を続けたのです――けれども遂に一度も聖餐をいただくことなく、この世を去った仲間もいたのであります。厳しいことです。今は、感染対策にも細心の注意を払いながら、かつてとはずいぶん違ったスタイルで聖餐を祝うことができています。けれども今も、100人を越える教会の仲間たちが、YouTubeによる動画配信によって共に礼拝をしています。その人たちは、画面越しに聖餐の様子を見るだけで、聖餐のパンと杯をいただくことはできません。そのことを考えるだけでも、ますます問いは深まるのです。「聖餐って、いったい何だろう」。手に取ることができる、味わうことさえできる、それほどに明瞭なものでありながら、「これは、キリストの体です」と、そう言われると、たちまち私どもの小さな脳みそではとらえ切れなくなります。

今皆さんの前に用意されている聖餐のパンは、ただのパンです。聖餐のために特別に製造されたものではありますが、皆さんのご家庭にある食パンとかあんパンとかジャムパンとかと、本質的には何の違いもありません。それがなぜ、キリストの体であると言えるのか。そのことをめぐって、教会の歴史の中で何度も激しい論争が生まれました。そのために教会が分裂するということが、繰り返し起こりました。もとよりそれは、教会がこの主イエスの言葉をそれほどに大切にしたということでもあるのです。

「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」(29節)とも書いてあります。もしもこれが「主の体」であるならば、そのことをわきまえないような食べ方をした者が、神の裁きを招くのは当然ではないか。そうしたら、聖餐の余ったパンをうかつにごみ箱に捨てるわけにもいかなくなるかもしれません。うっかり聖餐のぶどう液をお洋服にこぼしたりしたら、「これ、普通に洗濯していいのかしら……」という恐れが生まれるかもしれません。「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は」。しかし、何をわきまえればよいのでしょうか。27節には、「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります」とも書いてあります。主が私どもに求めておられる「ふさわしさ」があるのです。いったい、それは何でしょうか。

■今読んだところからも推測できることですが、この手紙を書いた伝道者パウロは少なからず腹を立てております。事実その頃のコリントの教会に、「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする」という現実があったからです。その現状を具体的に伝えてくれるのが、少しさかのぼって17節以下です。18節では、「まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています」と言います。20節でも、「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです」。それはつまり、言い換えれば、「あなたがたのしている聖餐は、聖餐でも何でもない」。かなりきついものの言い方ですが、なぜかと言うと、21節以下。

なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。

その頃、コリントの教会の人たちは、可能な限り頻繁に集まって礼拝をしていたようです。日曜日が休日であるような社会はまだ生まれておりません。ですから、朝早く、仕事が始まる前に集まる。あるいは仕事を終えたあと、夜になってから集まる。そしてそういうときに、お互いに食べ物を持ち寄って一緒に食事をしたのです。その食事と、主の食卓・聖餐が分かちがたく結びついておりました。

けれども、この箇所から読み取れることは、全員が同じ時間に集まることは、どうしても難しかったらしいということです。それで、結果として、「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです」という事態が生じました。身分の高い人、裕福な人、ギリシアの身分制度で言うところの自由人たちは、余裕をもって早い時間から集まり、さっさと食事を並べて、けれども貧しい人たちはなかなかその時間に集まることができません。遅くまで働かなければならないのです。そこで、早くから集まった人たちは考えました。「そうだな、聖餐は大事だから、あいつらが集まるまで待っていてあげよう。けれども、自分たちの夕食なら、先に始めたって構うまい。どうせ遅くなるのは分かっているんだから、一杯やりながら、先にいただきましょう」。と、いうところに、やっとのことで貧しい仲間たちが仕事を終えて、おなかを空かせて集まってきます。でも、食事はほとんど残っていない。貧しい人たちが自分で持ち寄ってくる分も、たかが知れています。「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです」。

そういう状態で、「さあ、聖餐礼拝を始めましょう」と言ったところで、それが真実の主の食卓になるか。「あなたがたは、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。……この点については、ほめるわけにはいきません!」「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです」。あなたがたのしている聖餐は、聖餐でも何でもない! そう言うのです。

「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は」。そこでパウロが言おうとしていることは、「パンがキリストの体であるとは、神学的にどういう意味か」、そんな次元の話をしているのではないのです。「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は」と言うときの「ふさわしさ」とは、きわめて具体的な話で、「あなたは、あの人と一緒に、真実の共同体を作るのだ。キリストの体なる教会を作るのだ。なぜそれができないか」という話でしかないのです。「なぜあなたは、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせるのか。そんな状態で、どんなに立派な聖餐礼拝をしてみせたって、それは結局、『自分自身に対する裁きを飲み食いしている』だけだ」。

■今も、この場所に集まることのできない仲間たちがいることを思います。ことに、パソコンの画面越しに聖餐の様子を眺めるということは、もしかしたら、かえって寂しさを募らせることにもなるかもしれないのです。しかし、日曜日の礼拝に来ることのできない仲間たちがいるということは、別に感染症なんかなくたって、昔から存在した問題です。この3年間、コロナのおかげで、私どもはそのような仲間たちのことをより深く慮るようになったかもしれません。そのような兄弟・姉妹たちのために、より真剣に祈るようになったかもしれません。もしそうであるなら、感染症もあながち悪いことばかりではなかったかもしれません。

聖餐を祝うというときに、実はいちばん大切なことは、その食卓を造ることによって、真実の教会の交わりを神の前におささげすることなのです。それができているか。「だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」(28節)。教会のひとえだとされている自分自身を確かめるのです。そのための聖餐です。ですから、少し乱暴な言い方になるかもしれませんが、パソコンの画面越しに礼拝をしておられる方たちにもお願いしたいのです。画面越しであっても、聖餐を祝っている教会の姿をしっかりと見つめていただきたい。そのことによって、「わたしもまた、主の教会のひとえだとされているのだ」と、そのように「自分をよく確かめる」ことができるなら、それだけで既に聖餐の恵みはあふれるほどに与えられると、私は信じます。

■たいへん興味深いことに、この少し前の第10章16節以下では、パウロはこういうことも書いています。

わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。

この言葉とあわせて理解する限り、どうもパウロは、聖餐のパンがすなわちキリストの体である、とは言っていないようです。少なくともそれだけでは理解不十分です。ひとつのパンを共にいただき、ひとつの杯から共に飲むときに、「わたしたちは大勢でも一つの体」を作らせていただくのです。それが、〈キリストの体なる教会〉であります。

私どもの主イエス・キリストは、十字架につけられました。そしてお甦りになり、今も私どもと共に生きておられます。そのことが分かるためには、〈キリストの体〉が見えていなければなりません。その〈キリストの体〉を表すのが聖餐のパンであり、また聖餐のパンを共にいただく私どもの存在そのものが、〈キリストの体〉として用いられるのです。それが教会の存在意義です。だからこそパウロは、そのキリストの体に他ならないコリントの教会に仲間割れがあると聞いたときに、どうしても黙っていることができませんでした。聖餐礼拝の正しい祝い方を、一から教え直さなければならなくなりました。そのような手紙が、今私どものためにも残されているのです。

最初に申しましたように、聖餐をめぐって、教会の歴史の中で無数の議論が生まれました。なぜこのパンがキリストの体であると言われるのか。神学、哲学、聖書学、ありとあらゆる人間の知恵を注ぎ込んで議論が続けられました。その議論のすべてが無意味であったなどと言うつもりはありません。しかし、そこに大きな落とし穴もあったかもしれません。パンだけを取り出して、パンだけをひたすらに凝視して、「これがキリストの体であるとは、どういう意味か」と問い続けても、おそらく永久に答えは見つからないでしょう。聖餐を共にいただくことによって造られる主の体、すなわちキリストの教会を造るために、主はその命を注がれたのです。

したがって、あくまでたとえばの話ですけれども、聖餐のあとに残ったパンとぶどうジュースを間違ってごみ箱に捨ててしまったからって、ちっとも慌てる必要はありません。それはただのパンです。それ以上でもそれ以下でもありません。けれども、共にキリストの体を作っている兄弟を、姉妹を、ことに貧しい仲間を軽んじたり、傷つけたりするようなことがあるならば、それが神の裁きを招いたとしても当然ではないかと、パウロは書いているのです。このような聖餐の意義を、26節ではこのように言い表しています。

だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

聖餐のたびに、私どもは「主の死」を思い起こします。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書第15章13節)と言われた主は、その通り、私どものために命を捨ててくださいました。聖餐のパンを噛みしめながら私どもが知るのは、その恵みの事実です。わたしのためのキリストの十字架。しかしまたそれは、わたしの兄弟、わたしの姉妹のためのキリストの死であったのです。イエス・キリストは、あの兄弟のためにも死んでくださったのだ。あの貧しい姉妹のためにも命を捨ててくださったんだ。そのことを知る人間は、日曜日も仕事があったりして、やっとのことで教会の集まりに来れるか来れないかという仲間のことを忘れて、自分の満足だけを求めることはできなくなります。主の死を思いつつ、その恵みを告げ知らせながら、私どもは今ここに、教会の交わりを造らせていただくのです。

■そしてそれは、「主が来られるときまで」(26節)、つまりキリストの再臨の時までのことだとパウロは言います。私は聖餐の司式をするたびに、この言葉を読みながら言いようのない感動を覚えます。いつか必ず、主イエスはもう一度来てくださる。そのとき、既に召された者も皆復活させられて、たとえば最初に紹介した、3年前に洗礼を受け、けれども遂に一度も聖餐を受けられなかったあの仲間も一緒に、主の前に立たされる。私どものしている聖餐の食卓は、その終わりの時を目指してのことだと言うのです。

私が以前長野県の教会の牧師をしておりましたときに、近くの教会にいた先輩の牧師がこんなことを教えてくれました。病床にある教会の仲間を訪問して、小さな聖餐礼拝をしたというのですが、その方が聖餐のパンをじっと見つめながら、「わたしが地上で聖餐を受けるのは、これが最後になるかもしれませんね」と言ったというのです。その先輩の牧師は少し慌てて、「いやいや、まだまだ、そんなことは(汗)」と言おうとしたらその前に、「次の聖餐は、イエスさまの前ですね」と、にっこり笑って、そうおっしゃったというのです。

もちろん私どもは、だからと言って、地上での聖餐を軽んじることはありません。むしろますます聖餐を大切に祝いながら、「次の聖餐は、イエスさまの前で」と、その永遠の望みを新しくするのです。

そのような望みに共に生かされつつ、キリストの教会には使命が与えられています。それが、もう一度申します。「主の死を告げ知らせる」ことです。主イエスの死のことは告げ知らせるけど、復活のことは黙っているなんて、ばかな話ではありません。主の死を告げ知らせる教会は、そのときどうしたって、主の復活の命に生かされる自分たちの命のことをも、証ししないわけにはいかないでしょう。主イエスが十字架で命を捨ててくださったのは、わたしのためだ。あなたのためだ。あの兄弟が救われるために、あの姉妹が命を得るために、そのために主は命を捨ててくださったのだ。その十字架の恵みによってのみ結ばれる私どもの交わりを、主イエスは「わたしの教会」、「わたしの体」と呼んでくださいます。今ここに、私どもが互いに手を取り合って、ひとつの体を作っている。ひとつの食卓、主の食卓を囲んでいる。そのことが、何にもまさる、主イエス・キリストの証しとなるのです。たいへんに光栄なことであると同時に、また深い恐れを覚えないわけにはいきません。お祈りをいたします。

 

あなたのみ子、主イエス・キリストが命を注いで用意してくださった食卓を、今共に囲みます。深い感謝と、また深い恐れを覚えます。あなたがどれほどの思いを込めて、この食卓を造ってくださったことでしょうか。わたしのためのキリストの死であります。あの兄弟のための、あの姉妹のためのキリストの十字架であります。あなたが造ってくださった、この主の体・教会を、私どもの罪が見くびるようなことがありませんように。今、み霊によって心開かれて、「これは、あなたがたのためのわたしの体である」との主のみ声を、新しい思いで聞き取ることができますように。主イエス・キリストのみ名によって、感謝し、祈り願います。アーメン

礼拝説教一覧