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十字架だけが、わたしの救い

2022年7月3日

川崎公平
フィリピの信徒への手紙 第3章17節ー第4章1節(I)

主日礼拝

■「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」(17節)。これは説明抜きに、たいへん大胆な発言だと思います。しかも、これを書いた伝道者パウロという人は、この箇所に限らず、他のところでも同じように、「わたしに倣う者となりなさい。わたしを模範としなさい」ということを言い続けたようです。フィリピの信徒への手紙というのは、パウロが自分の手で書いた手紙の中では最後のものだと言われますが、逆にパウロが最初に書いたと言われるテサロニケの信徒への手紙Ⅰにも似た内容の言葉が出てきますし、パウロの書いた他の手紙にも何か所か見つけることができます。きっと手紙の文面に残っていなくても、何かというとこのことを語り続けたのだと思います。「わたしに倣う者となりなさい。わたしの真似をして歩んでほしい」。しかしこれは率直に言って、たいへん勇気のある発言だと思います。何十年と信仰生活をしていたって、いやむしろ信仰生活が長くなればなるほど、「こんなこと、絶対自分には言えない」と思えてならないのが、普通の人の感覚ではないかと思います。

たとえば、こういうことを考えていただいてもよいと思います。この場所にも、日曜日の礼拝に来ているのは家族の中で自分ひとりだ、という方がおられると思います。まだ信仰を与えられていない家族を、この時間は家に置いてきて、自分だけがこの場所に来ている。そういう人が、今朝このようなパウロの言葉を読んで、「牧師にもずいぶん強く言われちゃったし、わたしも同じことを言わないといけないかな」。それで家に帰って、「ただいまー。ねえ、ちょっと、あなた。今日から、わたしのことを見習って生活しなさいね」。いやいや、それはいくら何でも、ということにしかならないだろうと思います。

なぜパウロは、こういうことを、しかもどの教会に対しても繰り返し語ったのでしょうか。それは、パウロのような立派な人には許される発言だけれども、われわれのような、それほど立派でないクリスチャンには許されないということなのでしょうか。しかしそれはどうも、教会の信仰の筋から言ってもおかしいと、健全な信仰に生きておられる方なら、感覚的にお分かりになるだろうと思います。

しかも興味深いのは、ここでパウロは、「皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」と言っています。しかもこれに重ねて、「また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」と言うのです。この発言からすると、パウロは決して、自分ひとりだけが特別な存在だとは考えていなかったようです。「皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。ほら、既にあなたの周りにも、同じように生きている人たちがいるだろう。その人たちに目を向けなさい」。そこには、模倣によって作られる共同体、互いに真似をすることによって作られていく共同体の姿が描かれているようです。私どもは、誰であっても、具体的に模範とすべき人を持たなければなりませんし、私ども自身もまた、「わたしに倣う者となりなさい」と言えなければならない。言わなければならないのです。

■なぜパウロは、こういうことを言わなければならなかったのでしょうか。実はその理由をはっきりと書いているのが18節なのですが、残念ながらわれわれの聖書の翻訳では、そのあたりの文章の関係が見えなくなっています。原文では18節の最初に「なぜならば」という接続詞があります。「わたしに倣う者となりなさい」。その理由はなぜかと言うと、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いからです」。そのことは、既に何度も言ってきたし、今もそのことを話し始めると、わたしは涙が止まらないのだ。だからこそもう一度言うけれども、あなたがたは、キリストの十字架に敵対するような生き方をしないでほしい。ただキリストの十字架によって生かされてほしい。たとえば、わたしのようにね、と言うのです。

彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません(19節)。

それは、繰り返しますが、パウロにとっては、涙を流してまで、どうしても告げなければならないことであったのです。フィリピの教会の仲間たちよ、どうしてあなたがたは滅びてよいだろうか。どうか、お願いだから、キリストの十字架に敵対して歩んでいる人たちの真似をしないで、そうではなくて、わたしの真似をしてほしい。そう言うのです。

そうすると問題は、この「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者たち」とは誰か。それに相対するように、「わたしに倣う者となりなさい」と言っている、このパウロとはいったい何者なのか、という話になります。そこでどうしても、この第3章を最初から読み直さなくてはなりません。第3章の2節に、「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」と書いてあります。相手が誰であれ、犬呼ばわりするとは、尋常ではありません。パウロはここまで激しいことを書きながら、既に泣き始めていたのではないかと、私は思います。どうもその頃、パウロがフィリピの教会を離れている間に、別の指導者たちが影響を持ち始めて、教会の信仰を揺るがすようなことが起こっていたらしいのです。その別の指導者たちというのが、2節では「犬ども」と呼ばれており、また18節では「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者たち」とも言われているのです。

この人たちがどういうことを主張したか、それは先月の最初の礼拝から毎週のように繰り返していることなので、ちょっとしつこいと思われたら申し訳ありませんが、〈割礼〉ということです。今読みました2節にも「切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」と書いてありましたが、つまり、「割礼を受けて、ユダヤ人になりなさい。そうすれば、あなたがたは本当に救われる」という主張をしていたらしいのです。

その意味では、この「キリストの十字架に敵対している者たち」というのは、キリストの十字架を信じていない、いわゆる未信者のことではありません。たとえば、日本人の99パーセント以上はキリストの十字架なんか信じていないわけですが、そういうキリスト者でない人たちのことを「あの犬どもが」と言っているのではないのです。そうではなくて、既にキリストを信じて、洗礼も受けて、それどころか教会の伝道者のような立場にまでなっている人たちが、「確かにキリストの十字架も大事だ。けれども、それだけでは足りないだろう?」と言っている、その人たちについて、「注意しなさい、警戒しなさい、彼らの真似をしてはいけない」と言っているのです。

■もとよりパウロという人は、自分自身、割礼を受けたユダヤ人でした。そのことについても、それこそ先月の礼拝で、何度も同じ話を繰り返してしまったようなところがありますので、これ以上は詳しく話しませんが、かつてのパウロにとって、割礼というのは大げさでも何でもなく〈自分のすべて〉、〈わたしのすべて〉であったのです。4節以下には、こう書いてありました。

とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした(4~6節)。

肉にも頼ろうと思えば、わたしはいくらでも頼れるんだ。だから、わたしはわたしなんだ。わたしはこんな立派な生まれで、だから生まれて八日目に割礼を受けて、それでこんなに立派な育ちで、誰にも負けない立派な人生を歩んできた、そんなわたしの正体が何者だったかというと、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」でしかなかったのだ。ところが、そんなわたしをキリストが打ち倒してくださって……。

しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています(7、8節)。

「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いました」とありますが、パウロにとって、これは決して大げさでも何でもなかったと思います。本当に、〈自分のすべて〉を失ったのです。「生まれて八日目に割礼を受けたから、だから、わたしはわたしなんだ」。「律法の義については非のうちどころのない者であった。だから、わたしはわたしなんだ」。ところが、そういう〈わたし〉が、全部なくなったのです。〈わたしのすべて〉が、全部否定されたのです。しかもそれは、パウロにとって、救いの出来事でしかありませんでした。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに」、それまで「これが、わたしだ」と思っていた〈わたし〉が、全部否定されたのです。

■ここで問題になっている割礼などという事柄は、もちろん私どもには何の関係もありません。けれども、パウロが割礼という手すりにしがみつくようにして、虚しい誇りに生きていたように、私どもも実はいろんなものを支えにしているところがあると思います。「十字架も大事だけれども、それはもちろん、わたしの大事な精神的な支えだけれども、本当に大事なものは他にある」。それは、たとえば自分の生まれでもいいし、育ちでもいいのです。「これがあるから、わたしは、わたしなんだ」。自分はこんなに立派な仕事をしたとか、こんな立派な愛のわざに生きたとか、残念ながら何も自慢できることがない人は、自分の親戚にはこんな偉い人がいるんだとか、そんなつまらないことも、本人にとっては案外大切な心の支えになったりするものです。

ところが、そういう私どもの生き方は、パウロに言わせれば、キリストの十字架に敵対する歩みでしかないのです。なぜそこまで言われなければならないかというと、それは、十字架そのものの意味をよく考えてみれば、すぐに分かるのです。なぜキリストは十字架につけられたのでしょうか。なぜパウロという人は、キリストの十字架のことだけを語り続けたのでしょうか。理由は単純で、神の御子が私どもの代わりに死んでくださる以外に、私どもが救われる道はなかったからです。神の目からご覧になると、私ども人間は例外なく、神の御子の死をもって償っていただくほか、取り返しのつかないほどの罪を犯してしまっているから、だからこそ、キリストは十字架につかなければならなかったと、聖書はそのように私どもに告げているのです。

しかしこれは、実は何年教会に通い続けていても、なかなか骨身に染みて分からないことかもしれません。私どもは、なんだかんだ言って、まあまあ立派にやっているつもりなのです。そりゃあまあ、「わたしに倣う者となりなさい」とか、そんなことはなかなか言えないけれども、「あんな人の真似だけはしちゃいかん」と、そこまで言われるほどは悪くない、と思っているのです。ところが、私どもがキリストの十字架の前に立たされて、そこで教えられることは、実は私どもは文字通り救いようのない罪人であって、どのくらい救いようがないかというと、私ども自身が、ごめんなさい、死をもって償わせていただきますと言ったってダメなんです。私どもの罪の償いのためには、私が死んだって何の意味もない、全然償えない。ただ神の御子イエス・キリストの死をもってするほか償い得ないほどの罪を、私どもは神の前に犯してしまっているのだ。だからこそ、御子イエス・キリストは十字架につけられなければならなかったし、けれどもそれは、それほどに私どもの命が神に重んじられて、かけがえのないものとして、今も大切に生かされているということでしかないのです。

■パウロという人は、そのような自分自身のかけがえのない命を、それだけの価値あるものとして生かし抜くことができました。そしてその点では、私どももパウロと何ら変わるところはないはずです。キリストの十字架に敵対しないで生きるということは、もはや自分自身の人間としての誇りをみな捨ててしまって、今は神の恵みに支えられる以外、どんな手すりにもつかまらない。そういう生活しか、私どもには残されていないのです。パウロは、コリントの信徒への手紙Ⅰ第15章9節以下において、こうも書いています。

わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。

私どもは、パウロと同じように言うことができないのでしょうか。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」。「神の恵みがなかったら、わたしがわたしでなくなるのです」。そんなわたしの生活の仕方を、どうかあなたにも、真似していただきたい。

もしも私どもが、パウロと同じように、「神の恵みによって、今日わたしはあるを得ている」と、そう言うことができるのであれば、私どもも同じように、「わたしのように生きてごらんなさい」と、そう言い続けるほかなくなるだろうと思うのです。

地上に生きている限り、誘惑は絶えることがないと思います。洗礼を受けて何年たったって、やっぱり私どもは、ファリサイ派をやめることができないのです。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です」というようなことを、もちろん自分なりの表現で言い換えて、自分の支えにしたくなるのです。だからこそ私どもは、「わたしに倣え」と言いにくいと考えてしまうのではないでしょうか。「わたしの生き方を見てください」と、そんなことは言いにくいと私どもは思うのですが、その思いの背後には、何だかんだ言って、結局自分を支えるのは自分の力だ、自分の偉さだという、そういう思いが隠れているのではないでしょうか。けれども、そういう自分の偉さをひけらかすのはみっともないと思うのです。あるいは、自分には何も自慢できることはないと思うならますます、「わたしを見てください」なんて、そんな恥ずかしいこと言えるわけがないと思ってしまうのです。

ところが、そんな私どもがキリストの十字架の前に立たされるとき、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」という、その事実がはっきりと見えてきます。どうか、その恵みの事実の中にしっかりと立ち続けてほしい。今も、パウロは私どもに語りかけてくれます。「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」。「なぜならば、キリストの十字架に敵対して歩んではならないからだ。どうしてあなたがたは、滅びてよいだろうか」。お祈りをいたします。

今、主の恵みのしるしそのものである、聖餐をいただきます。あなたの御子キリストの死をもって贖われた自分の命を、今静かに見つめさせてください。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と、私どもも明確に言い表すことができますように。キリストの十字架に敵対するあらゆる誘惑から、私どもをお守りください。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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