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善意、悪意。だが、それが何であろう

2022年2月27日

川崎 公平
フィリピの信徒への手紙 第Ⅰ章12-20節

主日礼拝

■今年の1月より、伝道者パウロの書いたフィリピの信徒への手紙を読みながら、礼拝の生活を作っています。この手紙は、既に何度もお話ししましたように、パウロが自分の手で書いた手紙の中では、おそらくほとんど最後のものであって、しかもそれは牢獄の中で書かれたと言われます。今日読みました部分の最初のところの12節に、「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」とありますが、この「わたしの身に起こったこと」というのは、明らかにパウロが投獄されたことであると読むことができます。それで続く13節には、「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り……」と、たいへん前向きなことが語られていくわけです。その部分を既に先週の礼拝で読みまして、「どんなときにも、福音を前進させてくださるのは神である」と、そのことを感謝しながら、礼拝をしたのであります。

ところがそのあとの15節以下を読みますと、パウロが12節で「福音の前進」、「ますます福音は前進を続けているのだ」と言ったことの内実が、実はたいへんに汚らしいものであったことが明らかになってきます。まさにこの福音の前進ということをめぐって、人間という生き物が本来持っている罪の心が、実に無残な形であらわになってきたのです。

フィリピの信徒への手紙は、パウロの晩年に書かれたと申しましたが、それはつまり、少なくともキリスト教会の世界では、既に伝道者パウロの名は非常に有名になっていたということを意味します。パウロという人は、これは聖書にある程度親しむようになると気づかされることですが、たいへん強烈な個性を持った人間であったようです。中途半端なことが嫌いで、相手が誰であろうと、間違ったことは間違っていると、人の顔色を窺うようなことをせずにズバズバものを言うことのできる人間であったようです。そういうパウロに対して、好評と共に悪評もたくさん生まれたということは、これは常識的に考えれば容易に理解できることだと思います。

■ここでは、その問題が改めて浮き彫りになってしまいました。あのパウロがまた牢屋に入れられたらしい。おそらくすぐには釈放されないだろう。それを聞いて、内心すごく喜んだ人たちがいたようなのです。それで、これ幸いと、パウロのやってきた仕事にけちをつけるようなしかたで、キリストを宣べ伝え始めたというのです。

キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです(15~17節)。

ここで問題になっている人たちは、明らかにキリスト信仰に生きていた人たち、しかも伝道者と呼ばれる人たちです。その人たちが、悪気はなかったんだけれども、結果としてパウロ先生につらい思いをさせてしまった、という話ではないので、最初から悪意をもって、獄中で苦しんでいるパウロの苦しみの上にさらに苦しみを加えようと、そういう意地悪な思いをもって、キリストの福音を告げ知らせている人たちがいたというのです。

聖書という書物は、本当に正直に私どもの現実を直視していると、改めてそのことに気づかされます。聖書は、決してきれいごとを言わないのです。教会の中には、基本的にはいい人しかいないので、そりゃあいろいろ考え方の違いはあるけど、悪気があったわけじゃないんだとか、お花畑で夢を見るような話は書かないのです。私どもの教会だって、実はそんなきれいごとばかりではないでしょう。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます」。けれどもそこでパウロが何を言っているかというと、「そんなこと、どうだっていいじゃないか」と18節で言うのです。

だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。

「だが、それがなんであろう」という翻訳は非常によいと思いますが、原文のギリシア語でこのところを読んだときに、非常に鮮やかな印象を受けました。その感じを味わっていただくために敢えてギリシア語を発音してみますが、「ティガル ti gar?」というのです(英欽定訳 ”What then?”)。直訳すれば「だから何?」と言うのです。「自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。それがどうしたの?」 中途半端なこと、曲がったことが嫌いなパウロという人の個性を考えますと、これはますます驚くべき発言であると思います。

17節に、「自分の利益を求めて」と書いてありました。「利己心から」と訳すこともできる言葉です。利己心。自分のことしか考えない。それが悪いことであることは、子どもにだって分かります。興味深いのは、同じ362頁の最後のところ、第2章3節にも(原文では)まったく同じ言葉が出てきて、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく」と、ここでははっきりと利己心というものを悪いものとして退けています。それは、キリストに救われた人間にはいちばん似つかわしくないものである。そうすると、今日読みました第1章17節の利己心というのも、それをばねにして伝道を頑張っているんならいいじゃないか、というように読むわけにはいきません。どう考えても、「自分の利益を求めて」キリストを宣べ伝えるのは間違っているのです。そう私どもは常識的に考えるのですが、ここでパウロが、「それがどうした?」「キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」と言った、その喜びとは、いったいいかなる喜びであるのか、そのことをよく考えなければならないと思うのです。

■考えてみますと、たとえば今、利己心ということを申しました。利己心が悪いものであることは、誰だって分かります。しかし現実に、利己心のない人はいないでしょう。聖書というのは、怖いくらいにわれわれの現実、教会の現実を直視していると申しましたが、私どもの生きる鎌倉雪ノ下教会にだっていろんな問題があると思います。教会の伝道とか奉仕とかを一所懸命している私どもの中に、たとえばねたみとか争いとか、利己心とか、あいつを苦しめてやろうとか、そういう動機で教会の仕事を頑張っている人がもしもいたとして、そういう人は教会の奉仕にふさわしくないのでしょうか。というよりも、神はそういう汚い心をひとつも持たない立派な人間を、ご自分の協力者としてお用いになるのでしょうか。もしも、神がそういう基準で私どもを審査なさったとしたら、鎌倉雪ノ下教会の牧師も長老も、全員ただちに辞任しなければならないでしょう。

けれども私どもの教会の主であるイエス・キリストは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコによる福音書第2章17節)と言われたのであって、その主イエスに招かれ、赦された罪人が、だからこそキリストの福音の担い手とされるのです。主イエスに招かれた私どもの誰もが、価値がないというよりも、マイナスの価値しか持たないのです。そういう罪人を主はお招きになり、またそれをご自分の御用のためにお用いになるというのは、われわれ日本人が大好きな清濁併せ吞むというような中途半端な話ではありません。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではない」。わたしは、断じて、正しい人は招かない。わたしが招くのは、罪人だけ。実はそれこそが福音そのものであるはずで、それを私どもはこれまでにも繰り返し教えられてきたはずですが、それを幾たび忘れることでしょうか。パウロが18節で、「それがどうした?」とまで言い切った自由なこころは、これこそがキリストに罪を赦された人間にだけ与えられた自由なのであって、その自由なこころを忘れるとき、教会はファリサイ派の群れになってしまうのだと思うのです。

15節には、「善意」という言葉も出てきました。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます」というのです。それはそうでしょう。私どもも神に愛された人間として、悪意とか利己心とかじゃなくて、やっぱりできることなら真心から神さまにお仕えしたいと願っているし、実際にそうしているのであります。しかし、その私どもの善意っていったい何でしょうか。

パウロの周辺にも、善意で伝道に励んでいる人たちがいたと書いてあります。しかしその人たち自身は、自分が完全無欠な善意の人間であるとは思っていなかったと思います。キリストの恵みを一所懸命伝えながら、自分が罪人であることを忘れることはできません。むしろキリストのことを伝えれば伝えるほど、自分は罪人だからこのお方に招かれたのだということを自分の心に刻み続けただろうと思います。

私どもは、何だかんだ言っても心の中ではずいぶんでたらめなことを考えているものだと思います。平穏無事なときには、整った顔でよそいきの態度でいることができますが、何かが起こると、たとえば自分が不幸になったり、他人の幸せがやりきれなくなったり、あるいは、まさにこの聖書の言葉が明らかにしているように、かねてから気に食わなかった人が牢獄に入れられたり、そういう不幸に遭ったりすると、途端にそれまで隠していた本性を現すものです。そしてそのたびに、私どもはたいへん惨めな思いをするのです。けれども、そんな私どものために、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われた、キリストの善意を疑うことだけはもうできないので、そのキリストの善意だけを支えとして、キリストの恵みを語り始めた私どもは、当然、自分のどうしようもない利己心を心から嫌うようになるでしょう。そして、それを少しずつであっても捨てていくことができるでしょう。

■19節には、こう書いてあります。「というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです」。これは、読めば読むほど不思議な印象を残す言葉だと思います。「このことがわたしの救いになる」と言うのですが、「このこと」というのは要するに、「自分の利益を求めて、獄中のパウロをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせている」、そういう人たちがいるということでしょう。けれども動機が何であれ、「とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」、その喜びの理由が何かというと、19節で、結局は「このことがわたしの救いになる」からだと言うのです。驚くべき発言だと思います。

ある聖書学者はこのことについて説明しながら、パウロはいつも、自分自身の救いと、キリストの福音が告げ広められることをひとつのことと見ていたと言っています。パウロにとって、自分が救われることは、純粋に個人的な事柄ではなかった。キリストがすべての人に宣べ伝えられることと、自分自身が救われることが、いつもひとつに結びついていた。ですから、たとえば同じくパウロの書いたコリントの信徒への手紙Ⅰの第9章23節では、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」と言うのです。もしもキリストの福音が前進をやめてしまったら、その瞬間、わたし自身も神の救いから落ちる。わたし自身も福音から落ちてしまう。だから、動機が何であれ、キリストが宣べ伝えられているなら、それはわたしにとって喜びでしかない。

そのことを別の表現で言い表したのが、20節です。「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」。わたしが切に願い、希望していることはただひとつ。それは、キリストがあがめられること、それだけだというのです。自分に意地悪をしてやろうという不純な動機で伝道を頑張っている人がいるとしても、結果としてキリストがあがめられることになっているのであれば、それはわたしがいちばん願っていることだ、なぜならそこにわたし自身の救いがかかっているからだと言うのです。

■パウロという人は、つくづく強い人間だと思います。フィリピの信徒への手紙は、しばしば〈喜びの手紙〉と呼ばれますし、今日読んだ18節にも「わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」と、〈喜び〉という言葉が繰り返し出てきました。パウロが強い人間だというのは語弊があるかもしれません。主イエス・キリストがパウロに与えてくださった喜びは、本当に強靭な喜びで、ちょっとやそっとのことでは、この喜びをパウロから奪い取ることはできない。そういう意味で、しかしそれはやはり、パウロという人間の強さという言い方をしても何も間違っていないと思います。

よく想像していただきたいのですが、パウロの置かれた状況は、やっぱりきついものがあったと思います。人の悪意を感じるということはつらいことです。その相手がたったひとりであったとしても、それ以外のすべての人が自分によくしてくれたとしても、そのたったひとりの悪意のせいで、私どもは夜も眠れないほど悩むのであります。自分に対する悪意をあからさまにしながら、牢獄の外でのびのびと活動している人たちがいる。それに反して自分は牢獄の中で何もできないというこの状況は、つらくなかったはずはないだろうと思うのです。しかし考えてみますと、パウロに意地悪をしたこの伝道者に導かれてキリストの恵みを知った人たちも、きっとたくさんいたのだろうと思います。そういうところで、「善意とか悪意とか、だが、それがなんであろう」、「わたしはそのことを喜んでいます。これからも喜びます」というところに立つことができたのは、パウロの度量の広さとか、そんなことは何の関係もない。「わたしの願いは、キリストがあがめられること」、その一点に立ち続けることができたからだとしか、考えられないのです。

20節の最初のところに、「そして、どんなことにも恥をかかず」と書いてあります。この言葉はちょっと分かりにくいと思われたかもしれません。「わたしが切に願い、希望していることは、絶対に恥をかきたくないということです」ということになると、何だかずいぶん見栄っ張りだ、ということになりそうです。しかしそう読むと明らかに矛盾してしまいます。人の目を気にして、わたしは絶対に、どんなことにも恥をかきたくないんだ、ということであるならば、自分を苦しめようという不純な動機で伝道している人がいるなんてことになったら、きっと顔を真っ赤にして、「名誉棄損で訴えてやる!」とかなんとか、ありとあらゆる手を尽くしたに違いありません。もちろん、ここはそうは読めないのです。

ここは少し翻訳に注文を付けたいところで、たとえばかつて用いられた口語訳聖書は、「どんなことがあっても恥じることなく」と訳しました。新しい聖書協会共同訳も全く同じで、つまり、昔の翻訳に戻したような形になりました。こちらの方がよいと思います。新共同訳のように「わたしの願いは、どんなことにも恥をかかないこと」と訳してしまうと、それは何だか他人の目を気にして「恥をかきたくない」と言っているようですが、「どんなことがあっても恥じることなく」というと、これはパウロの強い意志を感じさせます。ねたみと争いの念を持って、わたしを辱めようとする人がいるけれども、わたしは何も恥じることはない。なぜならわたしは清廉潔白だから、というのではないのです。そうではなくて、わたしの切なる願いは、わたしがあがめられることではなくて、キリストがあがめられることだから。だから、わたしは、何も恥じることはない。そう言うのです。ここに、パウロという人間の強さの秘密があるのではないでしょうか。

翻って、私どもがいつも心の底で願っていることは、キリストがあがめられることではなくて、自分があがめられることだろうと思います。自分があがめられているか、けなされているか。自分が重んじられているか、馬鹿にされているか。それがすべてですから、もしもひとりでも自分に対する悪意を持っている人がいるなんてことになると、もう我慢がなりません。なかなかパウロのように、「それがどうした」、「どんなことがあっても恥じることなく」、「わたしの願いは、ただキリストがあがめられることだけだ」と、堂々としたところに立つことができません。なぜかと言うと、もう一度申します、私どもがいつまでたっても、キリストがあがめられることではなくて、自分があがめられること、そのことだけを願い続けているからです。しかしまさにそのようにして、私どもの人間性が腐ってくるのだと思いますし、世界中を巻き込むような戦争なんてものも、実はそういう私どもの腐った心が積もり積もったところから生まれるものでしかないのであります。私は、本当に、そう思うのです。

けれども、そんな私どもが、主イエスが教えてくださった通り、「あなたのみ名があがめられるように」と、その祈りに本当に生きることができるなら。「わたしの名があがめられますように」という、腐った願いを正しく捨て去ることができるなら。たったそれだけのことで、世界はどんなに新しくなることでしょうか。そのために、神はパウロというひとりの人をお召しになり、〈喜びの手紙〉とまで呼ばれるこの手紙を、私どものためにも残してくださいました。ここに、すべての人の望みがある。ここに、世界の望みがあるのです。

異例のことですが、いつも私がひとりでしている説教のあとの祈りに代えて、皆さんとご一緒に、主イエス・キリストが教えてくださった〈主の祈り〉をしたいと思います。世界の危機であると思います。すべての思いを込めて、この祈りを共にしたいと思います。

 

天にまします我らの父よ
ねがわくはみ名をあがめさせたまえ
み国を来らせたまえ
みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を 今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救い出したまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン