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主の食卓を囲む群れ

2022年3月27日

中村 慎太
コリントの信徒への手紙一 第11章27-30節

主日礼拝

コリント教会には、ある危機がありました。信徒の分裂です。特にそれは、聖餐が大切に執り行われないことから、起こっていたのです。

これまでのコリント信徒の信徒への手紙一を読むことで、おおよその理由が分かります。コリント教会の礼拝においては、皆で食事をしていました。そして、その食事は、聖餐のパンと杯に与る時でもあった。しかし、早く来られる信徒がそれを独占してしまい、遅い時間まで働かなければならない、貧しい信徒がその食卓にしっかりと連なる機会が奪われていた。

主なる神さまにささげる礼拝が、自らの欲を満たす場となっていた、そうとも言えます。すると、教会は、共同体は、分裂してしまったのです。

伝道者パウロたちは、その問題が解決するようにと、言葉を重ねてきました。偶像に向かわないようにしよう、聖餐へと、主の食卓へこそ向かい、それを大切にしよう、と。

そして、聖餐の原点となる、イエスさまが聖餐を定めてくださった言葉を、伝道者パウロたちは伝えるのです。

コリントの信徒への手紙一第 11章 23節から。

「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

パウロがこの言葉を生み出したのではありません。パウロ自身が、イエスさまから聴いた、受けた言葉だった。そして、パウロたち最初の弟子たち、使徒たちから、教会の皆が伝え聴いた、イエスさま自身の言葉だったのです。そして、イエスさまが、十字架におかかりになるため引き渡されるその夜に、弟子たちにお命じになった言葉です。

「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」
「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」

イエスさまは、弱い私たちを思いつつ、教会がどのような時も一つとなるために、聖餐を定めてくださいました。それを、お命じになったのです。

教会は、聖餐共同体です。主の食卓を囲む群れです。

逆に言えば、聖餐を中心とするはずが、それが乱れれば、教会は弱ってしまうのです。コリント教会がそうだった、またプロテスタントの改革前の教会も、そうだった。

しかし、そのような危機は、私たちが聖餐を、礼拝を、再び見つめるチャンスでもありました。

コリント教会の問題に向き合い、パウロたちが手紙を記したことは、後の時代のキリスト者が、聖餐のことを知るために大きな力となりました。この箇所こそ、私たちの聖餐制定の言葉となっている。私たちの教会が、中世に、ヨーロッパにおいて、聖餐の理解を曲げてしまった時、プロテスタントの改革が起こり、聖餐を、礼拝を、再び見つめ直す時が与えられた。

もしかしたら、今の我々も、再び聖餐の恵みを見出す機会を持っているのかもしれません。

今は、困難な時代だと言えます。単純に、私たちの礼拝が、制限され、変えられている。小主礼拝において、賛美を言葉として神さまにささげることを私たちは今できていない。心で大切に歌いあげる形で、忍耐している。聖餐をかつてのように月1回執り行うことができないでいた。

礼拝の形は変わります。時代によって変化はある。聖餐の回数も、多ければそれでいい、というわけでもありません。しかし、どう考えたって、私たちはつらいと思うのです。礼拝をかつてのようにまっすぐにささげたいと願うのです。私たちは強いわけではありません。弱いからこそ、主イエスに依り頼み、主の救いを喜び礼拝をささげるのです。

私たちは今、自らを吟味します。この教会共同体が、主の御心にしたがって歩めているかを。主の体である教会の共同体を、この群れが何によって一つになっているかを、大切にわきまえながら、悔い改めます。

そして、新たに、イエス・キリストの恵みを見出し、聖餐を喜び執り行いつつ、心を尽くし礼拝をささげるのです。

小主礼拝が、一日も早く、賛美が言葉でまっすぐささげられますように。4月に執り行われる次の聖餐を、皆で祈りつつ心待ちにしましょう。

今日は旧約のエレミヤ書も聴きました。

エレミヤの時代も、危機の時代でした。危機どころか、滅亡と絶望の時代だったと言っても過言ではありません。信仰の民の王国であるイスラエル王国は、二つに分裂し、その一つ北イスラエル王国は滅びた時代、エレミヤは南ユダ王国で預言をしました。

エレミヤは、偶像崇拝に向かってしまう南ユダ王国の国民に王たちに、主の厳しい言葉を告げます。そして、主なる神の怒りと、裁きが、王国の滅亡という形で起こると預言するのです。

そして、まさに国が侵略され、破壊され、信仰の中心となっていた神殿が、破壊されてしまう滅亡がおとずれようとしています。

信仰の民は、どれほど嘆いたでしょうか。自分たちを敵から救ってくださると思っていた主なる神から、実は自分たちの方が離れてしまっていたこと、その裁きが、その主の怒りがこれほど恐ろしいものだったか、と思いながら、うなだれながら、バビロンへと捕囚されていったのではないでしょうか。

また、エレミヤ自身も、激しく嘆いたはずです。主の言葉を告げつつ、国を大切に思い、何とかして皆が立ち帰るようにと祈っていた。しかし、裁きがくだってしまった。

あの時このように語っていれば、主の言葉をもっとうまく伝えていたら、などと、預言者としての歩みも、後悔したかもしれません。

そのような嘆きと絶望の時代に、主なる神さまは回復の預言を、新しい希望の預言を、エレミヤに託すのです。それが、今日皆で聴いた箇所です。

新しい契約、つまり古い契約を更新することを、主なる神さまは告げているのです。かつて、モーセ率いるイスラエルの民に、シナイ山で、十戒を筆頭とする律法が与えられました。イスラエルの民は、その律法を守ることを誓約しました。そして、契約が結ばれました。主なる神さまはモーセと長老たちをご自身のもとへと呼び、食事と飲み物を与えました。

しかし、この律法を、民は守りきることができませんでした。出エジプトの時代も、王国の時代も、民はその律法を破り、主なる神から離れ、偶像に向かってしまうのでした。

人は、律法を自らだけでは守り切れないのでした。私たちが救われるのには、律法に加えて、主なる神さまからの決定的な働きかけが、救いの業が必要だったのです。

主なる神さまは、その主の救いの業をエレミヤを通して預言させます。それが、イエスさまによる十字架と復活だったのです。そのイエスさまによる十字架と復活によって、新しく救いに入れられることこそ、神さまからの私たちへの新しい契約だったのです。私たちが何かをしたのではなく、神さまからの恵みの契約だったのです。

エレミヤを通して預言されたことは、イエスさまの十字架によって実現します。そして、その十字架の恵みを私たちが味わい、見るために、イエスさまご自身が聖餐を定めてくださいました。教会は拡がり、イスラエルの民も、それ以外の外国の民も、今日本にいる私たちも、小さい者も大きい者も、主にあって一つとされました。

旧約の時から、主なる神さまはこの救いのご計画を立てられていたのです。

エレミヤ書31の1節から。

このとこしえの愛が、イエスさまの十字架によって実現しました。

私たちはこの主の愛によって、集められた群れです。

私たちの中に理由があるのではない、主イエスが私たちを愛し、憐み、集めてくださった。その食卓に招いてくださった。

26節。

私たちはこの主の十字架の恵みによって、主の食卓の喜びを先取りしている。天の食卓の喜びを、この地上にあっても、教会で先取りしている。

その食卓にあって、私たちは、教会は、イエスさまに救われた喜びを、福音を告げ知らせていきます。