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信じるチャンス

2022年5月29日

嶋貫 佐地子
ヨハネによる福音書 第10章31-42節

主日礼拝

今読みました、ヨハネによる福音書の中心は、人となりし、神の子を信じる、ということだと言ってよいと思います。
人となりし、ここに愛があり、
神の子、ここに驚きがあり、
信じる、ここに賜りものがあります。
そしてこれらすべては、人に与えられたチャンスであります。

今、信仰は賜りものと申しましたが、信じるということはどうやって起こるのでしょう?私どものことを考えてみましても、とても不思議です。自分の中に不思議なことが起こっています。それは自分の感情でもなく、理性でもなく、また努力でもなく。ただ主イエスというお方を信じている。それは神がなさったとしか、言いようがないのです。

よく「主イエスに出会って」といいます。主イエスに出会って。自分はこのお方に出会って、そして信じるようになった。そのお言葉を聴いて、まるで自分に語りかけられているように思われて、その存在を知って、この方とそのような愛の対話が生まれてきて。一緒に旅をするようになって、そして気づいたら、信じるとは、このことなんだとわかる。そしてその初めの一歩は、ああ、あの時だった、と思うこともあれば、子どもの頃から、もうこのお方と自分が一緒にいるのが当然だったと思える。そういうこともあるかと思います。

でもその時には、先に神のお働きがあって、自分の生活の中に主イエスがおいでになって、自分を訪ねてくださったのだということが、これもあとからわかるのだと思います。そしていざそうなったらば、信じることはまるで生まれつきのようであったと思われるのです。キリストは、わがいのちの柱で、頑丈で温かくて、これにすがることなしに自分の生きる術はないと、今日この一日もないのだと、今ここでも、まっすぐに背筋を伸ばして言えるのです。

主イエスに出会う。それを竹森満佐一先生がよく「われわれはキリストにぶつかって」と言われました。われわれは、イエスというお方にぶつかった。

ただ会うっていうのじゃなくて、ぶつかった。人生の中で、イエスというお方にぶつかった。神という存在にぶつかった。しかも、十字架にかかる神の子。
そうしたならば、自分はどうなるか。自分の中に何が起こるのか。それが人生一番の転機であります。

この時のエルサレムもそうでした。みんなイエスというお方にぶつかったのです。でもそれでどうしたか。ユダヤの、特に指導者たちは、それで主イエスを殺そうとしました。実際に石を取って、いま投げつけようとしているところです。人が、神の子の訪問を受けたときの一つの現実は、神の子に出会ったとき、いなくなれということです。

人が神の子に出会ったならば、それは動揺し、不安にもなります。自分はどうなってしまうのか。なにか計り知れない、聖なる方の前にこわくなる。自分の中身を見られてしまうこと。聖なる方に見つめられること。そうしたらどうしたって、自分の中の問題に触れられてしまうので。

だから主イエスに出会った初めの人たちは、これは何かの間違いであってほしいと思ったのです。この人は確かに、これまでも信じられない業をされてきた。死にそうになった子どもを生かしたり、長患いの病人を癒したり、ついこの前は、生まれつき目が見えなかった人の目を、この人は開いた。それをわれわれも目の当たりにしたばかりだ。その力は尋常じゃない。だから余計にこわくなり、あなたは何者なのかと、問い詰めましたら、その人は「わたしと父とは一つである」(10:30)と言われました。

わたしと父なる神は一つである。
でもそれを聞いたユダヤの指導者たちは激怒しました。あなたは、神と一つであるというのか。自分を神とするのか。人間なのに。それは神への冒涜だ。神への冒涜は、石打の刑に決まっている。それで彼らは石を取って、主イエスを殺そうとしたのです。彼らはほんとうに、神の子にぶつかったのです。人となりし。

ところが、主イエスは対話を続けられるんであります。普通自分を殺そうとする相手と対話なんかいたしませんのに、でも主イエスはその相手の中身を見つめられます。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」(10:32) わたしがした業は、わたしが誰であるかを示しているのに、その善い業は、わたしと父とが一つであることの証拠であるのに、その中の、どの業のために?あなたたちはわたしを殺そうとするのかと、主は問われました。

すると彼らは言いました。「善い業のことではない。」自分たちはあなたの善い業のことを責めているんじゃない。善い業は認める。あなたがしたことはまるで主なる神が言われたようなメシアの業だ。それは認める。けれども、あなたが、神の子と言うことだけは許さない。そんな事があるはずがない。それは神への冒頭だ。だってあなたは人ではないか。

すると主イエスは旧約聖書の詩編を引用されて言われました。あなたたちの律法に、こう書いてあるではないか。「わたしは言う。あなたたちは神々である。」(10:34) 主イエスが引用されたかっこの中は、詩編第82篇であります。

神は神聖な会議の中に立ち
神々のあいだで裁きを行われる。

と始まります。これは神々の会議と言われるものです。でもそこで「神々」と呼ばれているのは、神から、正しい裁きをするようにと言われた人間たちです。おそらく指導者たちです。でもその人たちは、正しい裁きをしなかった。だから第二節からこう言われています。

いつまであなたたちは不正に裁き
神に逆らう者の見方をするのか。
弱者や孤児のために裁きを行い
苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
弱い人、貧しい人を救い
神に逆らう者の手から助け出せ。

でもそのことをその人たちはしなかった。だから神がこう言われる。

彼らは知ろうとせず、理解せず
闇の中を行き来する。
地の基はことごとく揺らぐ。
わたしは言った。
「あなたたちは神々なのか
皆、いと高き方の子らなのか」と。

この言葉を主イエスが引用されました。ここではそれでもあなたたちは神々なのかといった問いの形で言われていますが、今の聖書協会共同訳ではヨハネ福音書で主イエスが言われたとおりこの箇所は「あなたがたは神々。あなたがたは皆、いと高き方の子」と普通の文で訳されています。そのように、その人たちは神に言ってもらった。ところが、それをしなかった。
弱い者に正しくしなかった。苦しむ人を助け出さなかった。自分たちは神々、でも主はその人たちを「神の言葉を受けた人たち」(ヨハネ10:35)と言われました。神の言葉を受けて、神がそこに遣わされた人たち。だが、神の御心をしているつもりが、神の御心をしなかった。だから厳しい神の審きが語られます。

しかし、あなたたちも人間として死ぬ。
君侯のように、いっせいに没落する。

主イエスはこの詩編を引用されながら、その人たちでさえ「神々」と言われているのに、神からまことに遣わされたわたしが、弱い者、苦しむ者のために父の善い業をしたわたしが、神の子と言ったからとて、どうして神を冒涜しているというのかと、いわば彼らがよく知っている言葉で、彼らの武器で、彼らが身に沁みてわかる言葉で、主は彼らを正されたのです。

でもまだ主イエスの対話は続くのであります。主は彼らに言われました。

「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。」(10:37)
「しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」(10:38)

わたしを信じなくてもよいと、主は言われました。驚いてしまう言葉です。でもそれほどに、主は、わたしのことはいい。しかし、わたしを信じなくても、父の業を信じなさい。あなたたちが見たとおりに、これは、神の善い業なのだと、信じたらいいのだ。

でも、この、父の業を信じなさい。その業を信じなさい。これこそ、神の子です。

主はこれほどに神の子です。父への信頼と謙遜。
これほどに主は、神の子なのです。

主イエスはこの前に、彼らに「あなたたちは信じない。わたしの羊ではないから」(10:26)だと言われましたが、父と一つである主イエスがなお、「信じなさい」と言葉を重ねて、そしてこれからあなたたちは悟るだろうと言われました。父の善い業が、今ここでも起こっているではないか。信じるチャンス。

あなたたちはわたしに出会っている。

彼らの応えは、主イエスを捕まえようとするというものでしたが。人に与えられたチャンス。
この方にぶつかったら、一度自分をまかせてみる。そこに神からの賜りものがあります。

このあと、主イエスは懐かしい場所に退かれました。ヨルダンの向こう側。かつてそこは、洗礼者ヨハネが主イエスに出会ったところで、洗礼者ヨハネはもういませんが、主イエスはそこに滞在し、父と一つに、そこでもお言葉を語り、もしかしたら癒しもなさったのかもしれません。その目に見えるしるしを見た多くの人たちが、主イエスのもとに来て言いました。

「〔洗礼者〕ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことはすべて本当だった。」(10:41)

そして多くの人が主を信じました。
ヨハネがあなたについて話したことはすべて本当だった。ヨハネが残したのはそのことと、この証言だったと思います。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(1:29)「この方こそ神の子である。」(1:34)
その方が、来たのだと、多くの人が主を信じたのです。

でもふと思いますが、主イエスはどんな思いでいらしたでしょう。目を輝かせて、主イエスの前にいる人たちは、主の善い業を見て、本当だったと信じた。でも私どもがよく知っています通り、主イエスの十字架と復活のあと、主は弟子のトマスに言われました。
「見たから信じたのか。」(20:29)

「見ないのに信じる人は、幸いである。」(20:29)
でもこの時はまだ十字架と復活の前でしたけれども、主のお心は、彼らが父の業を見て信じた。それがどれほど、これから間近に、十字架に向かわれる主イエスにとって、安らぎであったことでしょうかと思うのです。

今は、主イエスを見ることはできませんが、でも私どももまた、主の善い業がわかります。信仰者が生まれる。次週のペンテコステの礼拝では、一人の洗礼入会者が私どもに与えられます。主イエスの「わたしの羊」。
父が、わたしに与えてくださった「わたしの羊」。

羊飼いのもとに帰って来た「わたしの羊」を、父と子の善い業を、私どももまたこの目で、見つめたいと願います。

 

父なる神様
主イエスに出会ったら、自分を置いて、任せる心をいつも与えてください。主の御名によって祈ります。
アーメン