最高の道は愛
中村 慎太
コリントの信徒への手紙一 第12章31節-第13章13節
主日礼拝
「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」
伝道者パウロたちは、そのように私たちに「最高の道」を教えます。
今日、私たちが聴いた新約の聖書の言葉は、コリントの信徒への手紙一からのものでした。イエスさまの弟子であるパウロたちが、コリント教会の仲間たちに宛てた手紙です。そこで、パウロたちは、最高の道として、愛について教えていくのです。
これらの言葉は、私たちに愛をはっきりと教える、教会でも特に大切にしている聖書の言葉です。キリスト教は、愛の宗教、と言われます。その通りなのです。また、主なる神さまの本質は、愛である、と聖書には書かれています。
そして、今日共に聴いたこの新約の言葉を、愛唱の聖句としている人も、多くいるでしょう。私もその一人です。ことあるごとに、このみ言葉に帰り、神さまの愛とはこういうものだ、と思い出すのです。
さて、そのようなこの言葉が、手紙としてどのように書かれたかを知ると、さらに深くみ言葉が味わえるでしょう。
コリントの信徒への手紙一は、遠方にいる伝道者パウロたちが、生まれたてであるコリント教会の信徒たちに出した手紙です。この手紙の前に、コリント教会の方からパウロに対して、手紙が送られていたのでしょう。それは、教会で起こっているいくつかの問題の相談の手紙であったと考えられます。よって、このコリントの信徒への手紙一は、問題を抱えるコリントの信徒たちに、イエスさまの教えを思い出させ、教会の進み方を教え、励ます内容だったのです。
コリント教会の課題の一つは、信徒の賜物をどう生かしていくか、ということでした。コリント教会の中では、神さまのために用いるさまざまな働きがありました。しかし、その働きを、自分の力と考えてしまう者たちがいた。そして、その力によって、自分を他の者たちより高くみてしまうのであった。
しかし、パウロたちは伝えるのです。そのような働きや力は、神さまから与えられたもの、賜物だ。それは、イエスさまの体である教会が、さらに伝道をするため、一人一人に与えられたものだ。一人一人の賜物は、そして、教会の一人一人は、どれも、だれでも、かけがえのないものだ、とパウロたちは伝えるのです。そのようなことが第12章まで伝えられてきたのでした。
そのうえで、パウロたちは、最も大切な賜物を教えます。神さまから与えられ、私たちが神さまのためにささげていく、最大のものは何か、今回の所で伝えるのです。
パウロたちは伝えます。すべての賜物を生かすためには、最大の賜物である、愛が必要だ。むしろ、愛が無ければ、私たちは無に等しいのだ、と。
1-3節。
そして、愛とはこういうものだ、とパウロたちは伝えます。
4-7節。
これが、愛とは何か、私たちにはっきりと示す言葉です。
文字通りに、これを読んで、分かった、となればいいでしょう。しかし、簡単には分からないものです。
まず一つ私たちが思い巡らしたいことは、これらの事柄は、コリント教会に起こっていた問題を、解決するものとして書かれているということです。
皆さん、この新しい一週間の歩みの中で、改めてコリントの信徒への手紙一を読み返してみてください。
そこには、コリント教会で起こっていた様々な問題が、挙げられていました。コリント教会の人たちには、忍耐や情けが足りず、教会の仲間をないがしろにすることがあった。他の誰かを妬み、自分の知識を誇り、高ぶる者がいた。イエスさまのためではなく、自分の利益を求めようとしてしまう者がいた。
パウロたちは、そのようなコリント教会の仲間を、批判していることにもなります。あなたたちは、愛とかけ離れてしまっているのだよ、と。あるいは、愛を教えることで、彼らを、本来の在り方へと帰るように、励ましている。神さまの愛に戻ろう。そうすれば、教会の問題はどれも解決するよ、と。
そして、コリント教会の皆に向けられた言葉は、私たちにも向かってくる言葉です。
愛についてのこのみ言葉は、私たちに愛が欠けていることを思い出させる言葉でもあるのです。
この愛、というところに、「〇〇教会の信徒」と入れてみても、いいでしょう。
私たちの名を当てはめてみて、考えてみるといいでしょう。
そうすると、「その通りだ」、と読めないのです。
私たちは、愛を完全になすことができない。
私自身、愛せなかったことがある。あの時、もっと愛を注げていればと思いだすことがたくさんある。皆さんもそうではありませんか。
教会は、愛を知る群れです。それはつまり、私たちの愛が不完全であることを一番よく知ったうえで、愛を追い求める群れです。
聖書は、愛に欠けた者たちの歴史を記すものでもあります。
コリント教会のように、愛に欠けた群れがあった。
それは、信仰の共同体のさきがけであった、イスラエルの民です。
イエスさまがこの地上にいらっしゃる数百年前のこと、イスラエルの民は、神さまに守られ、支えられて、王国を築きました。しかし、その王国は、神さまからの愛を忘れ、神さまに愛をお返しすることができなくなってしまいました。主なる神ではない、偶像を拝むことをしてしまった。
民同士が愛を行うこともできず、弱いものが蔑ろにされることが起こりました。そのような王国は、ついには、分裂し、滅んでしまうのでした。
旧約に記されている時代から、人は、神さまを愛することを、誰かを愛することにも、欠けていたのでした。
今日私たちが共に聴いた旧約の御言葉は、そのように、神さまを愛することができず、分裂して滅びてしまい、のこった一方の王国も滅びようとしている時、主なる神が預言者エレミヤを通してお与えになった言葉です。
そこには、どれほど人が神さまを愛せなくとも、神さまの方は愛し続けてくださっている、と伝える言葉です。どれほど人が神さまから離れ、滅びに至ってしまっても、神さまは人を愛し、救い出す、新しい道を与えてくださる、と伝える言葉です。
実は、私たちは、主なる神がどれほど私たちを愛してくださったかを知ることで、本当の愛を知ることができます。むしろ、それ以外に、私たちは真の愛をしる術を持たないとも言えるのです。
愛は忍耐強い、というこの言葉を考えてみてもいいでしょう。主なる神ほど、自らを愛さず、離れていく人を、愛し続けてくださった方がいらっしゃるでしょうか。どれほど愛しても、主なる神ではなく、他の何か、偶像を愛してしまう、人を、愛し続けてくださった方はいらっしゃるでしょうか。
そして、主なる神は、この愛を全うするために、ご自身が、イエス・キリストとしてこの地上に来てくださいました。私たちに、愛を教えてくださいました。主なる神を愛し、隣人を自分のように愛すること、それこそが、最も大切な教えだと、伝えてくださいました。
人々に迫害され、十字架に架けられるほどの苦しみを与えられても、愛を貫いてくださいました。十字架によって、主なる神から離れてしまう私たちの罪を、赦してくださいました。壊れてしまった父なる神さまと、私たちの関係を、回復させてくださいました。
そのように、愛を教え、十字架にかかるほどまで私たちを愛してくださったイエスさまによって、私たちは本当の愛を知らされたのです。
先ほど、愛というその語に、私たちのことを当てはめることができるか、という話をしました。キリストの名のみが、それができるお方です。
私たちは、愛を知ったのです。私たちの側には、その愛は不完全であることも含めて、愛を知ったのです。そして、その愛は、イエスさまによって、私たちにもう注がれていたことを知ったのです。教会は、その愛を、イエスさまに従い、イエスさまに似た者となることを祈りつつ、愛をささげていく群れです。そしてその愛を、伝えていく群れです。
その教会の歩みには、ゴールがあります。パウロたちも、そのことを伝える。
8-13節。
パウロたちは、イエスさまが再びこの地上にいらっしゃる時、この世界がイエスさまによって完成させられ、私たちが再びイエスさまに面と向かってあい、天に入れられる希望の時を思い出させます。
その時、私たちはどのようにイエスさまにお会いするでしょうか。どんな言葉をイエスさまにかけられるでしょうか。
あなたは地上でこれだけよく学んだね、とか、これだけよくお金を貯めたね、とかそんなことは言われないでしょう。そうではなく、「あなたは私が教えた愛を、大切にしたね」「私を愛し、隣人を自分のようによく愛したね」。とそうおほめくださるか、それともどうか、ということを、私たちは思います。
私たち、教会に集められた者、キリスト者の生きる目的は、そこにあります。イエスさまに面とむかってお会いした時、主から与えられた愛を私たちもささげたか。
その愛を、その愛を示してくださったイエスさまを、これからの生涯を通して、さらに知り、追い求めていきましょう。その主の愛に生かされて、私たちも神を愛し、隣人を自分のように愛しましょう。