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絶望か希望か

2022年8月21日

嶋貫 佐地子
ヨハネによる福音書 第11章1-16節(II)

主日礼拝

 

「ある病人がいた」(11:1)と、
この出来事は始まります。でもそれだけで、なんだか温かみを感じます。
「ある病人がいた。」それに心当たりがあるからです。
私どもはいろいろな病人に出会いますが、その中でも特に、思い当たる人がいるからです。

やがて、その病人の姉妹から、主イエスのもとに告げられたことは、急を要することでした。
「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」(11:3)

その言い方でわかりました。
「主よ、あなたの愛しておられる者が」、その者に、死が近いのです。

私どもも病院で、今か今かと待っている。主よ、あなたがここにいてくださいましたら。その切なる祈りの中に、この姉妹たちはおりました。なんとか、この病気が死に至りませんように。あなたがいてくださいましたら。あなたならこの人を癒すことがおできになります。二人の姉妹は主の愛に頼って、伝えたのです。そのあなたの愛を、信じています。

この出来事はベタニアのラザロという青年が、死から、よみがえらされる出来事です。そのラザロと、そしてふたりの姉妹を、主は「愛しておられた」(11:5)と、聖書は記しました。そしてその愛が、この出来事全体の根底に流れているのです。

だからもし、その愛する者が危篤であったら、主はすぐに駆けつけてくださるだろうと思うのです。でも、主イエスはそれをなさいませんでした。なおそこに二日間滞在されました。けれどもその代わりに、そこで主イエスが言われたことは、人の愛の期待をはるかに超える最上の愛の言葉でした。
「この病気は死で終わるものではない。」(11:4)

主イエスは、彼は死なないと言われたのではありませんでした。そうではなく、彼は死ぬ。けれどもそれで終わらないと、主は言われたのです。臨終と言いますけれども、普通死ぬことは終わることだと思いますけれども、でも主イエスは、それで終わりはしないとおっしゃったのです。なぜなら、これからこの愛が、彼を死から、起こしに行くからです。

だからなお二日間、そのあいだに何が起こるか主はご存じの上で、同じところに滞在され、そして二日経ってから、主は弟子たちに言われました。「もう一度ユダヤに行こう。」(11:7) 弟子たちは驚き、そして怯えました。ラザロがいるユダヤのベタニアという村はエルサレムのすぐ近くにありましたので、そのエルサレムでついこの間も、ユダヤ人たちが「あなたを石で殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」(11:8)あなたは殺されかかったところに、また行かれるのですか?

すると主はお答えになりました。「昼間は12時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」(11:9-10) 主イエスは光のあるうちに、一緒に行こうとおっしゃいました。そしてそのあとで言われました。
「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」(11:11)

弟子たちはそれを聞いて言いました。「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう。」(11:12) 弟子たちは、やや、ほっとして、ああ、それなら、彼は眠っているのであれば、それなら起こせばいいので、それなら助かるでしょうと言いました。けれども福音書はそれを丁寧に言います。主イエスは「ラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。」(11:13)
すると主イエスははっきりと言われました。
「ラザロは死んだのだ。」(11:14)

私どもが、私どもの愛する人の死を告げられた時のことを、覚えておいでの方も多いことでしょう。「臨終です。何時何分。」それは残す者にも、残る者にも、終わりはリアルなのです。リアル過ぎて意識が飛ぶほどです。時がそこで終わる。死ぬことは終わりなんだと。横たわっているこの人は、もう起きはしないんだと。そして残された自分も終わりなんだと。

でも主は、言われたのです。その人は眠っているだけだ。
死は眠りに過ぎない。

前に、もうずっと昔になりますが、説教で「死は眠りだ」と聴いた時、母と私が、ああ残念、と思ったのを思い出します。父が早くに亡くなって、母はまだ小さい兄と私にその父の存在を毎日のように伝えてくれる人でした。そして私の目の前で、ほんとうに辛いときに「パパぁ」と言って泣き出したこともありました。そうやって母と私で、いつも「パパが見てるよ」とか「パパが笑ってるよ」とか、笑って話していたものですから、その説教を聴いたあと、この礼拝堂で母と見つめあって、「パパは眠っているんだって。」ああ、残念。さみしい。でもその後でじわじわと、母が「でもイエスさまが起こしてくださるのね」、そう言って笑顔になって自分に言い聞かせたことが忘れられません。空想でおしゃべりしているよりも、よっぽど、今生きている私たちを、主イエスが起こしてくださる、愛の言葉でした。だから信仰者にとっては、死は、絶望か希望かと言ったら、希望になったのです。絶望か希望か。いえ、死は希望になったのです。主が起こしてくださるからね。

主イエスの、この出来事の目的はそういうことでした。「わたしは彼を起こしに行く。」そのことをこれからあなたたちは見て、そのことをあなたたちは信じる。そのためだ。ここに「なお二日間滞在」の意味がある。死ぬんだ。主イエスがいないと死ぬ。だが、わたしは彼を起こしに行く。

だから、わたしがラザロのところにすぐに行かないで、「その場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった」(11:15)と主は言われました。それは「あなたがたが信じるようになるためである。」このことは、あなたがたにとってよかった。「よかった」というのは、「わたしは喜ぶ」というお言葉でした。このことはよかった。あなたがたが信じるようになるためだから、わたしはこれを喜ぶ。

主イエスはまた「昼は12時間ある」と言われましたが、それもこの希望です。希望は光と言われます。「昼間は12時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。」「この世の光」というのは、明らかにご自分のことです。「わたしは世の光である」(8:12)と、前にも主は言われましたし、そしてそのときも「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました。「世の光」主イエスを見ながら、主イエスと一緒に歩けば、私どもは暗闇を歩かないで済む。その人は、「命の光」を持って歩くから、だからつまずかない。絶望で倒れない。でも、夜歩けば、つまずく。

主は「昼間は12時間」と言われて、その昼が、終わる時が来ることもおっしゃいました。やがて夜が来る。十字架があり、光が見えなくなる時が来る。でもそのとき、その人の内に、光がなければ、ほんとうに夜になって、つまずく。

主イエスという光を、中に持っているか、いないかで、希望を持っているかいないかで、もしキリストなしの人生なら、そこでつまずく。

ここにいた弟子たちのうちのトマスという弟子が、仲間の弟子たちに「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(11:16)と言いました。主イエスがベタニアに行くということは、殺されに行くようなものだから、それなら、わたしたちも行って一緒に死のうではないか。死に怯えている弟子たちの中で、トマスはとても勇敢でした。主イエスにどこまでもついてゆく。だからそのために我々も行って一緒に潔く死のう、と言ったのです。
でも、このトマスも、その内にあるのは、死の絶望でした。死なばもろとも。
キリストなしの崇高な絶望です。

夜というのは、弟子のユダもまた、主イエスを、十字架に引き渡すために出て行ったのは「夜であった」と福音書は記しました。最後の食事の席で「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」(13:30)
夜。彼はそのあと自殺を選びましたが、ユダは絶望の夜から出られませんでした。主イエスはこのとき、そのユダにも、前もって言われたのです。昼は12時間ある。その光のあるうちを歩け。そうすればつまずかない。やがて、夜が来ても。

「その人の内に」光があるなら、つまずかない。
わたしを内に持て。
そうしたら、絶望という病気も、
死で終わることはない。

そして主は、弟子たちに言われたのです。わたしたちの友ラザロのところへ。
「さあ、彼のところへ行こう。」(11:15)

かつて、教会のある方で、ご夫妻で教会によく仕えられた方ですけれども、そのご主人が入院なさって、そしてもう、おそらく数日だろうと、言われていたときに、奥様が、私と話をしてくださいました。そうしたらそのときこう言われました。「毎日、病院に行くときに、それから帰ってくるときに、讃美歌が出てくるのよ。」
このあとご一緒に歌いますが、毎年、教会の創立記念日に歌う讃美歌です。

「潮さいも ほど遠からぬ 海のほとりに
キリストのみ声が聞こえ
召し出された ちいさい群れが」

という讃美歌です。

ちょうどそのご夫妻は、七里ガ浜に住んでおられたので、あの海岸線の134号線から七里ガ浜の住宅街への坂道を、特にその奥様が帰る時、病院から家に帰ってゆくときに、あの坂道をのぼりながら、その方も、もう弱っていらして、連日で、さぞお疲れであったことでしょう。ふらつきながら、坂道をのぼってゆく。でもその方がおっしゃるのです。
「あの讃美歌、教会の、潮騒の。」そしてお声が明るくなって、「あの讃美歌が心の中から出て来て、それを口に出して歌うと、元気になるの。」
「それでね、毎日、あの讃美歌を歌って歩いているのよ。」

夕方だけどまだ明るいあの坂道を。
長く連れ添った夫と、何度この道を一緒に歩いたかしれないけれど、さっき見た、病室での、夫の顔を思いながら、主イエスがおっしゃる。
「この病気は死で終わるものではない。」

よかったね。
信じることができてよかった。

その希望の中を、光の中を、
私どもは主イエスと一緒に歩いてゆくのです。

 

天の父なる神様
この数日続く葬儀の中でも、私どもはその光を見ます。私どもの内にいてくださる、御子イエス・キリストの御名によって、感謝し、祈り願います。
アーメン