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わたしたちの誇りは、天の国籍

2022年7月10日

川崎 公平
フィリピの信徒への手紙 第3章17節-第4章1節(II)

主日礼拝

■主の日の礼拝で読み続けているフィリピの信徒への手紙と並行して、木曜日の集会で使徒言行録を読み続けています。木曜日の集会というのは具体的には、第1木曜日の教会祈祷会、それから久しぶりに今年5月に再開することができた、第2木曜日のハナミズキの会の例会であります。この使徒言行録の学びについては、雪ノ下通信にもずっと私が連載していますから、お読みくださっている方もいらっしゃると思います。別に自分の文章を宣伝する意図はありませんが、使徒言行録というのは、本当におもしろい。特に今、礼拝でフィリピの信徒への手紙を読みながら、この手紙を書いたパウロという人の波乱万丈の歩みを使徒言行録から学んでいるわけで、私にとっても特別な経験になっています。

最近教会祈祷会で読んでいるのは、使徒言行録の中でもかなり終わりに近い部分です。パウロが最後の伝道旅行、第三回の伝道旅行を終えて、最後に向かったのはエルサレムでした。ところがパウロという人は、何しろ異邦人、ユダヤ人でない人にも神の救いを約束して歩いているということで、特にエルサレムのユダヤ人にはたいへんな憎しみを買っておりました。案の定、パウロがエルサレムに着くなりたいへんな暴動が起こり、そこでいちばん困ったのは占領者であるローマ帝国の役人たちで、それでエルサレムに駐留していたローマの警察が慌ててパウロの身柄を拘束するということになりました。

そのときに、使徒言行録がさりげなく伝えているエピソードがあります。ローマの千人隊長が、とにかくまずこのパウロという男から、事情聴取をしないといけない。それで、鞭で打ち叩いてから――鞭打ちというのは、その鞭の先に石とか金属とかが付いているような、かなり厳しい拷問だったようですが――パウロを尋問しようとしたら、パウロはそばに立っていた兵隊に言いました。「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか」。ローマの市民権というのは、住民票がローマにある、というような意味ではありません。当時の世界においては、「わたしはローマ市民である」というのは、すなわち一種の特権階級を意味しました。これを聞いて、皆慌ててしまって、それで改めて千人隊長がパウロのところに来て言いました。「あなたはローマ市民だそうだが、本当か。わたしは、相当のお金を出して市民権を買ったのだぞ」。そうしたらパウロは、「わたしは生まれたときからローマ市民です」。それで、皆震え上がってしまって、慌ててパウロを縛っていた縄を解いたと言うのです。

ローマの市民権を持っているというのは、つまり、いざとなったらローマが助けてくれるということでしょう。たとえば、裁判にもかけずに鞭で打たれたなんてことがあったら、場合によってはローマ帝国がわたしのために報復してくれる。その権利を守ってくれる。そういう話です。

その関連でひとつ知っておくとよいことは、フィリピの信徒への手紙を受け取ったフィリピという町は特別な立場を与えられていて、地理的にはローマから遠く離れているわけですが、ローマの植民都市として栄えた町でした。簡単に言えば、他の町とは格が違うわけです。住民のかなりの部分が、ローマの市民権を持っていたと言われます。そういう人たちは当然、日常の生活もすべてローマ風にするのです。「わたしはローマ市民である。われわれフィリピは、ローマの植民都市である」ということが、人びとの誇りとなり、心の支えにもなっていたと思います。

■そういう人びとの心をよく知るフィリピの教会の仲間たちのために、パウロはこのように語りかけるのです。「わたしたちの本国は天にあります」(20節)。これは、かつての口語訳聖書では、「わたしたちの国籍は天にある」と訳されました。「天の国籍」という言葉が多くの人の心を捕えてきたと思います。興味深いことに、聖書協会共同訳という新しい聖書翻訳が作られましたが、口語訳に回帰するように、「私たちの国籍は天にあります」と、「国籍」という言葉を復活させました。しかもこれに脚注がついていて、直訳すると「市民権」という言葉だ、と書いてあります。つまり、わたしはローマの市民権を持っている、わたしの本国はローマにある、という人びとの誇りにも似て、もちろんそんなこととは比べようもないくらいの深い望みを、パウロはここで語るのです。「わたしたちの国籍は天にあります」。「わたしの誇りは、天に市民権があることです」。パウロが、どんなに誇らしい思いで、どんなに深い喜びを込めて、このように書いたことだろうかと思うのです。わたしは、天に市民権を持つ人間なのだ。

先ほど、パウロがローマの市民権を持っていたために、鞭打ちの刑をうまいこと免れたという話をしましたが、それはそのときだけの話で、その後のパウロの歩みは、ますます平穏無事とは程遠いものになっていきました。先週の木曜日にも教会祈祷会がありまして、使徒言行録の第24章を読みました(今週木曜日のハナミズキの会でも同じ箇所を読みます)。その最後のところに、「さて、二年たって」とさりげなく書いてあります。あまりにもさりげないので、うっかりすると読み過ごしそうになりますが、その2年というのは、パウロがカイサリアという町で監禁されていた期間のことです。決して短い時間ではありません。少なくともそのときには、せっかくのローマの市民権も役に立ちませんでした。しかも2年といっても、パウロにとっては、2年たったら解放されるという見通しは何もなかったのです。1か月たって、2か月たって、まだ自分は牢の中だ。半年たって、1年たって、何も状況は変わらない。2年たって、これはいよいよ、自分はこのままこの場所で人生を終えるのではないか。そのような2年という時間は、どんな不屈の人であっても、絶望するのに十分な時間だったと思います。

私どもが今読んでいる、フィリピの信徒への手紙というのも、やはり獄中で書かれたものです。それが、この2年間のカイサリアの監禁生活の中で書かれたものなのか、それは分かりません。パウロという人は、絶えずいろんな場所で投獄されましたから、フィリピの信徒への手紙を書いたのは別の場所であったかもしれません。しかし、いずれにしても、パウロという人は、いつどこにあっても、自分の本籍地を望み見る希望に生き続けることができました。「わたしの国籍は、天にあります!」「わたしの誇りは、ローマ市民であることよりも何よりも、天に市民権があることです」。

■なぜこのような希望に立つことができたのでしょうか。そこで続けて、こう書くのです。

そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです(20、21節)。

まず第一に、天にはわたしの救い主イエス・キリストがおられる。そのお方が、やがてわたしのためにも来てくださる、と言うのですが、興味深いのは、ここに「救い主」という言葉が出てくることです。救い主なんて言葉は、聖書のどこにだって掃いて捨てるほど出てくるだろうと思われるかもしれませんが、案外そうでもありません。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書を全部探しても3回しか出てきませんし、パウロの手紙にも――新約聖書の手紙のうち、どれが本当にパウロが自分の手で書いた手紙なのか、学者によって考え方が少しずつ違うので、数え方にもよるのですが――パウロが「救い主」という言葉を用いたのは、この箇所が唯一かもしれないのです。なぜそういうことになったのか、ひとつの説明は、当時この「救い主」「救世主」という言葉が、ローマ皇帝を賛美するために用いられたからだというのです。いわゆる、現人神であります。もちろん、ローマ皇帝以外の人を救い主と呼んだりしたら、きっと世間から叩かれるだろうからこの言葉を避けた、というような話ではありません。パウロという人は、そんな余計な気遣いをするような人間ではありません。むしろ、本物の救い主である主イエスと、ローマ皇帝みたいな人とを混同されたら困る、という思いが働いたのかもしれません。しかしここでは、どうしてもこの「救い主」という言葉を使いたくなったのでしょう。

フィリピという、ある意味で特別な都市に住むローマ市民にとって、われわれは誇り高きローマ人なのだ、自分たちはローマ皇帝という救い主に守られている、という意識には深いものがあったでしょう。「すべての道はローマに通ず」という格言がありますが、あれは実は、世界中のどこにでもローマの軍隊が駆けつけることができるように、そのためにすべての道はローマに通じるように作られたのだということを、かつて教えられたことがあります。世界中、どこにいたって、わたしの国籍はローマにあるんだから大丈夫。救い主たる皇帝が、必ず助けを送ってくれる。ことにフィリピのような、ある意味で高級な都市に住んでいた人びとにとっては、ローマ皇帝の存在はことさらにありがたく、誇らしいものがあっただろうと思います

実は、そういう気持ちは私どもにもよく分かるので、海外に旅行に行ったり、ことに海外で生活するようなことになったら、かえっていつもよりも、自分の本国のことを考えるようになるでしょう。いざとなったら日本政府が助けてくれる、ということが何もなかったとしたら、安心して旅行にも行けないだろうと思いますし、それ以上に今私どもが痛ましい思いで知っていることは、祖国を追われて難民として生活しなければならないということが、どんなにつらいことか、どんなに心細いことかということであります。今年になって、世界の難民の数は急激に増えまして、その数は遂に1億人を超えたという報告を読んだことがあります。そういう人たちが、いつ祖国に帰れるか。1年たったら帰れるのか、2年たったら帰れるのか、ほとんど何の見通しもないし、現実問題として、その人たちのために救い主もスーパーマンも現れないのです。それでも、わたしの本国はあそこにあるのだ、わたしには故郷があるのだという事実があるだけでも、それがその人たちにとって、どんなに大きな力になることでしょうか。

まして私どもには、天のふるさとがあるのです。たとえ今、地上でどんなに苦しい目に遭わなければならないとしても、わたしたちの本国には皇帝キリストがおられるのであって、そのことは、パウロにとっては、大声で叫び出したいような誇りであり、喜びであったに違いありません。

■洗礼を受けてキリスト者になるということは、言い換えれば、天に市民権を持つようになる、天に国籍を持つ者として、そのことに誇りをもって、この地上の生活をするようになるということです。それはただ虚しく天を見上げながら、地上の生活を軽蔑するというのではないのです。最後の最後に、どこに希望を置いているか、何を望みとしているかという話です。そしてそれは、ふだんの生活においては、それほどはっきり見えてくることではないかもしれません。たとえば先ほど、祖国を追われた人たちの話をしましたが、外国人として生活するというときに、明らかに顔立ちが違う、話している言葉も違うということであれば、ああ、あの人は外国人だ、とすぐに分かるでしょう。けれども、私どもは天に国籍があるというのですが、その違いははっきりと見えないのです。どこにも違いがあるようには見えないけれども、やっぱり何かが違う。同じような生活をしているように見えても、その人が何を望みとしているか、最後の最後に、どこに望みを置いているか、それは日常の生活には露骨に現れないかもしれませんが、それだけに、その人の存在を根本からしっかりと支える力になるに違いありません。それを21節ではこう言うのです。

キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

天に国籍を持ったからといって、たちまちスーパーマンに変身するわけではないのです。「わたしたちの卑しい体」とここに書いてありますが、洗礼を受けたって、何十年信仰生活を続けていたって、「わたしたちの卑しい体」は卑しい体のままです。特にパウロのように、牢獄での生活を強いられたりしたら、いろいろと体に変調をきたすことだってあったでしょう。体が丈夫でなくなれば、心だって崩れるものです。そういう自分の弱さを正直に見つめながら、「わたしたちの卑しい体」とまで言いながら、そこでなお天におられる救い主に希望を置くのです。

その主イエス・キリストもまた、地上におられたときには、ふつうの人とまったく見分けのつかない姿で生活をなさいました。顔立ちも言葉遣いも、ふつうの人と何も変わるところはない。「わたしたちの卑しい体」と同じ体を持って、イエス・キリストは地上での生活をなさいました。しかもそれでいて、このイエスという人は、どうも何かが違うという姿をお見せになりました。十字架につけられたときも、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、ほとんど泣き叫ぶようにして息を引き取られたのですが、そのお姿は実は、地上に国籍を持たない、いわば難民としてのみじめさであったのです。ところがこのお方は、実は天の皇帝であらせられたのであって、このお方が三日目に死人の中からお甦りになったことは、その事実の確かな証しとなりました。このお方が、「万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」。そうしたら、私どもの生活だって、どこからどう見ても何も変わったところはない、それなのにやっぱり何かが違う、ということになってくるだろうと思います。

■やはりパウロが、どこかの牢獄に捕らわれていたときに書いたと言われるコロサイの信徒への手紙の第3章1節以下に、こう書いてあります。

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです(1~3節)。

「あなたがたは死んだのであって」というのは、たとえば、地上にはもう自分の本籍地はない、と言い換えて見せることもできるかもしれません。こういうことをことさらに強調する必要もないかもしれませんが、世界に1億はいると言われる難民のうち、かなりの数の人が国籍を持たないそうです。パウロのような人には、その厳しさが特によく分かったかもしれません。自分にはもう、地上のふるさとは存在しないんだ。けれどもそこで、「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」と言うのです。わたしの命は隠されている。牢獄の中にいるパウロの命は、まさしく風前の灯であって、ほとんど隠されている、つまりほとんど死んだかのようだ。ところが天を見上げてみると、そのパウロの命が実は、「キリストと共に神の内に隠されている」。あるいは「かくまわれている」と言ってもよいかもしれません。そのキリストが、いつかもう一度来てくださるとき、「万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」と、確信をもって言い表すことができるのです。

■私どもの住んでいるこの世界の情勢は、決して明るいとは言えないと思います。じゃあいつ明るかったんだと言われたら答えに困りますが、それでもやはり、明らかに歴史の流れが変わったと言わないわけにはいかないのです。一昨日に起こった、元首相の暗殺という事件も、この出来事をどう解釈したらよいのか、どう総括したらよいのか、まだまったく分かりませんが、もしかしたら、私どもの国が80年前、あるいは90年前に経験したあの暗い時代も、こんな感じで始まったのかな、とふと予感させるものがあると思うのです。

そのようなところで、私が思い起こすエピソードがあります。カール・バルトというたいへん有名な神学者が、1968年の12月に自宅で亡くなる前夜に、トゥルンアイゼンという親友と電話で話した、その会話が残っています。1968年というのも、いわゆる東西の冷戦の真っただ中で、プラハの春とかチェコ事件とか呼ばれる出来事が起こった時代です。そういうときに、バルトがこういうことを電話で親友に話したというのです。「そうだ。世界は暗澹としているね。但し、意気消沈だけはしないでおこうよ、絶対に。何故なら支配していたもう方がおられるのだから。モスクワやワシントン、あるいは北京においてだけではない。支配していたもう方がおられる。しかもこの全世界においてだよ。しかし、まったく上から、天上から支配していたもうのだ。神が支配の座についておられる。だから私は恐れない。もっとも暗い瞬間にも信頼を持ち続けようではないか。希望を捨てないようにしようよ。すべて人に対する全世界に対する希望を。神は私たちを見捨てたりはしない。私たちのうちのただの一人も」。

私どもの信仰生活は、天に根拠を持つものです。考えてみれば当たり前のことですが、その当たり前のことを、しかし私どもは、いくたび忘れたことでしょうか。神はこの世界を、まったく上から、天から支配していてくださるのです。そのことを信じなかったら、いったいどこに望みがあるのでしょうか。どんなに立派な生活を誇ってみたって、結局はひとりの旅人にすぎない私どもの地上の生活なのであります。ひとつの星にすぎない、もしも核戦争が起こったらわずか数時間で滅びるかもしれないひとつの星だけが頼りの生活というのは、考えてみれば非常に寄る辺ないものがあります。パウロのように、今、新しい思いで、「わたしたちの誇りは、天の国籍です」と言い表したいと思います。そのためにこそ、キリストはこのひとつの星にすぎない地上に来てくださったし、そのキリストを通して、パウロは今も、私どもに呼びかけてくれるのです。

だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい(第4章1節)。

 

主イエス・キリストを私どもの救い主としてお送りくださった天の父よ、私どもはあなたに愛されているのですから、主によってしっかりと立つことができますように。いつ滅びるか分からないこの世界を、けれどもあなたは、決してお見捨てになることはありません。十字架につけられ、お甦りになった主に望みを置きつつ、誇りをもって、私どもの本国を仰ぐ者とさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン