1. HOME
  2. 礼拝説教
  3. 神の子イエスの到来の理由

神の子イエスの到来の理由

2022年12月25日

川崎 公平
マルコによる福音書 第2章13-17節

降誕主日礼拝

■クリスマスというのは、おそらくこの世で最も美しく、最も慕わしく、また最も輝かしい出来事であると思いますが、しかしまた、クリスマスというのは、どこか暗く、さびしいものがあると思います。考えてみれば不思議なことだと思いますが、新約聖書の4つの福音書のうち、マタイとルカとヨハネの3つがクリスマスの出来事を伝えています。ところがその伝えている内容は、ほとんどひとつも重ならないのです。そうでありながら、この3つの福音書のすべてが、クリスマスとは闇の中に光が輝いた出来事であるという、そのようなイメージでキリストの降誕の出来事を伝えるのです。マタイによる福音書においては夜空に輝いた不思議な星が東の国の博士たちを導き、またルカによる福音書においては、徹夜で羊の番をしていた羊飼いたちを、突然天の光がめぐり照らしたと言います。それをヨハネによる福音書は象徴的に、また最も明確に、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。あるいは新しい翻訳では、「闇は光に勝たなかった」と、そう言うのです。

神の御子イエスが、私どものために、人としてお生まれになりました。それは、闇の中に光が輝いた出来事でした。その光を、闇は理解しなかった。そうでありながら、しかも同時に、光が闇に勝ったのです。その闇の姿を、たとえばルカによる福音書はたいへん印象深く、家畜小屋の中で母マリアは初めの子を産まなければならなかったと書いています。宿屋には神の御子イエスを入れる場所がなかったからだと言うのです。考えてみれば、かなり悲惨な情景です。ふと、今も続いている戦争のことを思わないでもありません。なぜ神の子キリストは、こんな暗い所にお生まれになったんだろう。言いようのない闇を見つめながら、しかも同時に私どもは、確かな神の光の前に立つのです。もしもクリスマスがなかったら、もしかしたら遂に気づくことがなかったかもしれない闇があったかもしれません。しかもその闇は、光に打ち勝つことはできなかったと、聖書はそのことを力強く証言してくれるのであります。

今日の礼拝で歌うわけではありませんが、「まぶねのかたえにわれは立ちて」という、私の好きな讃美歌があります(107番)。J・S・バッハ作曲の讃美歌です。家畜小屋でお生まれになった神の子イエスの前に立ちながら、当然私どもはさまざまなことを思うのです。ただ何となく、「まあ、すてき」ではすまないのであります。たとえばこの讃美歌の第3節には、「こがねのゆりかご、にしきのうぶぎぞ、きみにふさわしきを」とあります。まともなお布団もない、やわらかな産着もない、暗い家畜小屋の餌箱に寝かされている幼子イエスの前に立ちながら、「こがねのゆりかご、にしきのうぶぎぞ、きみにふさわしきを」。しかし、そのあと、どう歌えばよいのでしょうか。「まあ、かわいそう」ではすまないのです。その飼い葉桶の前で、それでも私どもが確かなひと筋の光を見出すことができるとするならば、それはいったい、いかなる光なのでしょうか。

■今朝はクリスマスの礼拝ですが、いつもの通り、マルコによる福音書の続きを読みました。実はマルコによる福音書というのは、先ほど触れました通り、クリスマスについていっさい言及しない唯一の福音書です。けれども今朝私どもに与えられた箇所は、実に見事に、クリスマスの意味を証ししていると思います。馬小屋にお生まれになったお方が、こう言われるのです。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

「まぶねのかたえにわれは立ちて」。「こがねのゆりかご、にしきのうぶぎぞ、きみにふさわしきを」。それなのに、主イエスよ、どうしてあなたはこんな場所においでになったのですか……。罪人を招くために、このお方は人となられたのです。それ以外ではなかったのです。宿屋には神の子イエスをお泊めする部屋がなかったとか、けれどもその馬小屋に羊飼いたちが招かれたとか、星に導かれて博士たちがやって来たとか、そのようなクリスマスの情景のひとこまひとこまのすべてが実は、「正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」という「神の子イエスの到来の理由」を鮮やかに証ししているのです。

今私どもも、あの讃美歌に誘われるようにして、主イエス・キリストのまぶねの前に立ちたいと願います。そこに寝かされている幼子イエスを見つめていると、そこに初めて浮かび上がってくる私の罪が見えてきます。しかも実は、私どもがこのお方を見つめるよりも先に、神がわたしを見つめていてくださる。愛してくださる。罪を赦していてくださる。そういう自分の姿が見えてきます。

このマルコによる福音書の記事がまず伝えるのも、この主イエスのまなざしです。14節に、「そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて」と書いてあります。「見かけて」という翻訳には、私は少し不満を持っています。たまたま見かけて、「お、何だあいつ」という感じで声をかけられたわけではありません。そうではなくて、実は永遠の昔から、主イエスは徴税人レビのことを見つめていてくださったし、このレビのために、主イエスは飼い葉桶にお生まれになったのであります。したがって、「まぶねのかたえにわれは立ちて」、そこで必ず気づかなければならないことは、飼い葉桶に寝ておられるこのお方が、むしろ逆に私を見つめていてくださる。愛してくださる。この方が、私のすべての罪を赦してくださっている。レビは、その主イエスのまなざしに捕らえられて、すぐに立ち上がることができました。

■ここで招かれたレビという人は、徴税人であったと言います。15節、16節では「徴税人や罪人も」「罪人や徴税人と一緒に」と言うのです。罪人の代表格がすなわち徴税人であると言わんばかりです。もしも皆さんの中に税務署の関係者がいらっしゃったら申し訳ありませんが、しかし聖書に少しでも親しむようになると、当時徴税人という言葉がどんなに悪い意味を持ったか、なかなか私どもには理解しにくいところがあるかもしれません。当時のユダヤの国を支配していたのはローマ帝国です。ですから税金と言ったら、それは当然ローマ帝国という、神を信じない支配者のために血税を払わないといけない。それだけでも屈辱的なことです。ところがそういうところでローマ帝国は巧みな知恵を使いまして、税金を取り立てる業務を直接ローマ人がするのではなく、これを土地の人に委ねました。そうすることで嫌われ役を土地の人に押し付けたということです。けれどもその代わりに、徴税人というのはかなりおいしい仕事であったと言われます。自分のさじ加減で、自由にリベートをとることができた、そんな人たちの背後にローマの国家権力があるというのは、人びとにとってはたまったものではありません。

昔、あるところで見たクリスマス物語の映画の中で、イエスさまがお生まれになる少し前の情景が描かれて、そこにも徴税人が出てきました。村に徴税人の集団が、強そうな馬に乗ってぞろぞろとやって来て、村の全世帯から税金を集めていくのですが、その中に、どうしても税金を払えない家族があった。父親が土下座して許しを請うのですが、もちろん許されるはずがない。それで、その家の中学生くらいの女の子が徴税人にさらわれて行きました。

どうしてこんな理不尽が許されるのだろう。どうして神は、ご自分の民をこんな悲惨な暗闇の中に放っておかれるのだろう。約束の救い主は、いったいいつになったら現れるんだろう。神よ、この闇の中にいるわたしたちを、どうか見捨てないでください。その人びとの祈りに答えて、遂にお生まれになった主イエス・キリストというお方が、ところがしかし、徴税人や罪人を招いて一緒に楽しく食事をなさるような方であったというのは、ほとんど社会に対する挑戦のようなことを意味したのです。

それで、遂にたまらず、ある人たちが質問をしました。「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。特に心の狭い一部の人が疑問に思ったということではなかったと思います。ほとんどすべての人が釈然としなかったことだと思います。「いくら何でも。徴税人だけは。それはちょっとさすがに」。そういう疑問を、「どうして彼は」とあるように、主イエスに直接尋ねたのではありません。主イエスの弟子たちに質問をしたのです。もちろんレビも横で聞いていたでしょう。思わずギクリとしたかもしれない。そうしたら、そこに主イエスご自身が割り込んで来られました。この問いには、自分しか答えることができないということを分かっておられたのでしょう。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

■ここで私が心を打たれるのは、主イエスもまたはっきりと「罪人」と言っておられることです。徴税人、それはもちろん悪いやつだ。どうしてそういう悪いやつと一緒に食事をするんだ、とファリサイ派がそういう言い方をするのは、まだ分かります。それに答えて主イエスは、「罪人だと? そんな言い方はやめなさい。この人たちにだって、いいところはたくさんあるんだ」と言われたのでもないのです。そうではなくて、「その通り、この人たちは罪人だ。この徴税人たちは病気なんだ。それなら、医者が病人のところに行くのは、当たり前じゃないか」。

このやりとりを横で聞いていたレビは、いったい何を考えたでしょうか。ひとつの言い方をすれば、ここで主イエスは、はっきりとレビのことを裁いておられます。「このレビは、罪人である。罪という重篤な病気にかかっている」。その裁きの言葉を、しかしレビは、心から感謝して聞き取ったに違いないのです。

確か三浦綾子の『氷点』という小説だったと思いますが、その中に「包帯を巻く気がないなら、人の傷口に触れるな」という言葉を読んだことがあります。もちろんこれまでも、ありとあらゆる人が、レビのことを罪人だと呼び続けたに違いないのです。あいつは病人だ。心の芯から腐り切っている。あー、こいつら早く地獄に落ちないかな。誰ひとりとして、レビのために包帯を巻く気はなかったのであります。けれどもここで主イエスがレビのために、「お前は罪人だ。お前は病人だ」と言われた時、レビは、こんなことを言ってくれる人に、人生で初めて出会ったような思いではなかったかと思うのです。「わたしが、あなたを癒やす」。けがをした子どもに親が包帯を巻くように。病気になった子どものために親ができる限りのことをするように。そういう主イエスの思いに感じるところがあったから、レビは主イエスに声をかけられたとき、ただちに立ち上がったのかもしれません。

主イエスは、収税所に座っているレビを見つめて、そして言われました。「わたしに従いなさい」。「きみは、わたしについて来るのだ」。その目を見ただけで、その声を聴いただけで、レビには感じるものがあったと思うのです。いったいこの人は何だろう。ここまでまっすぐに、わたしに向き合ってくれた人が、果たしてこれまでいただろうか。包帯を巻く気もないのに傷口に触れるような人は、いくらでもいたに違いない。けれども、この人のまなざしは、いったい何だろう。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。このお方のまなざしの中で、レビは自分の罪を知りました。その罪人である自分を、神が愛してくださることを知りました。そして15節では突然場面が変わって、いつの間にかレビ以外にもたくさんの罪人たちが招かれて、一緒に食事をしていたというのです。その食卓は、どんなにすばらしい喜びにあふれていたことでしょうか。いやむしろ、主イエスご自身が、どれほどの喜びにあふれて、この罪人たちとの食事を楽しんでおられたことでしょうか。このあと私どもが祝います聖餐とは、この主イエスご自身の喜びを中心とした、喜びの食卓です。

■けれどももうひとつ、この福音書の記事で際立っていることは、この喜びの食卓からはじき出された人たちがいたということです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではない」と言われます。ここは誤解のないように、正確に読み取らなければならないところだと思うのですが、ここで主イエスは、「わたしは正しい人も招くけれども、罪人だって分け隔てなく招くんだ」と言っておられるのではないのです。「わたしは、正しい人はただのひとりも招かない。わたしが招くのは罪人だけだ」。この文脈での「正しい人」というのは、まずファリサイ派、律法学者たちのことでしょう。そして多くの人がここでこういう指摘をします。「ここで主イエスは、ファリサイ派のことを『正しい人』と呼んでおられる。それは決して皮肉ではない。本当に正しい」。けれども人間というのは、実は正しくなればなるほど、最もみじめな状態になるのです。きっと皆さんは、そのことを理解してくださるだろうと思います。自分が100パーセント正しい、相手が100パーセント悪い、誰がどう見ても事実その通りだというときにこそ、人間というのは実は最も深刻な罪に誘われるのです。その典型がファリサイ派です。

私どもの信仰の大先輩に、マルティン・ルターという人がいます。あるとき、このルターが仲間の牧師にあてて手紙を書かなければならなくなりました。牧師としての働きの中で大きな失敗をして、それを周りからもとがめられて、もう牧師をやめなければならないと思い詰めました。それで、周りの牧師たちがあれやこれや励ましたのですが、うまくいきませんでした。それでルターが手紙を書いたときに、「あなたの失敗は、大したことじゃない」と言ったのではないのです。むしろそれとは正反対の手紙を書きました。あなたの罪は、あなたが自分で思っているよりも、ずっと大きい。あなたは、自分の罪を、自分で抱え込める程度のものだと思っているだろう。それはとんでもない間違いだ。あなたの罪は、そのためにあなたが死んだって全然足りない。神のみ子が死ななければならないほどに、あなたの罪は大きいんだ。そう言って、ルターはこう書くのです。どうか、われわれとんでもない罪人の集まりに帰って来てほしい。赦された罪人の群れに帰って来なさい。

このような手紙をもらわなければならなかった牧師は、やはりどこかで、主イエスは正しい人を招いてくださる方だと思い込んだのかもしれません。だから、自分のような者は、あの清らな教会には戻れないと思い込んだのかもしれません。人を裁くファリサイ派根性というものは、私どもの心にも根深く巣食っているものだと思います。それはただ他人を裁くだけではありません。自分自身をも裁きます。自分の正しさを自分の支えとしている人間というのは、ひとたび自分を裁かなければならなくなると、そのままひとりで滅びていかなければなりません。けれども、そのような私どものために、主はこう言われたのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

■今、招かれて、私どももあのお方のまぶねのかたえに立ちます。あのお方の飼い葉桶の暗さ、みじめさは、私どもの罪の暗さ、私どもの罪のみじめさであったのです。けれどもそのみじめさの中に、神ご自身に他ならないお方が横たわっておられます。正しい人には、その光の尊さを理解できないでありましょう。罪人だけが、クリスマスの尊さを知り得るのです。もちろん、そこにすべての人が招かれております。ここに、闇の中に輝く、まことの光があるのです。お祈りをいたします。

 

今、私どもも御子キリストのまぶねのかたえに立ちます。あなたに招かれている罪人であることを、わたしこそその罪人の頭であることを、感謝をもって知る者とさせてください。今改めて、世界の平和のために祈ります。平和をめぐっても、裁き合い、争い合うことしか知らない私どものみじめさを、どうか憐れんでください。このような世界に、ただあなたに赦されて立つ教会の群れが生きていることは、あなたの恵みの奇跡によるものであります。教会の告げる罪の赦しの福音が、この世界にあって確かな光であることを、どうか今、確信させてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン

礼拝説教一覧