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神の恵みは無駄にはならず

2023年1月29日

中村 慎太
コリントの信徒への手紙一 第15章1ー11節

主日礼拝

この手紙を記した伝道者パウロたちは、最後の方になって大切なことを伝えていきます。それが、今日共に聴いた第15章からのみ言葉でした。

福音とは何か、という、教会の根底を成すことです。

福音とは何か、皆さん聞かれたらなんと答えますか。

福音を聖書のもとの言葉で考えてもいいかもしれません。喜ばしい知らせ、と訳してもいい言葉です。古代ギリシアにおいて、戦さに勝ったことを知らせること、戦勝報告としても用いられた言葉でした。それが、教会において大切な言葉となったのです。

では、私たちにとっての喜ばしい知らせとはなにか。

「イエス・キリストが私たちのために十字架にお係になったこと、そして、復活させられたこと」です。それこそが、教会の根幹を成す喜ばしい知らせです。伝道者パウロたち自身が告げ知らされて、また告げ知らせたことなのです。

コリントの信徒への手紙一第 15章 1節から。

「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、」

教会が、教会として集められた私たちが告げ知らせる福音は、このイエスさまの十字架と復活です。毎主日の礼拝においても、必ずこのイエスさまの十字架と復活が告げ知らされます。それ以外の聖書の知識などは、すべてこのイエスさまの福音を伝えるための事柄に過ぎないとまで言えます。私たちが誰かにイエスさまのことを伝える際に、一番大切なことはそのお方が私たちのために十字架にお架かりになり、復活させられたということなのです。

イエスさまの十字架と復活、それは使徒信条でも告白されていることです。今日の礼拝でも、説教の前に告白されていました。「ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちよりよみがえり」とあったのです。パウロの時代、つまり教会が生まれたての時代から、この信仰の告白は形作られていました。その信仰の告白を、私たちも主の日の礼拝で共にささげているのです。そして、「私たちが信じる主なる神さまはこのようなお方だ」と私たちは使徒信条で告白し、「イエスさまは私たちのためにこのようなことをしてくださった、ここに福音がある」と告げ知らせていくのです。

イエスさまは十字架にお架かりになり、私たちの罪を取り去るために死なれた。そして、復活させられて、私たちに新しい命の希望を示してくださった。このことは、まずご復活のイエスさま自身が、弟子たちにおあいになることで、教えてくださいました。イエスさま自身が、直接このことを弟子たちに告げ知らせてくださったのです。パウロはその事実を、書き連ねます。

5節から

「ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、」

イエスさまは、実に多くの人に現れてくださったのです。使徒と呼ばれる弟子たちも、それ以外の弟子たちも、男の人も、女の人もいた。そして、この弟子たちが、教会という群れを形作っていったのです。そして、自分が受けた福音を、次の人に告げ知らせて、それが2000年近くも続いて、今の教会になっている。今、教会として集められている私たちも、その群れ、イエスさまの十字架と復活を証しする群れなのです。

ご復活のイエスさまがそれほど多くの弟子たちとあってくださったことは、一人一人がイエスさまを証しする役割を与えられたということです。一部の弟子たちだけが、福音を告げ知らせるのではない。どれほど年が若かろうが、知識を持っていないと思おうが、話術がうまくなくても、福音を受けた、そして告げ知らせた。私たちもそうです。イエスさまの十字架と復活を、告げ知らせて生きるのです。「イエスさまは十字架に架かり私たちの罪を取り去るほどに私たちを愛してくださった。そして、私たちは死で終わるのではない。イエスさまがご復活されて、私たちに新しく生きる希望を与えてくださったから。」そのことを、心から喜び、伝えていく、それが私たち教会です。

その教会の使命に生きた者の一人として、伝道者パウロ自身のことも、この手紙において伝えられます。パウロ自身も、イエスさまから福音を告げ知らされました。

8節の途中から。

「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」

パウロは自分が他の弟子たちより後になって、イエスさまによって立ち帰らされたと伝えます。そして、教会を迫害していたことを告白するのです。パウロは自分を小さな者と称しました。しかし、一方で、彼は自分が働いたことは多かった、とここで言い表すのです。

私たちは、時に自分のことを謙遜します。「私にはこれがない、これもない」と。しかし、それは大抵、誰か人間と自分のことを比較して語る言葉です。あるいは、神さまを信じられず、その重い役割から目を背けるためのものです。

聖書にもたくさん、そのように自分の欠けを告白する者がいました。サラは、「私はもう年を取っているから」と言いました。モーセは「私はうまく話すことができません」と言いました。エレミヤは「わたしはまだ若いです」と言いました。しかし、主なる神さまは、それらの者たちに、彼らの欠けを超えて、導きを与え、主のみ業のためにお用いになりました。「主に不可能なことがあろうか」との言葉を伝え、「さあ、行くがよい」「わたしが共にいる」と命じ、約束してくださったのです。

パウロも、欠けを超えて、主が大いに用いてくださった弟子です。だからこそパウロ自身は、自分の欠けを告白し、そのうえで、その自分を大いにもちいてくださる主なる神さまを伝えているのです。「自分はこんな小さなものだ、しかし、主の恵みは私と共にあり、私を大いに働かせてくださった」と。

恵みというものは、その者のためにその者を愛して無条件で与えられるものです。また、パウロはそのような「恵み」を語る時、常にイエスさまと関連付けて語っています。つまり、パウロの恵みは、イエスさまその人のことと考えてもいいくらいなのです。

私自身が神学校でそのことを教えられました。パウロの手紙において、「恵み」と訳される語は、どれも単数形である。そして、イエスさまと関連づけられて語られる。つまりは、恵みとは、イエスさまのこと、またイエスさまによって成し遂げられた十字架と復活のことを指す。

パウロには、その恵みが与えられました。そしてその恵み自身が、パウロと共に労苦し、働いたというのです。それは、イエスさまご自身がパウロと共にいて、パウロと共に労苦し、働いてくださったのです。

主なる神さまは、そのように小さな者であったパウロを、大きく用いてくださった。

私たちもそうです。神さまの目には、とても小さい、パウロと同じように、主なる神さまの思いとはかけ離れたことをしてしまった者たちでもある。しかし、そんな私たちのことも、神さまは大きく用いてくださる。パウロが地上の生涯を終えた今、私たちが今度はこの世界で、福音を告げ知らせていく役目を与えられて、遣わされている。

私自身も、小さな者です。伝道者としての歩みを重ねても、ずっと欠けを重ね続けています。しかし、主なる神さまは、私を用いてくださっています。そして、私自身が受けた福音を、今日も告げ知らせます。「イエスさまは私たちを愛して、十字架にかかるまでしてくださった。私たちの命は死では終わらない、復活のイエスさまと同じように、新しい命に生きる希望がある。」

この教会に与えられた福音を、皆さんと一緒に告げ知らせていきます。そこに共にいて下さる主なる神さまのことを、大いに賛美しながら。