人間の最終問題
川崎 公平
マルコによる福音書 第2章1-12節
主日礼拝
■今、おふたりの方が洗礼をお受けになりました。洗礼とは、神の喜びの出来事です。他のいかなる出来事にもまさって、私どもはここに、神の輝くような喜びを見出すのです。
その神の喜びを告げる聖書の言葉を、この礼拝のあと、改めて特別に、おふたりのために贈ります。いつものように、受洗者に教会から聖書を贈るのですが、その聖書の扉の頁に、私がそれぞれに聖書の言葉を選んで書きました。まずひとりの方には、ルカによる福音書第15章22節から24節。ちなみに、おふたりに贈る聖書は来年度から用いることになっている聖書協会共同訳という新しい翻訳で、したがって今日おふたりに贈る聖書の言葉も、聖書協会共同訳によるものであります。
「急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足には履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」。
多くの方はこれだけで、「ああ、あの箇所か」とお分かりになるかもしれません。しばしば〈放蕩息子の譬え〉と呼ばれます。聖書に即してよりきちんと言えば、〈いなくなった息子の帰還〉と言うべきかもしれません。父の家から姿を消した弟息子が、放蕩の限りを尽くしてそのまま飢え死にしそうになったときに、けれども「我に返って」言いました。「お父さんの家に帰ろう」。でも今さら帰ったって、お父さんからどんなに怒られるだろうかと心配しつつも、それでも自分の帰るべき場所は、どう考えてもお父さんの家以外に考えられないじゃないか。そうしたら、まだ家からは遠く離れていたのに、父親はこの弟息子の姿を認めるや否や全速力で走り寄り、首を抱き口づけをしながら、僕たちにこう言いました。「急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足には履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」。今朝、この場所にも聞こえてくる神の御声であります。
もうひとりの方に贈る聖書には、ルカによる福音書第19章5節から6節を書きました。
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている」。ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
主イエスがエリコという町にお入りになったとき、既に時の人であった主イエスの周りには大勢の群衆がひしめいておりましたが、実は主イエスは最初からひとりの人のことしか考えておられなかったかのようです。それが、ザアカイという背の低い徴税人の頭であります。今申しましたように背が低かったために、噂のイエスってどんなやつだろうという関心はあったけれども、人びとに遮られて見ることができない。それで走って先回りして、大きな木の上に登って、葉っぱの間からのぞき見しようと思って待ち構えていたら、むしろ逆に主イエスの方がザアカイを待ち構えておられたように言いました。「ザアカイ、そこにいるのは分かっているぞ。今日はあなたの家に泊まることになっているから、早く降りて来なさい」。「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」と聖書には書いてありますが、書いていなくてもすぐに分かることは、むしろ主イエスの喜びは、どれほどのものであったかということであります。
今日洗礼をお受けになったおふたりが、特別に放蕩の限りを尽くしたとか、徴税人の総元締めに勝るとも劣らない悪人であったとか、そんなニュアンスはもちろんありません。こんなことは言わなくてもいいようなことですが、おふたりとも、むしろどちらかと言えば、平均以上に真面目に生きてこられたと思います。けれども、どんな人でも、どんな生活をしている人間であっても、ひとたび神の前に立ったならば、そこで聞くべき神の御声、主イエス・キリストの喜びの声はいつも同じです。「急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足には履物を履かせなさい。……この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」。
洗礼とは、この神の喜びの極みに、共に触れることのできるひと時です。ですから、いつも洗礼を行うときには、既に洗礼をお受けになった方にはきちんと立っていただきます。誰かが洗礼を受けるというとき、それは絶対に他人事にはなりません。きっと皆さんも今、それぞれにご自身の洗礼のことを思い起こしておられると思います。「ザアカイ、急いで降りて来なさい」というように、自分も主イエスに呼ばれたんだ。このお方の喜びのもてなしを受けたのだ。そうしたら、やっぱり座ったまま、腕組みして足を組んで、というわけにはいきにくいのであります。きちんと立って、主イエスの招きの声、喜びの声を共に聴くのです。
■そのためにまた今朝は、最もふさわしい聖書の言葉を礼拝のために与えられたと思います。マルコによる福音書を続けて読んでまいりまして、今朝は第2章1節以下を読みました。私がコロナ感染症に捕まってしまった結果、礼拝の計画がずいぶんずれてしまいましたが、洗礼入会式の日にいちばんふさわしい聖書の言葉を、神が与えてくださったと思います。たいへん乱暴な仕方で主イエスの前に運ばれて来たひとりの人をご覧になって、主イエスはどんなにお喜びになったかと思うのです。その主の喜びに、今私どもの思いを集めたいと思うのです。しかし、主イエスの喜び、神の喜びと繰り返し申しておりますが、ここで主イエスは、いったい何を喜んでおられるのでしょうか。
ここに、「中風」という病気を患った人が出てきます。この「中風」という言葉は、現代ではほとんど通用しないと思いますが、新しい翻訳では「体の麻痺した人」と訳されました。語学的にもこの方がずっと正確なのです。原因が何であるか、何の病気なのかは実はまったく分からないのですが、とにかく体が麻痺して動かない。その人自身がイエスさまのところに行きたいと言い出したのかもしれませんが、そんなことも考えられないほどに絶望してしまっていたかもしれません。けれども、この人は決して孤独ではありませんでした。家族でしょうか、友人でしょうか、4人の仲間たちがいたと言います。
この4人は、どんなことをしてでもこの体の麻痺した人を主イエスのもとに連れて行かなければならないと思いました。「よし、われわれにまかせろ」と、床の四隅を持って、主イエスのおられる家の前まで行きました。けれどもそこで大きな壁にぶつかりました。あまりにも大勢の人が集まって、とてもじゃないけど中に入るなんて無理。それでも、この4人は諦めませんでした。この4人には、何としてでもこの人を主イエスのもとに連れて行くのだという情熱がありました。知恵がありました。勇気もありました。しかし、主イエスのご覧になるところ、何よりもこの4人には、信仰がありました。
しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て……(4、5節)
「その人たちの信仰」です。念のために申しますが、体の麻痺した人の信仰ではありません。もしかしたら、体が麻痺しただけでなく、信仰もまた麻痺していたかもしれません。聖書はそのことについて何も書かないのですが、少なくともこの中風の人、本人の信仰は、とにかくここではまったく問題になりませんでした。主イエスがご覧になったのは、屋根をぶち抜いてでもひとりの病人を主のもとに運ぼうとした、4人の人たちの信仰です。その信仰をご覧になって、主イエスはどんなにお喜びになったかと思うのです。
今朝洗礼をお受けになったおふたりのためにも、この4人の仲間のような人たちが取り囲んでいたことを、思わないわけにいかないのです。その〈4人の仲間〉というのは、教会の仲間であったかもしれないし、牧師とか長老とか伝道委員であったかもしれないし、家族とか、あるいは学校の先生だったり先輩だったりしたかもしれない。今日洗礼をお受けになった方のご両親のことを、今懐かしく思い出しておられる方も多いでしょう。「いーや、わたしにはそんな仲間なんかいない、わたしは自分ひとりでイエスさまのもとに行ったのだ」という人は、実は世界のどこにも、ひとりもいないのです。皆ひとりの例外もなく、誰かに運ばれて、主イエスの前に置かれたのです。「その人たちの信仰を、イエスはご覧になって……」。その主のまなざしの中に満ち満ちている喜びに、今新しく気づかせていただきながら、「自分もまた主イエスのもとに運んでいただいたのだ。そのために何人もの人がわたしのために働いてくれた。祈ってくれた。わたしに代わって神を信じ抜いてくれたのだ」と、そのことに感謝しないわけにはいきませんし、また同時に、自分も誰かを主イエスのもとに運ぶ者とさせていただけるのだという、その確信をも与えられると思います。
たとえば皆さんの中に、家族の中で自分ひとりがキリスト者である。夫は一緒に教会に来てくれない。一緒に来てくれても洗礼までは受けてくれない。そういう家族のことを思いながら、その家族のために今もひそかに祈りながら、この聖書の言葉に励まされている方も多いと思います。繰り返しますが、床に寝ている本人の信仰は、ここではまったく問われていません。主イエスがご覧になったのは、そのひとりの人を主のもとに運んだ4人の信仰です。その周りの人たちの信仰に基づいて、主イエスはこの病人に真実の救いを与えてくださいました。私どもの救い主イエスは、私どもの家族を、友を、隣人を、救う力をお持ちなのです。この主イエスの力を信じるようになった人間は、もはや自分のことしか考えないということは、あり得なくなります。むしろ、自分のことなんか忘れてでも、他者の救いのために何かしないと。どんなことでもしないと。それはまず、その人のために祈ることから始まるでしょう。主イエスは、必ずその祈りを聞いてくださいます。
■けれどもそこで、もうひとつ私どもに問われることがあると思います。神よ、あの人を救ってください。わたしの家族を助けてください。そのためにまず祈るのです。それは間違いのないことです。けれども、そういうときに私どもは、いったいどういう祈りをしているでしょうか。
主イエスがこの中風の人をじっとご覧になり、そして上を振り仰いで、あの4人の信仰をご覧になって、主イエスは開口一番こう言われました。「子よ」。「わが子よ」。「あなたの罪は赦される」。
私どもが、この人の救いのために、あの人が救われるために、何かしたい、どんなことでもしたいと願うときに、しかしそのときに、「主イエスよ、どうかあの人の罪を赦してください」という祈りを、どれだけ真剣にしているでしょうか。「子よ」。「わが子よ」。「あなたの罪は赦される」。どうか主イエスよ、あの人のためにも、このあなたの御声を聞き取らせてください。しかし、私どもはもしかしたら、そんなことは一度も祈ったことがないかもしれません。
「子よ、あなたの罪は赦される」。その場にいた誰にとっても、まったく思いがけない言葉であったと思います。中風の人は、何を思ったでしょうか。4人の仲間たちは、何を聞き取ったでしょうか。しかし、その場にいた誰よりもこの主イエスの発言に腹を立てたのは、律法の学者たちでした。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(7節)。口に出しては言いませんでした。心の中で、ぶつぶつ文句を言い始めたというのですが、それはすぐに主イエスに聞き取られてしまいました。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか」(8節)。この主イエスのものの言い方からすれば、不思議でしょうがない、どうしてそういう思考回路になるのか、自分には理解できない、というところであったと思います。「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」(9節)。
しかしここで、皆さんの多くが首をかしげるかもしれません。さあ、どっちが難しいんだろう、どっちが易しいんだろう。「あなたの罪は赦される」と「言う」だけなら、それは非常に簡単そうだ、うちの教会の牧師だって似たようなこと言ってるわ、ということになるかもしれません。それに比べて「起きて、床を担いで歩け」ということになると、こりゃあなかなか難しそうだ、少なくともうちの牧師なんかには絶対無理だな、ということになるかもしれないのです。しかしそういう次元でものを考え始めた途端、たちまちこの話は分からなくなります。
たとえばそこで、今日の説教の最初に紹介したような聖書の言葉を合わせて思い出してみてもよいかもしれません。
「急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足には履物を履かせなさい。……この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」。
「子よ」。「わが子よ」。「あなたの罪は、全部赦す。わたしが赦す」。神にとって、御子イエスにとって、そしてあの弟息子にとっても、これ以上に重大なことは、ひとつもないのです。
そして、もしもです。もしも、あの放蕩息子が家に帰って来たとき、大きな病気を患っていたとしたら、父親はすぐに癒やしてくれたに違いない。もしも息子が大きな怪我をして血を流して帰ってきたならば、すぐに手当てしてくれたに違いない。「おお、おお、痛かったろう。つらかったろう。でも、もう大丈夫だぞ。お父さんがついているからな」。そのようなお父さんの愛の手当てを受けながら、この息子は、「ああ、本当にお父さんはぼくのことを赦してくれるんだ」と、心の底から感じることができたに違いない。
もちろん今の話は、私の勝手な創作です。あの放蕩息子の譬え話にこんな場面はありません。今日私どもに与えられているのは、中風の人の癒しの記事です。「子よ、わが子よ。あなたの罪は、全部赦されているんだ」。その大きな神の愛の中で、病気の癒しも起こりました。だからこそ主イエスは10節で、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と、つまり、「これを見れば、あなたがたにも分かるだろう」と、体の麻痺していた人を立ち上がらせてくださったのです。すべては、神の愛の中で起こった出来事です。神の赦しの中で起こった出来事です。私どもを等しく、〈わが子〉としてもてなしてくださる神の喜びの中に、今私どもも立たせていただくのです。
■来週の日曜日には、今日洗礼をお受けになったふたりの方もご一緒に、聖餐を祝います。それこそ、「肥えた子牛を引いてきて屠りなさい。食べて祝おう」と言われた父なる神の御心によって用意された祝いの食卓に、私どもひとりひとりが招かれています。それが、聖餐と呼ばれる食卓の意味です。「ザアカイ、今日わたしはあなたの家に泊まるから。一緒に食事をしようじゃないか」。そう言われた主イエスのお顔は、どれほどの喜びに輝いていたかと思いますし、その主イエスの喜び、神の喜びの前に立たされる私どもも、あのザアカイのように、心からの喜びをもってこの神の愛に応えるのです。そのとき、あの放蕩息子も、あるいはザアカイも、自分がどうしようもなくでたらめな人間であったことを忘れることはできなかっただろうと思います。その罪人が、だからこそ、招かれるのです。来週読みますが、第2章17節で主イエスはこう言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
その聖餐のときに、しかし少し複雑な思いに誘われる人もいないわけではないようです。聖餐の最後に、長老が感謝の祈りをします。そのときに私が必ず、「聖餐をお受けになった方は、ご起立をお願いします」と言います。まだ洗礼を受けていない人、したがってまだ聖餐をお受けになることができない人は、座ったまま長老の祈りを聞いていなければなりません。それはやっぱり、どうも自分だけ仲間外れにされたような寂しい気持ちになるかもしれません。そういう人の横で立ち上がる教会員の中にだって、気まずい思いを感じる方があるかもしれません。だから、ずいぶん昔のことですが、聖餐のある日曜日には礼拝を休むことにしている、とはっきりおっしゃった方があって、これはまずいと思いました。何がまずいかというと、聖餐の意味について説教で話すにしても、聖餐のある日曜日にしても意味がない。聖餐のない日曜日に言うべきことを言わないと、ということに気づきました。今私がこういう話をしているのも、来週も休まないで、ということです。
主イエスは、罪人をお招きになりました。正しい人をお招きになったことは、一度もないのです。それこそが、今日読んだ中風の人の癒しの出来事においても明らかになったことだと思います。「子よ、あなたの罪は赦される」。罪を赦していただいたからこそ、この中風の人も立ち上がったのです。したがって、聖餐の最後に立ち上がるわれわれ教会員も、偉いから立つのではありません。立派だから立つのではないのです。資格があるから立つのでもないのです。ただ、罪を赦されたから。お父さんの家以外に帰る場所を持たないから、だから立ち上がるのです。それは、人間的に言えば恥ずかしいことかもしれません。なぜあなたはここで立ち上がるのですかと、誰かに聞かれたら、ザアカイだって放蕩息子だって、あるいはこの中風の人だって、どうだ、すごいだろうとは言えなかっただろうと思います。何の資格もないのに、罪人のかしらでしかないのに、ただ赦されたのです。ただ愛されたのです。そうであれば、偉そうな顔をして立ち上がることはできないにしても、それでもやっぱり、晴れがましい思いで立ち上がるのです。立ち上がりつつ、また新しい祈りに生かされたいと願います。隣人のための祈り、家族のための祈りであります。どうかこの人も、あの人も、わたしと一緒に立ち上がることができますように。私どもを〈わが子〉として招いてくださる主イエスの恵みを信じて。お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる御神、あなたの御子が今私どものためにも、はっきりと告げてくださいます。あなたの罪は赦されると。その赦しの中で知る確かな平安の中に、全身を置く信仰に生きることができますように。既にあなたに招かれた私どもだけではありません。すべての人が、主イエスのもとに運ばれ、罪を赦され、いやされなければなりません。あなたに対する信仰を新たにさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン