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神の目にあなたはとてもすばらしい

2022年6月19日

中村 慎太
コリントの信徒への手紙一 第12章12-31節

主日礼拝

神さまは、私たちをかけがえのないものとして、他とは変えられない者としてお造りになりました。その私たちが、再び神さまのものとされるため、イエスさまが十字架によってお救いになりました。私たちは、イエスさまの救いによって、神さまのために生きていきます。

伝道者パウロたちは、コリント教会の信徒を、手紙によって励ましていました。教会に起こっている問題に、聖書はこう書いてある、といった形で、答え、導いていたのです。

今日私たちが聴いたみ言葉からも、コリント教会でどんな課題があったか、思い巡らすことができます。おそらく、立場の違いや、学力の差などで、教会員同士の間で、軋轢があったのでしょう。具体的に言えば、ある者が、自分の出自や知識の多さなどで、他の者に対して優越感を持つことや、他の者の教会での必要性を認めなかったことなどがあったようです。

この世界の判断基準はどうでしょう。学力がある者の方が、社会で貢献できる、と思い込む者がいるかもしれない。私自身が高校生だったころなどもそうであった。いい大学に行けない者は、さげすまされるような。

では、教会はどうか。学力は関係ない。出自も関係ない。

大切なのは、どなたに救われて、どなたに霊を与えられたか。洗礼を受けた、教会員に、階位などあろうか。

12節から。

とてもわかりやすい譬え方をしている。

この時代、上に立つ者に従え、と伝えるために、このような言い方をしたとのこと。

しかし、パウロたちはそうではなく、下と思えるような者たちこそ大切なのだと伝えました。

かっこ悪いと思えるところも、大事にする。

体の末端の痛みは、どれほどのことか。

一番注目すべきことは、敢えてパウロが12節で、キリストという語を用いていたこと。

教会、と言わなかった。

教会とキリストは一緒なのです。

つまり、私たちは教会に連なっているということは、イエスさまと一つにされている、イエスさまの中に入れられている、イエスさまの一部とされているということです。

洗礼の喜びは、そこにある。

今日のみ言葉は、ただ、みんな違ってみんないいと伝える箇所ではない。みんなイエスさまに救われたんだ、今度は、みんなでイエスさまのために生きて行こう、与えられた賜物を生かしていこう、というメッセージです。

今日は、旧約から創世記のみ言葉も聴きました。

そもそも、父なる神さまが、この世界を、被造物を、生き物を、人間を、どうお造りになったかが記されています。

良いものとしてお造りになった。

きわめて良いものとしてお造りになった。

なぜ、7日間をかけた。

一つ一つを、じっくりめでるため。

庭づくりをするとき、敢えて数日かけたりすることがある。

魚は魚らしく、鳥は鳥らしく。

人間も、あなたはあなたらしく。

工場の規制品ではない。芸術品。

そして、人間の目的は、神さまを礼拝すること。

その者らしく神さまとの関係を築き、神さまの栄光を現していく。

ただし、罪によって、私たちは、この造られた目的を見失ってしまった。

この世も今、その罪の中で苦しんでいる。なぜ自分が生きているか、どう生きるのが

いいのか、神さま抜きだと、自分の視点だけで見出すことを強いられてしまう。他者との比較、自分の卑下、他人への優越。

偶像に、より頼む。造り上げた神々に頼り、自分の力に、規則に、掟に頼ってしまう。

そうして、父なる神さまは忘れ去られてしまった。

聖書はそのような人間の罪の歴史。しかし、同時に、そのような人間を愛し抜いて、愛を伝え続けた、神さまの愛の手紙でもあった。

いくらあなたたちが離れようと、私はあなたたちを、極めて良いものとしてつくったのだ。わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。恐れるな、わたしはあなたと共にいる。と語り掛けて、愛し続けてくださった。

そして、主イエス・キリストは、その愛のために、私たちの罪から解放するために、十字架にお架かりになった。新しい歩みを進むために、ご復活なさり、生きる道を示してくださった。

教会は、そのイエスさまの救いを示されて、すくされた者として、喜びイエスさまに仕えていく群れ。

ここにいる皆もそう。

一人一人が神さまに導かれた。こどもの頃から教会に来た人も、大人になってから、教会に来た人も。神さまがそれぞれをかけがえのないものとして、それぞれに導きをお与えになった。

そして、霊の賜物を与えて、信仰を与えた。教会の一員として、イエスさまの体の一部として、お仕えするようにされた。

私もそうだった。他者との比較に苛まれた。兄もいる。しかし、救われた。その先は、どう答えるか、理論じゃない。言い訳もたくさんした、けれど、お答えしたいとおもった。いてもたってもいられなかった。イエスさまがこれほど愛してくださったなら、せめてこうできれば、と。

皆さんもそう。牧師だけではなく。言い訳もたくさんあったかもしれない。それを乗り越えて、今、神さまに仕えている。

聖書はそのように神さまにお応えしていった者たち。

あなたにしかできない、神さまの使命がある。

例えば、家族への伝道。あなたが、スタートとなる事例がある。

しかし、一人ではない。キリストがそこにいる。

鎌倉の地で、何ができるか。

この一週間で、神さまのために何ができるか。

その一つ一つを、神さまが喜んでくださる。

神さまの栄光のために、全力を尽くしましょう。