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人間は新しくなれるのか

2022年6月12日

川崎 公平
フィリピの信徒への手紙 第3章1-11節

主日礼拝

■いつも礼拝で読み続けているフィリピの信徒への手紙に加えて、旧約聖書の創世記第3章を読みました。最初の人間、アダムとエバという夫婦が、この木の実だけは決して食べてはならないという神の言いつけに背いたために、楽園から追い出されたという、考えてみればたいへん不思議な物語であります。それまでは、何の心配もなく神の楽園に住んでいたのですが、楽園を追われたこのとき以来、人間はありとあらゆる苦しみを背負いこまなければならなくなった、というのです。現代人の多くは、このような物語を聞かされても、ばかばかしいとしか思わないかもしれません。私も正直に言えば、このような創世記の記事が文字通り事実であったとは考えておりません。しかもそれでいて、これほどに人間の真実の姿を正確に言い当てている物語はないのではないかと思うのです。

読んでいると、確かに、いろいろ疑問が生まれてくるのです。たとえば、木の実を食べたということが、そこまで責められることなのだろうか。だったら、どうしてそんな危険なものをわざわざ神はお造りになったか。そしておそらく多くの人にとって、いちばん納得できないことは、このような聖書の記事を根拠に、教会が〈原罪〉という教えを主張していることだと思います。人間は誰ひとり例外なく、根本的に罪人である、というのです。こういう悪いことをした、ああいう間違ったことをした、という個別の罪ではなくて、人間は生まれたときから、存在そのものが罪である。それが、〈原罪〉ということの意味です。なぜそこまで言われなければならないのでしょうか。しかも、その原罪のそもそもの由来は、アダムとエバが禁断の木の実を食べたことだ、だからあなたも罪人なんだと、そんなこと言われたって、誰も納得できないだろうと思うのです。「ええ? 罪って、遺伝の問題なんですか?」 もちろん、創世記が伝えようとしていることは、そんなレベルの話ではありません。

今日は、創世記第3章の9節までを読みました。話としては区切りがよくないのですが、あまり礼拝の時間が長くなってはいけないと思うのと、やはりこの9節の神の言葉が決定的だと思うからです。

主なる神はアダムを呼ばれた。
「どこにいるのか」。

無数の人が、この神の声に深く心を捕らえられてきました。創世記の最初の部分というのは、人間とは何者なのか、その根源的な意味を教えてくれていると思います。そしてまさに、この「あなたはどこにいるのか」という神の声こそ、「わたしは何者なのか」ということを明確にしてくれます。もっともこれだって、素朴な疑問が生まれないでもありません。「どこにいるのか」って、いやいや、神さまなんだから、そのくらい分かるでしょうが。神なら神らしくしてくださいよ。しかしそれは屁理屈でしかありません。なぜ神が、「人よ、あなたはどこにいるのか」と言わなければならなかったかというと、このふたりが神の顔を避けて、木の間に隠れたからです。そんなふたりに神ご自身が呼びかけておられるのです。「どこにいるのか」。「お願いだから、隠れていないで、出ておいで。わたしは、あなたの顔を見たいんだ」。神さまらしくないと言えば、こんなに神らしくない態度もないのであります。しかも、まさにここに、人間の根本的な悲惨と、それでもその人間を愛そうとなさる神の愛が、このように物語られているのです。「あなたはどこにいるのか」。すべての人が、神に呼ばれているのです。

■伝道者パウロの書きました、フィリピの信徒への手紙を読み続けています。今朝は第3章の、特に9節以降に集中しながら、礼拝をしたいと思います。もう一度、9節の後半を読みます。

わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

ここに、〈義〉という言葉が三度繰り返されます。「律法から生じる自分の義」、「キリストへの信仰による義」、「信仰に基づいて神から与えられる義」というのですが、どこをどう読んでも、分かりやすいとは言えません。〈義〉って、いったい何だ。そのことを説明するときに、誰もがまず最初に言うことは、これは関係を表す言葉である、ということです。誰かとの関係が、正しいか、ゆがんでいるか、まっすぐ目を見て話せるか、思わず木の間に隠れてしまうような関係なのか。「関係を表す言葉」と抽象的に言っても分かりにくいかもしれませんが、たとえば日本語の「仲良し」という言葉もそうでしょう。「わたしは仲良しです」と言ったって、それだけの文章ではさっぱり意味が分からないので、「え? 仲良しって、誰と?」と必ず聞かれます。〈義〉も同じことで、ここでは、神との正しい関わりを意味します。「神から与えられる義」と最後に書いてありますが、それはつまり、神の方から正しい関係を作ってくださるということです。

アダムとエバが最初楽園にいたとき、それは幸せだったことでしょう。何の悩みもないし、苦しみもないし、心配事もない。けれどもいちばん幸せだったことは、神の前にわだかまりなく立つことができたということなのです。しかもそれは、神ご自身にとっての幸せでもあったのです。それが〈義〉ということの意味です。けれども、アダムとエバが、神の顔を避けて、林の中に身を潜めたとき、それを聖書の言葉遣いで言えば、アダムの〈義〉が崩れたということになるのです。ところが神が、「あなたはどこにいるのか」と言われたとき、それは、それでも神ご自身が、人間を〈義〉とすることを求めておられたということです。「あなたはどこにいるのか。隠れないでほしい」。

そこでパウロはまず「律法から生じる自分の義」ということを言います。「自分の義」、原文をきちんと翻訳すると「わたしの義」です。わたしは、わたしの方から、神さまとの確かな絆を作ることができている。なぜなら、「律法から生じる自分の義」があるから。5節以下には、「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」と、延々と書き連ねています。これがあるから、わたしは神との間に正しい関係を作ることができている、と思い込んでいたのですが、ところがそんなパウロを神の側からご覧になると、それは実に孤独な人間でしかなかったのです。

先週の礼拝で、この5節以下の「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し……」とパウロが列挙していることをひとまとめにして、「これは、かつてのパウロがしがみついていた手すりのようなものだ」とたとえてみました。その手すりがなかったら、たちまち倒れるのです。私どもも、いろんな手すりにしがみついているでしょう。ところが私どもは、いろんな手すりにしがみつきながら、神にだけはしがみつこうとしない。そこに人間の根本的な悲惨があるのだ、という話を先週の礼拝でしたのですが、それを別の表現で言い換えるならば、こういう手すりにしがみついている人間は、本当に孤独だ、ということになると思います。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」。読めば読むほど、孤独そのものです。ところが、そんなパウロのためにも、「あなたはどこにいるのか」と神が呼びかけてくださったのです。私どもひとりひとりにも、神が呼びかけてくださるのです。「あなたはどこにいるのか。なぜひとりで立とうとするのか。そんな手すりのことは忘れて、わたしのところにおいで」と神に呼ばれて、だからこそ今は神を信じて、ここに立たせていただいているのです。それが、「信仰に基づいて神から与えられる義」です。

■ここでひとつ、たいへん興味深いのは、そのあとの10節で、「わたしは、キリストとその復活の力とを知り」と書いてあることだと思います。わたしがどうしても知りたいことがある。それが、キリストの復活の力だ、と言うのです。正確に言えば、御子キリストを死者の中から復活させられた、神の力を知りたい、ということでしょう。しかしそのキリストの復活の力というのが、9節とどうつながるのでしょうか。神が私どもを義としてくださる、私どもとの関わりを神が繕い直してくださる、という話と、キリストの復活の力を知りたい、ということがどうつながるのか。これは、分かりやすい話の流れではないと思います。

そこでふと私が思い出したスイスの牧師の説教があります。スイスというのはつまり、いわゆるキリスト教国で語られた説教だと思って聞いていただきたいのですが、「われわれの国には残念ながら、子どもの頃から復活の信仰を持ちながら、その復活信仰が何の力にもなっていないという人びとがたくさんいる。たとえば、地球は丸いということを信じる、それと同じようにキリストは復活したと信じる。そんな信仰はいくらあってもだめだ」。そのように言うのです。ここでのパウロの言葉で言えば、それは、復活の力を知ったことにはならない。面白いのはそのあとで、その説教者は、それはなぜかというと、「神と和解していないからだ」と言うのです。主イエスのお甦りを通して、神と和解するということがなければ、その信仰は無駄だ。「あなたはどこにいるのか」と呼ばれて、そうしたら泣きながらでもいいから、きちんと神さまの前に出ていく。そういう経験を伴わない復活信仰は、何の力にもならないのです。「復活の力が分からないのは、神と和解していないからだ」というこの説教者の言葉は、私にとって忘れられないものになりました。

なぜキリストは十字架につけられたのでしょうか。人間が、神を殺したのです。考えられないことですが、実際に、そういうことが起こったのです。そのとき、人間と神との間の亀裂は、決定的になりました。本当は、御子イエス・キリストこそ、「あなたはどこにいるのか」という神の呼びかけを体現したようなお方であったのに、それを十字架につけて呪い殺したというのは、結局のところ、神の顔を避けて林の中に隠れたアダムの罪が、遂に行くところまで行き着いたということでしかなかったのです。したがって、キリストの復活というのは、お甦りになったキリストが、わたしのところにも来てくださったということであり、それは、それでも神が私どもとの関わりを求めておられることの、決定的なしるしになりました。

キリストの復活というのは、ただ死んだ人が生き返ったという、科学的には説明しにくいことが起こったとか、そういう次元の話ではないのです。どんな障壁をも乗り越えて、神はあなたと一緒にいたいんだ。たとえあなたが神を殺したとしても、それでも神は、「あなたはどこにいるのか」と呼び掛けてくださるお方なんだ。それが、「キリストの復活の力」であります。

■そこでもう一度9節に戻りますと、「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」と書いてあります。私どもは、このお甦りになったキリストを信じるのです。死を乗り越えて、「あなたはどこにいるのか」と、わたしを訪ねてくださるキリストを信じるのです。その「キリストへの信仰によって」、その「信仰に基づいて」、神との関わりは確かなものになる。そういうことになりそうです。

ところがそこですぐに問題になることは、「信仰によって」、つまり、「わたしが神を信じるなら。わたしがキリストを信じるなら」ということが条件のようになって、神との関わりができたりできなかったりするのだろうか。しかしその「信じる」ってのが、いちばん難しいんだよなあ、という話になるかもしれません。というよりも、きっとそうなるだろうと思います。

そこで、ひとつ紹介したいのは、聖書協会共同訳という新しい聖書翻訳のことです。今週の土曜日には、この教会を会場にして、この新しい聖書翻訳についてのセミナーが開催されます。宣伝のようになって恐縮ですが、いよいよ残り座席僅かということらしいので、お申し込みがまだの方はお急ぎください。いろいろな点で優れた翻訳だと思いますが、「ああ、ここは本当に新しくなったな」と思うのが、このフィリピの信徒への手紙第3章9節です。聖書協会共同訳では、このように訳されました。

私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。

新共同訳の「キリストへの信仰による義」というのが、「キリストの真実による義」に変わりました。われわれがキリスト〈を〉信じることによって、という話ではなくて、キリスト〈の〉真実であります。私どもが神との正しい関わりに立つために、私どもの方でやることはひとつもない。完全に神の側の責任で、キリストの側の真実によって、全部やってくださるということです。9節の最後も新共同訳では「信仰に基づいて神から与えられる義」と書いてありますが、新しい翻訳では「その真実(つまりキリストの真実)に基づいて神から与えられる義」となりました。私どもに与えられる神からの義、くどいようですが神との正しい関係は、ただひたすらにキリストの真実に基づくのであって、私どもの信仰が熱くなったりぬるくなったり、そんなことで揺らぐようなものではありません。十字架の死を乗り越えて、「あなたはどこにいるのか」と、このわたしのためにも呼び掛けてくださる神の真実であります。もちろん、そうであれば、私どもはどうしたって、それほどの神の真実を信じないわけにはいきません。そこに信仰が生まれるのです。

■しかしそれで終わりではありません。パウロの言葉は、さらに不思議な展開を見せていきます。もう一度10節から11節までを読んでみます。

わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

これは、ある意味で私どもをたじろがせる言葉です。「わたしは、キリストの復活の力を知りたいのだ」。わたしを義としてくださるキリストの復活の力を、少しでも知りたいのだ。そこまでは、まあまあ分かるのです。けれども問題は、それに加えて、「その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら」、つまり、わたしもキリストと一緒に十字架の苦しみを苦しんで、そのような苦しみを経て、「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と言うのです。どう考えても厳しすぎるようです。私どもも、キリストと一緒に苦しまなければならないのでしょうか。

しかし、このことについては、今日これ以上あまり長い話をする必要もないと思っています。神は、最初から苦しみ続けておられたのです。「あなたはどこにいるのか」とアダムを呼ばなければならなかった、そのときから、神は今に至るまで、私どものために苦しみ続けてこられたし、その神の苦しみの極まったところに、あのキリストの十字架と復活の出来事が起こったのです。このわたしをを義とするための、神の苦しみであります。「どこにいるのか」。「あなたは、どこにいるのか」。このわたしのために、なぜ神があそこまで苦しまなければならなかったか。その神の悲しみと痛みを知った人間だけが、キリストの復活の力をも理解することができるのです。そしてパウロという人は、まさしくこの神の苦しみを共有させていただくようにして、その生涯をキリストの恵みを証しするために用いることができました。

数年前に始まった、みのりの会という集会があります。今週も水曜日に例会が行われる予定で、使徒言行録第9章を読むことになっています。キリスト教会を迫害するために血眼になっていたパウロが、突然主の光に打ち倒されて、そのまま伝道者にさせられてしまった、という話です。その物語の中で興味深いのは、アナニアという人が神に命じられて、パウロのところに行って、彼に洗礼を授けなさいと言われるのですが、そのときの神の言葉がこのように記録されているのです。使徒言行録第9章の15節以下です。

「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」。

パウロという人は、最初から、苦しむために神に召されていたのです。それは決して、教会を迫害した罰だとか、それなりの苦しい修行をしなければ本当に偉い伝道者にはなれないとか、そんな話ではないのです。もう一度申します。神は、最初から、ずっと苦しんでおられたのです。「あなたはどこにいるのか」。私ども人間を追い求めてやまない、神の愛と、神の苦しみを、パウロもまた僅かばかり分けていただくようにして、これをさらに隣の人に伝えていくのです。しかしそれは、人間として、きっといちばん幸せな道であったに違いありません。それはまた、私どもひとりひとりにも、等しく与えられた幸いでもあるのです。お祈りをいたします。

 

私どもを愛し、その愛のゆえに、御子の命さえ惜しまなかったあなたの苦しいほどの愛を、ますます深く学ばせてください。今私どもも、あなたに義とされてみ前に立ちます。心苦しいほどの思いで、その喜びを知り、またそれを次の人に伝えていく使命に生きることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン