1. HOME
  2. 礼拝説教
  3. 神に愛された人の生活

神に愛された人の生活

2022年3月20日

川崎 公平
フィリピの信徒への手紙 第1章27-30節

主日礼拝

■フィリピの信徒への手紙を読みながら、礼拝の生活を作っております。伝道者パウロという人の書きましたこの手紙は、いろんな意味で魅力にあふれたものだと思いますが、中でも多くの人に愛された言葉のひとつは、「我らの国籍は天に在り」という、第3章20節の言葉だと思います。「我らの国籍は天に在り」と、古い文語訳で暗誦しておられる方が、案外多いのではないかと思いますが、私どもが今読んでいる新共同訳聖書では、「わたしたちの本国は天にあります」となっていて、「国籍」という言葉が消えてしまいました。ところが数年前に刊行された、聖書協会共同訳という新しい翻訳では、「私たちの国籍は天にあります」と、「国籍」という言葉が復活して、私はたいへんうれしかったですね。ただ、そこでもうひとつ面白いのは、新しい聖書協会共同訳ではその言葉に注がついていて、直訳すると「市民権」という言葉だと説明しています。

「我らの国籍は天に在り」。「われわれは、天に市民権を持っているのだ」というこの言葉は、神に救われた人間、私どもの生活の特質を、実に的確に言い表していると思います。そのひとつの意味は、われわれは地上にあっては外国人である、もっと言えば〈よそ者〉であるということだと思います。「あなた、国籍はどこですか?」「わたしは日本人です」。「わたしは○○人です」。日本で生まれ、日本で育ち、日本語しかしゃべれないけど、国籍は日本国ではありません、という人だってたくさんいるでしょう。外国で暮らすということは、何かとつらいことも多いものです。今、世界中が心を痛めていることのひとつは難民問題だろうと思いますが、実は聖書は、旧約の最初から寄留者としての神の民の姿を描きますし、それは新約聖書に至っても何も変わることはないので、「わたしたちの国籍は天にあります」。われわれの地上での生活は、いわば外国人のような、寄留者のような、あるいは難民のような生活だと言うのです。

この「我らの国籍は天に在り」という言葉を、しかし、心細い思いで読むことは間違っています。むしろこんなに確かな望みを言い表した言葉はないのです。どんなに厳しい難民生活を強いられていたって、わたしのふるさとはあそこにあるのだ、ということが、人びとの心の支えになるということは、いくらでもあるだろうと思います。まして天に自分の市民権がある、天国の名簿にはきちんと自分の名前が記載されているのだ。洗礼を受けますと、そのあとの司式者の祈りの中で、「神さま、あなたはこの人の名前も、みもとにあるいのちの書に書き加えてくださいました」という内容のことを必ず祈ります。天国に行ったときに、「えーと? あなたのお名前はありませんが……」なんてことは絶対にないんだ、ということは、それだけでも私どもに勇気を与えてくれると思います。あなたは、天に国籍を持つ人間なんだから。あなた本籍地は天にあるんだから。だから、どうするのか、というのが今日の話です。

■今日読みました第1章の27節に、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と書いてあります。この「生活を送りなさい」と訳されている言葉は、確かに翻訳するとなると難しいのですが、今紹介した国籍とか本国とか市民権とかいう言葉に動詞の語尾をつけただけの言葉で、無理に日本語に移すならば、「市民・国民として生きる」ということになります。その市民とか国民って、いったい何だ。「我らの国籍は天に在り」。だからあなたがたは、天国人らしい生活をしなさい、ということになるでしょう。日本で生まれ、日本で育ち、けれども国籍は日本国ではありません、という人も、自分の本国の生活のスタイルを何らかの形で大切にするということがあると思います。あれ? あの人、どうも日本人らしくないな。そういうものだろうと思います。ところがこの手紙が教えてくれることは、あなたがたの本籍地は天国にあるんだから、それなら、その天のふるさとのすばらしさを映し出すような生活を、今ここでもしなさい、と言うのです。

フィリピの信徒への手紙は、この第1章27節から新しい区分に入ると言われます。ここから第2章18節までが、ひとつの大きな区切りになると、多くの人は考えます。そこで語られる主題というのは、神を信じて生きる者の生活の仕方です。ですからその区分の最初の言葉は、言ってみれば表題・タイトルのような意味を持つと言えるかもしれません。「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と言うのです。天に国籍を持つ者として、あなたがたはこのように生きるのだ。天国人として生きる。「天国人」などと言うと、なんだか宇宙人みたいで、いやな感じがするかもしれませんけれども、もちろんそんな話ではなくて、それをここでは「ひたすらキリストの福音にふさわしく」と言うのです。

天に国籍を持つ私どもは、ほかの人から見ても、「あれ? あの人、なんか違うな」ということがあるかもしれません。何か違いがあるとしたら、その秘密は、キリストの福音です。私どもはイエス・キリストに愛されているのですから、生活が変わるのは当然です。しかも私どもは、このキリストの愛がなかったら、地上でまともに生活することなんかできないと、むしろそう信じているのです。「我らの国籍は天に在り」というのは、地上のことなんか忘れて、夢ばかり見ているような生活をすることではありません。むしろ、自分の本当のふるさとが天にある、そういう望みを与えられた人間こそが、この地上にあっても健やかに生きることができるのです。

■このような事柄を説明するために、ひとりならず多くの人が言うことは、ここに天国の植民地ができているということです。フィリピという町にも、キリストの教会が生まれた。あるいは今ここにも、鎌倉雪ノ下教会というキリストの教会がひとつ生きている。それはどういう出来事かというと、天の国が地上に対して、言ってみれば福音の総攻撃をしかけて、地上に天の植民地を作り上げてしまった。その植民地に住む人たちは、地上に住みながら、天の市民権を持っている。そういうことだと言うのです。

なぜそこで「植民地」という言葉を多くの人が用いるかというと、フィリピという町が既に、ローマの植民地、正確には植民都市であったからです。フィリピという町は、資源も豊かで、交通の要衝で、軍事的にも大事な位置づけをされて、とにかくたいへんに豊かな町であったようです。そういう豊かな町はいちばんに狙われますから、当時はローマ帝国の大切な植民都市になっていたというのです。フィリピの町に住む者たちは大部分がローマの市民権を持っていて、たいへん豊かな生活を享受していたと言われます。そう言えば、パウロが初めてフィリピで伝道したときに、最初に洗礼を受けたリディアという女性は、紫布の商売人であったと使徒言行録第16章に書いてありますが、この紫布というのもぜいたく品の象徴のようなものでしょう。フィリピに住むローマ人たちは、土着の文化とはちょっと違う、ローマ風の豊かなライフスタイルを誇らしげに作っていただろうと思います。言葉も服装も、その他いろんな生活の仕方をローマ風にするのです。それが植民都市というものでしょう。

ところがそのフィリピという豊かな大都市に、パウロたちがキリストの福音を携えてやって来て、今申しましたリディアという女性とその家族が洗礼を受けて、というところから始まって、そこにキリストの教会が生まれました。それは天の国の、福音による侵略が始まったという言い方をすることもできるかもしれません。天に国籍を持つ、まったく次元の異なる豊かさに生きる小さな群れが、けれども実にしたたかな強さを持つ群れが生まれました。その人たちは、ただ国籍が違うというだけでなく、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と言われているように、そのライフスタイルも実はずいぶん違う。繰り返しますが、それが植民地というものの特色でしょう。

もっとも植民地という言葉は、現代ではあまりいいイメージではないかもしれません。武力で、財力で、力を持つ者がそうでない者を圧迫し、侵略して、ここは俺たちの土地だ、俺たちの都市だと言い張るということは、決して許されないことです。けれどもここでは、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」というのです。福音というのは喜びの知らせであって、そうであるならば、そのキリストの福音を、さらにひとりでも多くの人に伝えていこう、天の植民地をもっともっと広げていこうという気持ちになるのは当然でしょう。そこには、当然ひとつの戦いが要請されます。

■「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と書いてあります。戦いと言っても、やるべきことはひとつしかないので、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」、ただそれだけです。この「ひたすら」という翻訳はたいへんすぐれたものだと思います。原文では「ただひとつ」という意味の言葉です。フィリピの教会の仲間たちよ、あなたがたの生活についてわたしが言いたいことは、実はひとつだけなんだ。ただひたすら、キリストの救いの喜びにふさわしい生活をしなさい。この「ひたすら、ただひとつ」という言葉を、「どんなことが起こっても」と言い換えた人がいます。どんなことが起こっても、このひとつのことさえ覚えておいてくれればいい、このひとつのことだけは外すな。そうすれば戦える。そう言うのです。

「我らの国籍は天に在り」とか何とか言ったって、私どもの生活の苦労がなくなるわけではないのです。私どものひとりひとりの生活は、本当にひとりひとり違いますが、そのひとりひとりの生活の中で、本当にいろんなことが起こり、そしていろんなことで心を騒がせるのです。けれどもそのようなときに、何が起ころうとも、あなたはキリストの福音を聞き続けていればよい。その喜びに根差した生活をすればよい。あなたのすべきことは、結局はただひとつ、それだけなんだ。

いったい、世界はこれからどうなっていくのでしょうか。いったいわれわれは、何をどうしたらよいのでしょうか。私どもは今まさにそのことで心を騒がせておりますし、いろんな人がいろんなことを言うのですが、本当は、誰も何も分からないのです。けれどもそのようなときに、「どんなことが起こっても」と聖書が告げてくれる言葉は、どんなに力強いことでしょうか。どんなことがあっても、「我らの国籍は天に在り」という、その事実に揺らぐところはひとつもないのだから、あなたがたは、その事実に根差した喜びの生活を送りなさい。

そしてそれに続けて、「そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても」と書いてあります。これは、ぼんやりしていると読み過ごしかねない言葉ですが、この手紙を書いたパウロは、その時牢獄に捕らえられていたのです。まさしくキリストの福音のゆえに、であります。フィリピの教会の人たちも、そのことでどんなに心を痛めたことだろうかと思います。本当は一日も早く会いたいのだけれども、それができない。そのように、われわれが今離れ離れになっているとしても、そのように福音がどんなに反撃されることがあったとしても、あなたがたは、どんなことがあっても、ただ天の国民として、喜びにふさわしい生活をすればいい。そうすれば戦える。そしてそのために、27節の最後にあるように、「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦」う。教会はひとつになって戦うのです。キリストの福音のための戦いであります。

■その戦いの先頭に立っておられるのは、言うまでもなく、イエス・キリストご自身です。そのことに関連して、もしかしたら皆さんが既に聖書朗読のときに、これは耳が痛いと思われたかもしれないのは、29節であります。

つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。

今、私どもは、このように言うことができるでしょうか。「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」。福音のための戦いには、必然的に苦しみが伴います。この世界は、本質的に、キリストの福音を拒否するところがあるからです。その福音のための苦しみは、どうしても避けることができないというにとどまらず、これを恵みのひとつとして数えることができるでしょうか。しかし私は、まさにこれこそ、今こそ私どもの聞くべき言葉であり、この世界が聞くべき言葉であると思うのです。

「キリストのために苦しむ」と言うのですが、まずキリストが私どものために苦しみをお受けになったのであります。なぜこのお方は、苦しまなければならなかったのでしょうか。私どもの罪のためです。罪とは何でしょうか。ここでそんなに難しい話をする必要はないのです。このすぐあとの第2章3節以下には、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と、3歳の子どもでも分かることが書いてあります。それが何歳になってもできないのであります。おそらく、世界でいちばん偉い人にもできないでしょう。むしろ、偉くなればなるほど、こういうことができなくなるのかもしれません。しかもこのことができないからこそ、大昔から今に至るまで、世界は苦しんでいるのです。

今、世界で起こっていることは、などと偉そうなことを語る資格は、もちろん私のような人間にはありません。けれども、それでも言わなければならないことは、今主イエスがこの世界の有様をご覧になって、どんなに苦しんでおられるかということです。そのキリストの苦しみは、他でもない、私どもの罪のための苦しみでしかなかったのです。そのことがよく分かったら、あなたがたもキリストの苦しみを一緒に担ってごらんなさい。別に、無理してどこかに苦しいことはないかと、きょろきょろする必要もないのです。主イエス・キリストが、なぜ苦しみを受けなければならなかったか。それは私どものためだということを思い、このお方の愛にふさわしい生活を少しでも心がけようとしたら、たちまち新しい苦しみが必ず与えられます。必ずです。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。たとえば、こんなに簡単そうなことを、けれども、本気で始めたら。しかも私どもは、まさにここにキリストの苦しみの意味があり、しかもまさにここに、世界の救いがかかっているのだと言わなければならないのです。

■29節をよく読むと、「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」と書いてあります。苦しむことも神の恵みって、いったいどういうことだと思いますけれども、しかしそれならば、まずキリストを信じることが、恵みとして与えられている、そのことは十分に分かっているのでしょうか。「わたしは神を信じている。わたしは信仰を持っている」。そういう言い方を私どもはするのですが、自分で信じたわけじゃない、自分の信仰そのものが、神からいただいたものでしかない。そのことがよく分かっているでしょうか。

私どもが神を信じるのは、神が私どもを愛してくださったからです。本当は、私どもの誰もが、利己心と虚栄心のとりこで、実に鼻持ちならない、愛される資格なんかひとつもないのに、そんな私どもを愛するために、主イエス・キリストはどんな苦労をも厭いませんでした。その神の愛を信じるという話ですから、信仰を持っているというのは、何も私どもの方に偉いことがあるわけではないのです。

それはたとえば、適当な言い方ではないかもしれませんが、誰かのお世話になった時のことを考えてみればよいのではないかと、ある説教者が言っています。ある人が、本当に自分のために苦労してくれて、どんなに自分が悪くても徹底的にかばってくれて、その人の愛があったからこそ今の自分があるのだと分かったら、喜んでその人のことを信頼するでしょう。これから一生、この人を信頼して生きていこう、決してこの人の愛を裏切ることのないように。

私どもが神を信じるというのも、それに似ていると思います。自分はこのお方にこんなにお世話になったんだ、ということを誇らしげに、喜んで語るということはあるでしょうが、そのお世話になったお方に対する自分の真心はこんなにすごい、と言い始めたら、「お前、何言ってんだ」ということにしかならないでしょう。神がどんなに私どものために苦労なさったか。その神を私どもが信じるというときに、その信仰だって、結局は神からいただいたものだというのは、当然のことです。

そしてそれに添えて、「キリストのために苦しむことも、これも恵みとして与えられているのだ」と言われるのです。私どもの主でいてくださるイエス・キリストは、今もこの世界のために苦しんでおられると思います。私どもは、人間同士なら、自分のために苦しんでくれた両親のために苦しみたいと思うのです。親の葬儀をしながら、実はこの親が、自分のためにどんなに苦労してくれたか、あとになってやっと理解できて、今となっては悔やみきれないほどの思いを抱いたりもするのです。それならば、私どものためにどんな犠牲をも厭わなかったキリストのために、わたしも一緒に苦しもうと、なぜ考えることができないのでしょうか。「俺がお前のために苦しんでやるんだぞ」というような、恩着せがましい態度とは何の関係もありません。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。ただそれだけのことが、時にどんなにつらくなるでしょうか。しかもまさにそこで、キリストの苦しみの意味を知るのです。今もキリストが、この世界のために、このわたしのために、どれほどの痛みと悲しみに耐えておられるか。今共に生きておられるキリストの苦しみを知るからこそ、わたしもまた、自然と苦しみの中に立つのです。まさにそのようにして、私どもは、「我らの国籍は天に在り」という、私どものアイデンティティを明らかにしていくことができるのです。

「我らの国籍は天に在り」とは、この手紙の第3章20節の言葉ですが、その第3章20節を最後まで読むと、こう書いてあります。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」。天に国籍を持つ私どもは、いつかこの天の本国に帰ることを心待ちにします。そのために、キリストが再び来てくださる日を待っているのです。「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」。そのとき、私どもは改めて知ることになるだろうと思います。このお方が、この世界のために、私どものために、どんなに苦しまれたか。どれほど深い愛を注いでくださったか。それがすべて明らかになるのが、キリストが再び来てくださる最後の日であります。

「主イエスよ、どうか、早く来てください」と、私は本当に、呻くような思いで祈らずにおれないのです。けれども私どもは、今既に、キリストの苦しみの意味を教えられているのですから、今はただ、キリストの福音にふさわしく生き、み言葉の勝利のために、戦うべき戦いを続けていきたいと、心からそう願うのです。祈ります。

 

心騒ぎ、惑う日々を強いられておりますが、私どもの主イエスよ、誰よりも苦しんでいてくださるのは、あなたであると信じます。どうか今新しく、あなたを信じ抜く心を与えてください。あなたの苦しみに、私どもの苦しみを合わせていく幸いを学ばせてください。私どもの身勝手が、今こんなにも世界を苦しめています。何をどうしたらよいのか、分かりません。ただ、ひたすらに、あなたに愛された者として、天に国籍を持つ者として、ふさわしく立つことを学び直すことができますように。そのように生きるキリストの教会を通して、この世界が、望みを見出すことができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン