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誇らしく、喜びを持って

2022年5月8日

川崎 公平
フィリピの信徒への手紙 第2章12-18節

主日礼拝

■先週に引き続き、フィリピの信徒への手紙の第2章12節以下を読みました。今朝は特に、16節に集中して礼拝をしたいと思います。

こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。

伝道者パウロがこの手紙を書いたのは、パウロ自身が牢獄に監禁されていたときであったといいます。よく考えてみれば、牢獄に閉じ込められるというのは、決して小さなことではありません。私どもの多くが一度も経験していないことでしょう。しかもパウロは、自分がいつ釈放されるのか、何の見通しもありません。それどころか、いつか自分がこの場所から出る日が来るならば、それはきっと自分が殺されるときであろう。パウロ自身、そのことを予感していたし、事実はどうであったかよく分からないことも多いのですが、最後にパウロが殉教したことは間違いのないことです。

どうして自分は今、こんなところにいるんだろう。暗い牢獄の中で、パウロは自分の来し方を振りかえります。自分の死を予感しながら、自分がなぜここにいるのか、なぜ牢獄に閉じ込められているのか、その根本的な理由を考え続けたかもしれません。そのようなところでパウロは言うのです。自分が走ってきたことは無駄ではなかった。自分が労苦してきたことは、何ひとつ無駄にならなかった。そのことを、キリストの日に誇ることができるでしょう、と。

〈キリストの日〉というのは、主イエス・キリストがもう一度私どものところに来てくださる再臨の時、すべての歴史を完成させてくださる終末の時のことです。その時、私どもも例外なく、主イエス・キリストの前に立ちます。そこで問われることも、わたしが走ってきたことは無駄であったのか、それどころかわたしが労苦してきたことは結局、マイナスの意味しか持たない労苦でしかなかったのか、それともそうではなくて、「よくやったね」と、主イエスにほめていただけるような労苦であったのか。そのことがすべて明らかにされるのが、この〈キリストの日〉であります。ところがパウロはここで、自分は誇らしい思いで、喜びにあふれてキリストの前に立つことができると、そのことについて何の疑いも持っておりません。「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」。

もしも私どもが、このように自分の人生を振り返ることができたら、どんなに幸せだろうかと思います。「自分は、無駄に走ってきたのではない。自分の人生は、無駄ではなかった」。人生とは走ることである、というこの表現は、もしかしたらパウロ特有のものであるかもしれません。パウロ以外にこういう表現を用いた人がいるのか、いつか丁寧に勉強し直そうと考えたことがありますが、まだサボっています。しかし際立った表現であることは確かです。そしてそれは私どもにもよく分かるのです。人生とは、一所懸命走り続けることだ。歩くのではなく、走るということは、それなりの苦痛が伴います。だからここでも「自分が走ったこと、労苦したこと」と言葉を重ねているのです。

けれども問題は、どのように走るかということです。どんなにすばらしいスピードで走って見せても、実は本来のコースを外れて、あらぬ方向に走り続けていたらたいへんです。行けども行けどもゴールは見えてこない。いったい何のために走っているんだろう。今自分がこんなに労苦しているのは、結局、何のためなんだろう……。もしもそういうことであるならば、こんなに悲惨なことはないだろうと思います。

私どもがいつか最後の息を引き取るときに、「わたしの労苦は無駄ではなかった」と、心からの感謝を込めてそう言えるなら、人間としてこれ以上誇らしいことはないのです。そして、そういう用意のある人というのは、最後の死の瞬間だけでなくて、毎日の自分の生活をも、誇りをもって生きることができるのです。自分に与えられた労苦を、喜んで受け入れることもできるようになるのです。「自分が走ってきたのは無駄ではなかった」とここでパウロが言っているのは、まさしく、すべての人の願いなのです。

■このようなパウロの思いを理解するためにひとつ大切なことは、パウロはもはや、自分のために走ってはいない、自分の願いのために労苦しているのではないということです。私の〈愛誦聖句〉とは言いにくい気もしますが、折に触れて思い起こす主イエスの言葉があります。ヨハネによる福音書第21章18節。一番弟子のペトロが、お甦りになった主イエスから最後にいただいた言葉であります。「シモン・ペトロよ、あなたはわたしを愛しているか」と三度繰り返し問われて、ペトロはやはり三度繰り返して、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えるのですが、そのやりとりのあとに主はペトロにこう言われたのです。

「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」。

そしてそれは、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」というのです。まさにここに、主イエスに愛され、主イエスに捕らえられた人間の歩みの特質がたいへんはっきりと言い表されていると思います。決してペトロひとりのための特別な言葉ではないのです。すべての人が聞くべき言葉です。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」。

私どもが、自分の走ってきたことは無駄だったのではないかと嘆くときというのは、それは自分がさんざん苦労させられて、何もいいことはなかったと嘆いているのかもしれません。自分の人生を振り返って、自分の利益だけを考えて無駄だったとか、無駄でなかったとかいうことを計算しているのです。しかしよく考えてみればすぐに分かるはずですが、そういう生活には何の救いもないのです。もう少し良心的な人であれば、自分がどれだけ人様のお役に立てたか、そのように他人の利益だけを考えて、それを基準に自分の人生は無駄であったか、無駄でなかったかを計ろうとするかもしれませんが、それだって結局は、自分が他の人にとってどれだけ役に立つ人物だったか、そのように人様から高く評価される人間だったか、それとも役立たずの人間だったのか、そのような思い煩いしか生まないような生活であるなら、そこに何の救いもないのは同じことです。

けれども、私どもの人生を導いておられるのが神であるとするなら、どうでしょうか。自分で帯を締めて、行きたいところに行くのではなくて、そうではなくて他の人に縛られて、自分の行きたくないところに無理やり連れて行かれるのが、それが自分に与えられた人生であると考えるなら、どうでしょうか。もちろん私どもはそこで、悪魔が自分を引っ張っていくなんてことは考えないのです。神がわたしを導いてくださる。その神を信じることができるなら、そこから無限の可能性が開かれていきます。

どうせ私どもは、根本的に罪人であります。どんなに一所懸命走ったって、大したことはできないのです。あれやこれや失敗だらけで、それこそキリストの日に神の前に立たされたら、説明のしようがないことが、山積みになっているに違いありません。けれども、私どもは主イエスに愛されております。そして私どもも、主イエスを愛しているのです。そのときに、私どもの人生は根本的に新しくなります。「若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」。もしもそうであるならば、どんなに失敗だらけの人生であったとしても、私どもはそれでも確信をもって主のみ前に立つことができます。「主よ、わたしの人生を導いてくださったのは、あなたです」と感謝しながら、「わたしが走ってきたこと、労苦してきたことに無駄なことは何ひとつありませんでした」と、誇りをもって立つことができるのです。

■それどころか、パウロはこうも言うのです。

更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい(17、18節)。

これは、先ほど聖書朗読をお聞きになりながら、どうも意味が分からないと思われたところかもしれません。実際、聖書の学者たちも解釈に頭を悩ませているところがあるのですが、ひとつ明らかなことは、ここでパウロは自分の殉教について書いているということです。ある人は、この言葉がフィリピの教会で朗読されたとき、涙を流した人も少なくなかっただろうと想像しています。そうかもしれません。

「たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます」と言います。そのひとつの意味は、ここでパウロは、フィリピの教会の人たちを自分の喜びに招き入れようとしているということです。「わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」と言うのです。けれどももうひとつ、実はそれ以上に大切な意味があると思います。パウロが喜んでいるのは、フィリピの教会の仲間たちよ、あなたがたがいるからだ、と言っているのです。「わたしは喜びます。あなたがた一同と共に、あなたがたがいるから、だからわたしは喜びます」。既にこの手紙の冒頭、第1章3節でパウロはこう書いています。

わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。

あなたがたがいるから。だから、わたしは喜びと祈りと感謝に生きることができる。もしも、あなたがたがいなかったら、パウロは絶望の中で死ぬほかなかっただろうと思います。

特にここで、私が忘れがたい思いで心に刻むのは、今日読みました第2章の15節の最後にある、「世にあって星のように輝き」という言葉です。フィリピの教会の仲間たちよ、あなたがたこそが、わたしにとっての望みの星なのだ。いや、それどころかこの世界にとって、あなたがたは希望の光なのだ。「あなたがたは、世にあって星のように輝いている!」

最初に申しましたように、パウロは牢獄の中でこの手紙を書いたのであります。自分自身に押し迫る死の闇を、本当に具体的に体に感じながら、望みの星を仰いでいる。それが、あなたがたフィリピの教会だというのです。殉教というのは、ただパウロ個人にとってつらいことだとか、フィリピの教会の人たちは悲しむだろうとか、そんな問題にはとどまらないのです。なぜパウロは牢獄に捕らえられているのでしょうか。私どもの生きるこの世界は、パウロのような人間を殺したがる世界でしかない。それはつまり、神を殺すような世界でしかないということです。だからこそ主イエスは十字架につけられたし、パウロ自身、かつては自分が教会の迫害者であったのです。ですから、パウロは自分自身が牢獄に捕らえられたとき、何も理不尽なことは感じなかったと思います。当然のことが起こっただけだ。

けれども、そんな闇のような世界の中に、確かな望みの星が輝いているのです。主イエスに愛された教会です。主イエスを愛する者の群れであります。そのような教会が、「世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保」っているなら、わたしはキリストの日に誇りをもって立つことができる。「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」。

■いつか私どもも、必ず死を迎えます。自分が望んでいる通りの死に方ができるとは限りません。なぜこんな悲しい死に方をしなければならないかと、嘆かないですむ保証はどこにもありません。それこそ主イエスがはっきり言われたように、私どもは「自分で帯を締めて、行きたいところへ行く」のではなく、「両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」のです。けれども、そのように私どもを導いておられるのが神であるならば、私どもの走る目標は、私どもが必ず迎える死の、さらに向こう側に向かわないわけにはいきません。それが、〈キリストの日〉であります。最後の最後に、私どもは主イエス・キリストの前に立つのです。

そのとき、私どもは堂々と立つことができるでしょうか。パウロは、そのことについて何の不安も感じていないようです。わたしが走ってきたのは無駄ではなかった。そのことを、キリストの日に誇ることができると言いきっています。それはなぜかというと、もう一度申します。あなたがた教会が生きているからだと言うのです。もう一度、15節と16節を続けて読んでみます。

そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。

「誇る」という表現に違和感を覚える方もあるかもしれません。何か自分のことを誇るなんて、傲慢だと感じるからです。しかしパウロという人は、どの教会に対しても同じことを書いているようなところがあって、いつかキリストが再び来られる日、最後の審判の前に立たされる日、わたしがキリストの前に誇ることができるのは、あなたがた教会だと、いろんな教会に宛てた手紙で同じ趣旨のことを繰り返しています。ひとつだけ読みます。コリントの信徒への手紙二第1章14節です。

わたしたちの主イエスの来られる日に、わたしたちにとってもあなたがたが誇りであるように、あなたがたにとってもわたしたちが誇りであることを、十分に理解してもらいたい。

ここでは、ただパウロがコリントの教会を誇りとするだけでなく、コリントの教会の人たちは、われわれ伝道者のことを主イエスの前で誇ることができると言っています。イエスさま、わたしはこの牧師の説教で養われたんですよ、ということを、イエスさまの前で誇らしげに語るというのです。こういうところに、パウロが〈教会に生きる〉ということをどんなに真剣に考えていたか、そのことがよく表れていると思います。

いつか私どもも、主イエスの前に立たなければなりません。そこで、私どものしてきたこと、私どもが走ってきたことが、全部明るみに出されます。どんな人も、丸裸で主の前に立たなければなりません。それは、やはりそれなりに緊張するものがあるだろうと思います。そう言えば、あの一番弟子のペトロがお甦りの主の前に立たされたときにも、三回も繰り返して「わたしを愛しているか」と問われて、どうしてそんなにしつこく問われるのかと、悲しくなったと書いてあります。それはそうです。三度も繰り返して主のことを裏切った自分の不甲斐なさを、改めて突き付けられる思いがしたでしょう。私どもが主の裁きの前に立つときにも、きっとペトロ以上に深い痛みを知らなければならないだろうと思います。なぜ主イエスが十字架につけられたのか、その理由を今知っている以上に知らなければならないでしょう。けれども、それでも私どもは主イエスに愛されているし、主イエスを愛しているからこそ、今この教会に生かされているのです。

そんな私どもが、終わりの日、丸裸にされて主の前に立たされたとき、それでも誇りをもって主の前に報告できることがあるとすれば、それは、自分が生かされた教会のことでしかないのであります。主イエスよ、わたしは鎌倉雪ノ下教会という教会で救われたんですよ。こういう牧師がいて、あの人がこういうことをしてくれて……。イエスさま、ありがとうございます。本当にあの教会は、あなたの教会だったのですね。そのように、自分の生かされた教会のことを誇らしく、喜びをもって、主イエスの前に報告することができるのです。

その終わりの望みを知っていればこそ、今ここでも、私どもは誇らしく、喜びをもって走り続けることができます。主イエスに愛された群れ、主イエスを愛する者の群れが、今ここにも生かされています。世にあって星のように輝くこの教会を、神が守っていてくださいますように。お祈りをいたします。

今既に、私どもは誇らしく、み前に立つことができます。主イエス・キリストの父なる御神、ただ恵みによって召されたこの教会に生かされている幸いを、心より感謝いたします。かつては無駄に走っていた私どもも、今は違います。なお残された人生の中で、私どもがどこに連れて行かれるのか、行きたくないところへ連れて行かれるのか、それは誰にも知り得ないことですが、いつどこにあっても命の言葉をしっかりと保ち、ただあなたに愛された者として走り続けることができますように。主イエスよ、私どもはあなたを愛しております。主のみ名によって、祈り願います。アーメン

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