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さあ、ベツレヘムへ行こう

2022年12月24日

川崎 公平
ルカによる福音書 第2章8-20節

クリスマス讃美礼拝

■3年ぶりに、12月24日の夜に皆さんをこの場所にお迎えすることができました。かつてのように、讃美歌を5つも6つも、のどが疲れ果てるまで歌うわけにはいきませんが、とにかくこのようにクリスマスを祝うことができていることを、心からうれしく思います。昨年も、一昨年も、12月24日の夜にこの場所に集まることはできませんでした。その代わりに、YouTubeで音楽と聖書の話の番組を作って配信して、しかしそれは、私どもの教会のチャンネルとしては、ずいぶんたくさんの方が視聴してくださいました。私のような者が改めて思わされることは、やっぱり私たちは、クリスマスをお祝いしたいのだということです。町の外にも、クリスマスの光はいろんな形であふれております。それは結局、商売が目的じゃないか、それは偽物のクリスマスだと、批判することは簡単かもしれませんが、私はそれでも、むしろこう思うのです。人間というのは、どこかで本能的にクリスマスを祝いたがっているのです。もしもこの世界からクリスマスがなくなったら、世界はどんなに暗くなってしまうでしょうか。

昨日も、私は横浜にある学校に呼ばれて、クリスマスの礼拝で聖書のお話をしてきました。キリスト教主義の、いわゆるミッションスクールです。まだかわいい中学生、高校生の女の子たちと一緒にクリスマスの礼拝をしながら、けれどもそんな子どもたちも本当は受験のことで頭がいっぱいだったり、長く生きていれば実は大学受験なんて本当にどうでもいいくらいキツいこともたくさんあるはずですが、そんな子どもたちのためにも、「今日、あなたのために、救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。こんなこと覚えたって、受験には役に立たないよな、と思いながらも、学校の礼拝で聞いたその天使の声が、やっぱりどこかで忘れられなくて、そんな人がおばあちゃんになってからもう一度教会に通い始めて、洗礼を受けてしまったりするものです。クリスマスというのは、人間の本能というか、人間の根源的なものに触れる力を持っている。そう思うのです。

■このクリスマスの季節に、もうひとつ私が3年ぶりにさせていただいたことは、友の会という集まりのクリスマス礼拝で聖書の話をするということです。友の会というのは、今ではほとんど家計簿の会か、お料理の会かと勘違いされているところがあるかもしれませんが、羽仁もと子というキリスト者が信仰的な志によって始めたもので、今もその信仰は生き続けていると思います。3年前までは、必ずどこかの友の会のクリスマス礼拝に呼ばれて聖書の話をしていましたが、昨年も一昨年も、そんなことはできなくなりました。今年になってようやく、東京と鎌倉とふたつの友の会に呼ばれて、正確にはオンラインでしか出られなかったのですが、とにかくそこでクリスマスのお話をさせていただきました。

その鎌倉の方の友の会で、羽仁もと子の文章を紹介したのです。「人類への贈物」という文章で、おそらく子ども向けのクリスマスのお話だと思うのですが、最初のところでこういうことを言うのです。皆さんも、クリスマスには贈物をもらったりあげたりするでしょう?「お父さまお母さまからの贈物もほんとうに楽しみで嬉しいものですけれど、私たちに一ばん沢山の贈物を下さっているのは神様です」。これは、何もかっこつけるところのない素朴な語り口ですが、私のような者はこれだけでほろりとくるものがあります。念のために申しますが、この文章のニュアンスは、お父さんお母さんのプレゼント、そんなものは別に大したことない、大事なのは神さまからの贈物だ、ということではありません。むしろ子どもの心に訴えるように、皆さんも、お父さんお母さんから贈物をいただくことがあるでしょう? 何をもらいましたか? ここにおられる大人の皆さんは、もうお父さんお母さん、あるいはサンタさんのプレゼントなんか期待してはおられないと思いますが、このような言葉に誘われて、たとえば皆さんが小さいときにもらったプレゼントのことを、ここで思い出してみてもよいかもしれません。そのとき、皆さんはただの「モノ」をもらったんじゃない。お父さん、お母さんの〈心〉をもらったのです。幼いときにはそのことに気づかなくても、大人になって初めてそのありがたさに気づくのです。

この羽仁もと子という人が繰り返し語ったことがあります。「おさなごの心」を大切にしよう、というのです。それはただ童心に帰って、純粋で悪に染まらないように、という話ではありません。それこそ羽仁もと子が、「おさなごの心を」という題の文章を書いています。そこでこういうことを言うのです。もしも、お父さんお母さんに「お休みなさい」も言えないでひとりで布団に入る子どもがいたとしたら、こんなにさびしいことはないでしょう?「しかし神様が私たちを最も愛して下さる方であることが分かれば、たとえお父さんやお母さんのない人でも、だれでも神様に『お休みなさい』をいうことが出来ます。またそのお守りをお祈りして安らかに眠ることが出来ます。そしてこの世で、ほんとうに一人ぼっちのみなしごになることはありません」。何歳になっても、われわれは例外なく、神さまに愛された神さまの子どもなんだから。

■その「おさなごの心」を回復するためのクリスマスです。すべての人が、その心を持っているし、もしそれを失っているなら、回復していただかないといけない。そのためのクリスマスです。真夜中に天使の声を聴いた羊飼いたちも、まさしく「おさなごの心」を呼び覚まされたのだと、私は思うのです。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」。

この羊飼いたちは、まるでプレゼントをもらった子どものように、この天使の知らせが本当にうれしくて……。ただモノをもらったんじゃない。神さまの心、神の親心をいただいたのです。「今日、あなたのために、救い主がお生まれになった」。あなたのためですよ。それを聞いた羊飼いたちは、ああ、神さまって本当にいるんだ。そのことが本当によく分かったら、いてもたってもいられなくなりました。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」。「そして急いで行って……」。急げ、急げ。それは小さな子どもが、興奮気味に急いでプレゼントの包みを開ける姿にも似ているかもしれません。「早く見たい、早く中を見たい。お父さんお母さん、何をくれたんだろう」。「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」。この羊飼いたちのように急ぐ心を、私どもは知っているでしょうか。

■今、自分の周りを見回しても、あるいは世界のあちこちで起こっていることを考えても、のんきにクリスマスプレゼントとか言っている場合か、という思いにも誘われないでもありません。だからこそ、今こそ神さまからの贈物をいただかなければならないと思うのです。急いだって何があるわけでもないと、冷めた心に誘われそうになる思いを振り捨てて、あの羊飼いのごとく、「急げ、急げ」と、神の親心を振り仰ぎつつ、飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見出さなければならないと思うのです。

「これがあなたがたへのしるしである」と天使は告げました。「しるし」というのはつまり、そのしるしを見れば、神の愛が分かる。神の親心が分かる。そのためのしるしです。プレゼントをもらっても、モノをもらうだけで、心をもらわなければ意味がないのですが、本当に素直な心でこのしるしを見れば、神の親心が鮮やかに見えてくるはずなのです。それこそ羽仁もと子の言う通り、「神様が私たちを最も愛して下さる方であることが分かる」のです。戦争で難民になった人、孤児になった子どものことを、ここでは一時忘れる必要なんかないのです。「たとえお父さんやお母さんのない人でも、だれでも神様に『お休みなさい』をいうことが出来ます。またそのお守りをお祈りして安らかに眠ることが出来ます。そしてこの世で、ほんとうに一人ぼっちのみなしごになることはありません」。神よ、どうかその望みに立たせてくださいと、私どもの祈りをひとつに集めたいと思います。

 

望みを失っているこの世界であります。けれども、神よ、だからこそあなたは御子イエスを飼い葉桶の中に生まれさせてくださいました。そこに灯されたあなたの愛のしるしは、愚かな私どもの目にはあまりにも小さくて、今も私どもは恐れと思い煩いに押しつぶされそうです。どうか今新しく、幼子の心であなたからの贈物を受け取らせてください。あなたは、私どものお父さんです。私どもは、あなたに愛されたあなたの息子、あなたの娘です。どうかその望みに立ち、それだけにまた隣人のために、この世界のために祈らせてください。ことに、故郷を失った者たち、家族を失った者たちのために祈ります。そのような人たちが、今夜どのような思いでクリスマスを過ごしているかと思います。あの羊飼いたちに光を見せてくださった主よ、どうか新しい望みの言葉を聞かせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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