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この手からは誰も奪えない

2022年4月10日

嶋貫 佐地子
ヨハネによる福音書 第10章22-42節

主日礼拝

本日から受難週に入ります。その最初の日、今日主は言われました。

「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(10:28)

わたしの手から、だれも、彼らを。

ちょうど二年前、この礼拝堂に集まることができなくなったとき、牧師たちから一つの小さなカードを皆様に送らせていただきました。主イエスの手が描かれてあったカードです。その絵は教会学校のクリスマスの時に、子どもたちへのプレゼントとしてマグカップになりまして、私もそれをいただきまして、教会にいるときには、私はそのマグカップでコーヒーを飲んだりしているのです。そうするとその手が目に入ります。本当に小さな手なのですが、見る時によって、様々な想いになります。今日のこの箇所を思うときも、そしてあの二年前からのことも、思い出されながら、その手の向こうから、主の声が聴こえてくるようでした。

「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」

守りの手です。

これは、
主はこう言われているのです。
彼らはわたしのもの。何があっても。

主イエスはエルサレムにおられて、この前には、羊飼いと羊の話をなさいました。良い羊飼いと羊の話です。良い羊飼いは言われました。わたしは自分の羊を知っている。羊もわたしを知っている。羊はわたしの声を聞き分け、その声についてくる。そして言われました。

「わたしは羊のために命を捨てる。」(10:15)

そのお気持ちを、主はきよい空のごとく、ずっと持っておられました。

だから主イエスは、その日も、ユダヤ人たちが狙っていると思われる、危険な、神殿の境内の廊下を歩いておられたのです。
冬の日でした。

そうしたら案の定、ユダヤ人たちがやってきて、主イエスをぐるっと取り囲み、彼らは主イエスに言いました。

「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」(10:24)

なんだかおかしな言い方だと思いますが、どういう気持ちだったのか。彼らの目は主イエスをにらんでいましたが、でも、自分たちでもわからないような妙なメシア待望の求めに、うつろに燃えておりました。その時は、神殿奉献記念祭というお祭が行われていた時でした。

あまり私どもには聞きなれない名前のお祭です。ちょうどクリスマスの11月とか12月に行われて、別名「宮きよめ」とも言われているお祭だそうです。その名のとおりに、神殿が、汚れからきよめられたから、そのことを記念するために始まったお祭です。

歴史上マカバイ戦争と呼ばれたりしています。昔、シリアの王がエルサレムに侵攻しました。そしてエルサレムの街を破壊し、そこを偶像と、血の色で染めました。この王はギリシアの文化に心酔しておりましたから、ユダヤの信仰を弾圧しました。律法を見つけたら破って、割礼を受けた子どもも、母親も、無差別に殺しました。自分たちで奪った強奪品を、お腹を空かせた人々の前に山積みにして罠にしました。安息日をわざわざ選んで、戦えない人たちも殺しました。そして神殿の祭壇には、ギリシアの神々が祀られました。その王は自分を、「神が現れた」と名乗りました。自分は神だと。そして無感覚に人々を殺してゆきました。

こんなことを言ってはなんですが、私でさえ、この真ん中の聖餐台にペン一本、スマホ一台が無造作にポンと置かれるだけで、切ない思いがいたします。それも、一歩間違えば聖餐台が偶像礼拝となってしまうかもしれません。でも、主の聖餐が置かれるここを大切にしたい気持ちがあるのです。それがもし、ここに偶像が置かれたら、ここが汚されたら、どうなってしまうでしょう。でも私どもは知っています。たとえそうなっても、たとえ世界の悪魔が、この礼拝堂を破壊したとしても、私どもはまことの神を礼拝する。主イエスがサマリアの井戸で一人の女性に言われたように(4:21-24)、場所ではなく、「霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」と、わたしが来たから、「今がその時だ」と、主が教えてくださいましたから。けれども、このときはずっと昔で、まだ主が来られる前でした。だからユダヤの人たちは、自分たちの命よりも大事な、神を礼拝するその場所を汚されたのです。

しかしそれに対抗してユダヤから、一人の祭司と息子たちが立ち上がりました。その息子ユダという英雄が出て、戦争をして、少数の軍隊でしたけれども、勝って、エルサレムを奪還しました。その時に神殿も元通りにしたのです。偶像で長年汚された神殿をきよめた。まさに「宮きよめ」をした。そのことを記念してこのお祭が行われるようになったのです。

その祭の時でした。ユダヤ人たちが、目の色を変えて主イエスを取り囲んだのです。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」それはこういうことでした。
あなたは英雄なのか?

彼らは、今度はローマ帝国の支配に苦しんでいましたから、だから、彼らのメシア像は自分たちをそこから解放してくれる人、守ってくれる人で、あなたはあの時のような英雄なのか。それならそうとはっきり言いなさい。以前のその戦争でも、凱旋した英雄に棕櫚の枝をかざして、喜んで迎えたと記録されています。でもそうして、彼らが願っているのは、もし自分たちのメシアなら戦ってくれってことです。自分たちの先頭に立って、人を殺してくれってことです。そうやって自分たちを守ってくれってことです。だからあなたもそうなのか?
でも一方、その奥では、彼らは主イエスに対してほんとうに苛立っていたと思います。もうずっと前に主イエスが、ご自分を父なる神と等しいもの(5:17-18)とされたときにすでに彼らは、神への冒涜だと、主を、殺そうとねらっていました。だからこの質問で、この人がまた何か言わないか、ボロを出さないか、それも願っていた。

そうしたら主イエスは、人間の英雄、それ以上のことをはっきりとおっしゃいました。

「わたしと父とは一つである。」(10:30)

父なる神とわたしは一つである。
主イエスのお答えは核心をついておられました。あなたたちがわたしを信じないのは、わたしを人間だけとしてみているからだ。
そのとおりで、主イエスのことを、すごい人だと思うけど神と言われちゃ困る。
と思ってる。

主は言われました。

「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」(10:25-26)

主はこれまでしるしと呼ばれる奇跡を何度もされてきました。だから、わたしは話したと。わたしは示したと、主は言われました。わたしがしたことは、わたしが誰であるかを証ししているだろう。神にしかできないしるしを、あなたたちは見たのに、それはわたしと父が一つであることの証拠であるのに、なぜ、受け入れられないのか。

それで彼らはこのあと直ちに激怒します。
「人間なのに」(10:33)と叫びながら、石を取って、主イエスを殺そうとします。

人は、自分で自分を守るすべを知りません。悪魔からも、だれからも。だからがむしゃらになる。自分たちを守るために、誰かを殺そうとするんです。小さな生活の中でもそうです。戦争するしかないのです。
けれども主イエスは殺さない。殺さないで、命を与える。

受難週に入り、二年ぶりに受難週祈祷会が行われます。月曜日から金曜日までの毎朝と木曜日の夜は聖餐礼拝、そして金曜日のお昼、集まった人たちと、集まれなかった人たちも含めて、聖書を読み、奨励を心で聴いて、共に祈る。
そこに主がおられる。
私どもは主の羊だから、主イエスが見えます。

月曜日から金曜日、時が迫るというのは残酷で、私どもも、何かにつけて死が迫るこわさを、よく知っています。だから、ご受難のこのとき、主を見ながら、むごいと、私どもも目を伏せるのだろうか。見ても見ないようにするのだろうか。この方をただの人間だと思うのだろうか。お可哀そうにと、ひとごとにするのだろうか。
でも主の歩みは、いつも父と一つで、その時に向けて、一心でいらっしゃいました。このときも主は、そのご受難の時を思われながら、お父さんと言われていた気がします。

お父さん、
あなたが「わたしにくださったのものは、すべてのものより偉大であり」(10:29)、と主は言われましたが、その偉大なものとは何か、というのはずっと考えられていて、この新共同訳ですと、あなたがくださったものは羊たちだから、羊たちが「すべてのものより偉大なもの」になってしまう。いやそんなはずはないだろうと、文法的にもどう訳したらいいかと、でも最近出た聖書協会共同訳では、訳し直されまして、「私に彼らを与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり」となりました。
父がすべてのものより偉大、となると、わかりやすくなったと思います。でも、主イエスがこのとき、お父さん、すべてのものより偉大なあなたが、くださったものが、どれだけ大きいか、どれだけあなたを表しているか。主は、海よりも深く汲み取っておられたと思うのです。父なるあなたが、腕の中に、切なる思いで抱こうと、求められて、わたしにくださったものは、どれだけ偉大なものであるか。
お父さんがくださった、わたしの羊。
だから「わたしは羊のために命を捨てる。」

それが起こる一週間であります。
そのときの主イエスを見つめたいと思うのです。かがんだ主イエスに、自分を見つめたいと思うのです。御前に。自分も打ち砕かれたいと思うのです。
この方が自分を負って、十字架に上げられたのだと。

そしてこの方が、わたしを手に入れたのだと。

 

人は自分を守るすべを知りません。守り方なんてわかりません。そんな自信はありません。でも、この方は知っている。その守り方は、安全な命を与える。
本当に安全。永遠の命、決して滅びない命(10:28)を与える。

永遠の命っていうのは、その主の安全な命に生かされることです。死んだあとの将来もそうですが、今も。たとえば毎日、主イエスがたすけなんだよ、と、こんな日々だけど、主イエスが自分のたすけなんだよと。そう思えたら、それはもう安全な永遠の命に生きていることなのです。

今度の日曜日は、復活主日を迎えます。
この一年、愛する人を亡くされた方々のために、御言葉が贈られます。この一年、どんな思いだったか。この一年。でも私どもは信じています。
自分の愛する人は、あの人は、
いま、神の御手のうちにある。

父と子の、神の御手のうちにある。
本当に安全。だから主は言われる。
だれも、この人を!わたしの手から奪うことはできない。

 

 

父なる神様
今も、この一つの群れを覆っている、主の御手に感謝をいたします。彼らはわたしのもの。そのお心に生かしてください。
主の御名によって祈ります。
アーメン

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