神の喜び、ここに始まる
川崎 公平
マルコによる福音書 第1章1-8節
主日礼拝
■今日からしばらく、私がここで説教をするときには、マルコによる福音書を読みながら礼拝の生活を作っていきたいと思います。私のだいたいの計画では、少なくとも2年間は、この福音書を読み続けることになります。考えてみれば、一昨年2020年の7月にマタイによる福音書を読み終えて、そのあとしばらくパウロの手紙を読んだりヨハネの黙示録を読んだりしましたが、約2年ぶりに福音書に帰ってきたということになります。福音書というのは、主イエス・キリストが何をなさったか、何をお語りになったか、それを直接伝えてくれるわけですから、説教者としてもやはり特別なものがあります。私どもの教会の信仰というのは、イエス・キリストという、このひとりのお方にすべてがかかっています。もちろん聖書というのは福音書に限らず、旧約聖書も含めて、主イエス・キリストの恵みをさまざまな形で語るものだと私どもは信じているわけですが、だからこそ、聖書全体が証ししているこのイエス・キリストというお方のみわざと、み言葉とを直接に伝えてくれる福音書を読むということは、私どもの信仰生活において特別な位置を占めるものがあると思うのです。
今朝の礼拝では、ひとりのご婦人が洗礼を受け、またひとりの若者の信仰告白式をしました。神と教会との前に、公に信仰を言い表す。その信仰の言い表しの中心となるのも、主イエス・キリストに対する信仰であります。あなたはこのナザレのイエスを信じるか。このお方を、あなたは愛するか。そのことを、洗礼を受けたあとも絶えず繰り返し問われます。私どもが日曜日の朝ごとに礼拝をするのも、いつも新しく、「主イエスよ、私どもはあなたを信じます」と、その思いを新たにさせていただくためでしかないのです。
そのために、今朝も私どもはみ言葉を聞きます。私どもが読み始めるマルコによる福音書もまた、そのような信仰の言い表しを促すために書かれたものでしかないのです。
いきなり福音書の最後に飛ぶようですが、このマルコによる福音書第15章の39節にこういう記事があります。マルコによる福音書がずっと記録していった主イエス・キリストの歩みは、遂に十字架に至る。その十字架の上で息を引き取られた主イエスのお姿を見て、イエスを十字架につけたローマの兵隊の百人隊長が、「本当に、この人は神の子だった」と言ったというのです。「本当に、この人こそが、神の子なのだ」。あなたの救い主、神の子イエス・キリストですよ。マルコによる福音書は、そこを目指しています。
少し不思議なことですが、「神の子」という言葉をマルコによる福音書が使うのは、ほとんどこの箇所だけです。例外的に、悪霊とか汚れた霊とか呼ばれる存在が、「ぎゃあ、神の子だ、助けてくれえ」などと叫ぶ場面が一、二ありますが、それは本当の意味で神の子を呼んだことにはなりません。イエスを「神の子」と呼んだただひとりの登場人物が、十字架の傍らに立たされた百人隊長です。マルコがこの福音書の最初に、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書いたときにも、既にあの百人隊長のことを思いながら、もちろんマルコ自身も同じ場所に立たせていただいていることを感謝しながら……そしてさらに、この福音書を読むことになる無数の人たちが、どうかこのお方に出会うことができるようにと祈りながら、この福音書を書き始めたことだろうと思うのです。
■マルコによる福音書がいつ書かれたのか、実はあまりはっきりしません。しかしひとつ確かなことは、使徒パウロの手紙よりはあとの時代だということです。先週までここで読み続けたフィリピの信徒への手紙は、パウロの書いた手紙の中でほとんど最後のものだと言われます。そしてその後、そう長くない時間のうちにパウロは殉教します。パウロだけではありません。殉教したり、あるいは天寿を全うした人も多かったと思いますが、とにかくだんだんと、最初の世代のキリスト者たちが地上からいなくなっていく。そこで何が起こるかというと、それまでは、主イエスの十二弟子などを中心に、直接主にお会いした人たちの話を聞いていればよかったのです。それがまた教会から教会へ、語り伝えられていきました。それで十分だったのですが、このままでは、主イエス・キリストの記憶が途切れてしまう。日本でも、80年前の戦争の記憶をどう語り継いでいくか、ということが問題になったりしますが、昔のことですから、そういう問題がずっと早くに生じた。そのようなところで、志を与えられ、初めて福音書を書いたのがマルコという人です。ついでに申しますと、マタイ・ルカ・ヨハネの三つの福音書は、いずれもマルコよりもずっとあとに書かれたものです。福音書という文学ジャンル(という呼び方が適切か分かりませんが)を最初に開拓したのが、マルコであったと言ってよいのです。
そのマルコという人が、いったいどういう人であったのか、これは学問をすればするほど迷宮入りという面があります。しかし新約聖書をよく読むと、マルコという名前の人がしばしば登場します。私などは、あまり勉強しすぎてかえってわけが分からなくなるよりも、むしろなるべく素朴に聖書を読む読み方のほうがずっと魅力的だと思います。ひとつだけ紹介します。ペトロの手紙一の第5章13節にも、マルコという名前が出てきます。ペトロの手紙Ⅰを主イエスの一番弟子ペトロ本人が書いたのか、これも疑い深い学者たちは真っ先に否定するようですが、以前この手紙を礼拝で説教したときにもお話ししたと思いますが、ペトロというひとりの人間からこの手紙をまったく切り離すのも無理だと思います。明らかに、ペトロ本人の息遣いが手紙の中に生き生きと息づいている。その手紙の最後のところに、「わたしの子マルコが、よろしくと言っています」と書いてあるのです。ペトロにはマルコという子どもがいたらしい。と言っても、肉親の子どもではないでしょう。わが子のようにかわいがっている教会の仲間がいたということだと思います。伝説によれば、そのマルコという人は、ペトロの通訳をしていたと言われます。田舎の漁師出身のペトロは、ラテン語もギリシア語もろくにできなかったでしょうから、少しはギリシア語もできるマルコが、いつもペトロ先生の働きを助けていた。もしも、そのマルコが福音書を書いたとすると、実はマルコ福音書のギリシア語もそれほど上手ではないと言われるのですが、この点でも辻褄が合います。とにかくそういうマルコという人が、いつもペトロのあとにくっついて、必要なときには通訳もしたかもしれない。いつもマルコは、ペトロの話を聞いていた。そのペトロの話とは、もちろん主イエス・キリストの話です。そのようにしてマルコが聞き覚えた主イエスのみわざを、み言葉を、今自分の手で福音書として書き記すのであります。
今紹介したペトロの手紙一の第1章8節にこういう言葉があります。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない喜びに満ちあふれています」。マルコもまた、この言葉をペトロから直接聞いたかもしれません。「マルコよ、お前もキリストを目で見たことはないね。それなのに、お前はこのお方を愛している。今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない喜びに満ちあふれている。そうではないか」。私どもにも、等しく与えられている祝福の事実であります。私どもは、主イエスを愛しているのです。マルコは、その喜びを福音書という形で書き記すのです。
■そのマルコ福音書の最初の言葉は、こうであります。「神の子イエス・キリストの福音の初め」。これは本文というよりも、マルコによる福音書全体につけられた表題のようなものだと考えることができます。古代の文書というのは、これは実は聖書のどの文書にも同じことが言えるのですが、本の題名のようなものはありません。「マタイによる福音書」とか「マルコによる福音書」とか私どもが呼んでいるのは、後の時代の人が便利なように勝手にタイトルをつけただけのことです。しかし福音書を書いたマルコ本人は、その代わりに、と言うのもおかしいのですが、ほとんど表題のような言葉から自分の文章を書き始めました。「神の子イエス・キリストの福音の初め」。われわれの翻訳では「神の子イエス・キリスト」という言葉から始まっていますが、原文では順序が逆で、「始まり、福音の、イエス・キリスト、神の子の」というように、「始まり」という言葉が最初に出てくる。ある人は「源」と訳しました。「イエス・キリストの福音の源」。何が始まるのだろうか。福音が始まる。神の喜びの知らせが始まる。それはすなわち、イエス・キリスト、この方のことに他ならないというのです。
ですから、ある英語の聖書の翻訳は、「初め」という言葉をあえて動詞で訳し換えて、「ここに始まる、イエス・キリストのよい知らせ」と訳しました。ここに、決定的な喜びが始まったのだ。ここってどこか。その喜びとは何か。そこでこの福音書が指し示すのは、もう一度申します、神の子イエス・キリスト、このお方を見よ、ということであります。
「神の子イエス・キリストの福音の初め」。すぐれた文学作品というのは、既にその最初の文章が決定的な力を持っていることが多いと思います。たとえば、「吾輩は猫である」なんて、ばかばかしいと思われるかもしれませんが、あの漱石の文章だって実は決してばかにできない言葉の力を持っているもので、だからこそ万人の記憶に残る言葉になったのです。しかし、「神の子イエス・キリストの福音の初め」というマルコの書き出しは、他のどんな文学作品にも引けを取らないものがあると思います。「ここに、喜びが始まるのだ。真実の喜びの源は、ここにあるのだ」。その喜びの知らせ、イエス・キリストの福音を聞くことによって、私どもは今日からしばらく、礼拝の生活を作っていきたいと思うのです。
■私どものしている日曜日の礼拝というのは、もちろん「礼拝」と書くように、神を拝むのですけれども、しかし考えてみますと、私どもは何をもって神を拝んでいるのでしょうか。それが実はなかなか分かりにくいというのが、正直なところではないでしょうか。神社に行って柏手を打ってみたり、お辞儀をしてみたり、イスラムの人のように聖地の方角を向いてひれ伏してみたり、そういう作法があれば、何か神を拝んだような気分になるかもしれません。われわれの宗教心が満足するかもしれないのです。ところが私どもの教会には、そういう礼拝の作法のようなものは何もありません。私どもがすることは、ただ聖書の話を〈聞く〉だけです。せいぜい目をつぶって手を組んでみたり、今は控えておりますが、讃美歌を歌ったりするくらいで、それにしてもほとんどの時間は聖書の話を聞くのです。それをもって、私どもは〈礼拝〉と呼んではばからないのです。それはただキリスト教の勉強をするとか、宗教を勉強して自分の心を豊かにしようとか、もちろんそういう目的で教会に来る人もいないでもないでしょうが、私どもがここでしていることは、〈福音を聞く〉ことです。神の喜びの知らせを、聞くのであります。それが神の求めておられる礼拝です。なぜなら、神は私どもに喜びを聞かせたいと願っておられるのですから、イエス・キリストという、このお方のことを知ってほしいと神ご自身が願っておられるのですから、その神の御心にかなう礼拝というのは、〈イエス・キリストの福音を聞く〉という、この一点に集中するのであります。
皆さんも、毎週日曜日の朝にここに集まり、礼拝の生活を繰り返しながら、いろんな経験をなさると思います。ここに集まるひとりひとり、それぞれの生活があり、それぞれの喜びがあり、悩みがあり、悲しみがあり、それだけにその人の心の深いところにある求めも、ひとりひとり本当にさまざまだと思うのです。経済的なことで悩んで、お金がほしい、あるいは安定した生活がほしいと、始終そんなことばかり考えながら、それで教会の門を叩く人だっているかもしれません。けれども礼拝に出ても、お金儲けの話を聞くことはできません。そんな人に教会が語ることは、「イエス・キリストを信じなさい」、ここにあなたの本当の喜びがあります、ということだけであります。あるいは、病気のことで悩みながら、健康がほしい、せめてあと10年は生きたいと悩んでいる人が神を求めて教会に来ても、あまり期待通りの喜びを受け取ることはできないかもしれません。教会は長生きの秘訣を学ぶ場所ではないからです。そんな人にも教会が語ることは、ここに真実の喜びの源がある、イエス・キリストを信じなさい、ということだけなのであります。恋人にふられて、傷心の中で教会の礼拝に来てみるということだってあるかもしれません。教会に来たって、新しい出会いはなかなかないかもしれません。傷ついた心は、そう簡単には癒されないかもしれません。それでも教会がそういう人に語ることは、イエス・キリストを信じなさい、これがあなたのための喜びですよ、ということでしかないのです。
けれども、お金がほしい人も、健康がほしい人も、素敵な恋人がほしい人も、この主イエス・キリストというお方の前に立たされるとき、逆に改めて問われるのです。自分にいちばん必要なものって、いったい何だ。これまでの自分の生活を振り返りながら、けれどもその自分の生活が、自分にとってどういう生活であったか、それだけでなく自分の隣人にとって自分はどういう存在であったか、けれども最も大切なことは、自分は神の前にどういう生活をしているのか。その自分の生活に、何が足りないのか、何が決定的に欠けているのか。自分の生活に、何が足りないから、自分の生活はこんなに貧しいのか、こんなに悲しいのか。そのことを、改めて問われないわけにはいかないのです。
お金が足りないとか、健康が足りないとか、頭が悪いとか顔が悪いとか、いろんなことで私どもは悩むのですけれども、そういう自分が、いったい神の前にどういう生活を作っているのか。本当は自分の生活は、神から与えられたものなのに、自分自身の存在がそもそも神に造られたものなのに、それにもかかわらず、神さまに対して正しい生活をしていない。ところが、そんなわたしのために、イエス・キリストという喜びの源そのものであるお方が現れたのだと、そのことに気づかなければ、いくら礼拝で聖書の話を聞き続けてみても、いつまでたってもちんぷんかんぶんということにしかならないだろうと思うのです。
■人間は、神の前に立たないと、本当の人間にはなれないのです。なぜなら、今申しましたように、人間は神に造られたからです。そして、人間が本当に神の前に立つことができるように、そのために神の子イエス・キリストが来てくださったのです。そのことを、マルコ福音書は、このように書き始めます。
預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの道を準備させよう。
荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ』」(2、3節)。
荒れ野に道を切り開くように、その道をまっすぐに、神ご自身が歩いて来られます。「預言者イザヤの書に」とマルコは書いていますが、正確にはイザヤ書の他に、出エジプト記とマラキ書の言葉を引用しています。それは大した間違いではありません。むしろマルコの思いからすれば、旧約聖書全体がこう言っているのだ、旧約聖書全体が要するに、この喜びを待ち望んでいるのだと言いたかったと思います。神ご自身にほかならない、神の子イエス・キリストが来られるのです。それが福音の初め、すべての喜びの源です。
その「主の道を整える」ために、神によって遣わされた主イエスの先駆者が、ここに出てくる洗礼者ヨハネです。このヨハネについては、来週の礼拝でもう一度丁寧に学びたいと思います。来週は9節から11節を読むと予告していましたが、おそらくもう少し前から、もしかしたらもう一度最初の1節から11節までを読むことになるかもしれません。このヨハネがしたことは、4節に書いてある通り、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」ということであります。ここに「悔い改め」と書いてあります。聖書の教える悔い改めとは、ただ悔いることではありません。自分で自分の悪いところを改めることではないのです。そうではなくて、「帰って来い」ということです。あなたには帰る場所があるのだから、帰って来なさい。そのヨハネの呼びかけに応えて、無数の人がヨハネから洗礼を受けました。わたしは、帰るべきところに帰らなければならないと、誰もがそのことに気づかないわけにはいかなかったというのです。
私どもも、いろんなことで悩むのです。しかも悩みの多い生活の中で、実にたくさんの過ちを犯す私どもなのであります。それで私どもは、落ち込んだり、反省したり、ふてくされたり、あるいはこれからは頑張ろうと立ち上がってみたり、ひとつ宗教でも信じてみるかと思ってみたり、いろんなことを考えるのですけれども、本当は、私どものすべきことはただひとつ、神のもとに帰ることでしかないのです。その帰って行くための道も、神が用意してくださる。いや既に、その道を通って、神ご自身にほかならないイエス・キリストが来られるのです。
そのためにヨハネが人びとに求めたことは、洗礼を受けることです。今朝もひとりの方が洗礼を受けました。ここで生まれるひとつの疑問は、ここでのヨハネの洗礼と、今私どもの教会がしている洗礼は同じものなのだろうか、違うとしたら何が違うのだろうか。ヨハネ自身が8節で、「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と言っているのですから、同じだとは言えないでしょう。けれどもまったく無関係とするのもおかしなことです。なぜならば、主イエスご自身がヨハネから水の洗礼をお受けになったからです。そこに神の霊が降ったと書いてあるからです。しかも皆さんも、聖書を読みながらお気づきになると思います。「その方は聖霊で洗礼をお授けになる」とヨハネは言いましたが、聖書のどこを読んでも、主イエスご自身が何かの洗礼活動をなさったなんて話はありません。ヨハネもその点では間違ったのだろうか。もちろんそんなことはありません。ヨハネによって準備され、主イエスによって始まった救いのわざは、主イエスが地上におられた時代だけで完結するものではありませんでした。今なお、聖霊の働きは続いており、今朝この場所で行われた洗礼の出来事においても、聖霊が働いていてくださると、私どもは信じるのです。まさにそこでも、私どもは同じ喜びの中に立つのです。すべての喜びの源である、主イエス・キリストが、ここにも立っていてくださる。今日信仰を言い表したふたりの方と共に、今私どもも帰るべきところに帰り、「本当に、この人こそ、神の子です」と言い表したいと思います。お祈りをいたします。
み子イエスを私どものために遣わし、ヨハネによってそのための道備えをしてくださった父なる御神、あなたの与えてくださる喜びの中に、今まっすぐに帰って行くことができますように。本当に、悔い改めることができますように。そのために、あなたの与えてくださった福音書を読みます。繰り返し、繰り返し、過ちを犯す私どもですが、それ以上に繰り返し、あなたの喜びの中に帰って行く幸いを学び続けることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン