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今や、恵みの時、今こそ、救いの日!

2022年1月2日

川崎 公平
コリントの信徒への手紙二 第6章1-10節

新年主日礼拝

■昨年から予告をしておりましたように、新年1月より、私がここに立って説教するときには伝道者パウロの書きましたフィリピの信徒への手紙を読んでいきたいと思います。けれども今日はそれに先立って、新年最初の、その意味で特別な礼拝ですから、神が与えてくださったみ言葉であると信じて、同じくパウロの手になるコリントの信徒への手紙二の第6章を読みました。

パウロという伝道者は、強烈な個性を持った、またそれだけ特別な魅力を持った人だと思います。よくイエスさまは、パウロという人を見つけてくださったと思います。もしもパウロという人が教会の伝道者として召されていなかったら、教会の歴史の姿はずいぶん変わっていたかもしれないなと、ふと思います。今朝、あえてこのコリントの信徒への手紙Ⅱを読んだのも、このパウロという人を生かした神の力を、その秘密の一端を知りたいと願ってのことです。第6章1節以下に、こう書いてあります。

わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、
「恵みの時に、
わたしはあなたの願いを聞き入れた。
救いの日に、わたしはあなたを助けた」
と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日(1、2節)。

パウロという人は、〈今〉という時の意味をよくわきまえておりました。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。〈今〉は、特別な時なのだ。その〈今〉という時を逸することは、「神からいただいた恵みを無駄に」することでしかない。そう言うのです。

年が改まって、思いも新たに、今年こそ、と年頭の抱負を立てておられる方もあるかもしれませんけれども、私どもの多くが何となく諦めていることは、年が改まったからといって、何が改まるわけでもない。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」って、いや、今年も去年と、本質的にはそう変わることもないだろう。年が改まったからといって、世界が改まるわけでもない。疫病が少しは収まったりするかもしれないけれども、私ども自身の弱さが、罪深さが、何か根本的によくなるわけでもない。それは事実、その通りなのであります。私どもの考えることと言えば、せいぜい自分の生活が大きく崩れないように。教会の人数やら会計状況やら、大きく落ち込むことがないように……。けれどもどこかで、何か新しいことが起こらないかなあ、と淡い期待を抱いたりするものです。

けれどもそこで、いやそうじゃないんだ、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。この〈今〉という時を逃したら、もうチャンスはないんだから、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」。神の恵みが無駄になるなんて、そんなことが考えられるのでしょうか。パウロという人はしかし、神の恵みが無駄になるか、ならないか、その瀬戸際に立つ切迫感をよく知っておりました。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」なんだから、〈今〉すべきことがあるだろう。私は、ここにパウロという人の強さがあり、魅力があると思いますし、もし私どもが同じように、〈今〉という時の特別な輝きを明確にわきまえることができれば、実はそれだけで、私どもの生活も根本的に改まるだろうと思うのです。

■今日は、第6章1節以下を読みましたが、新共同訳の区分に従うならば、ここは第5章11節から始まる大きな区分の途中から読んだことになります。そして新共同訳は、第5章11節以下に「和解させる任務」という小見出しをつけてくれています。この小見出しというのが曲者で、実はしばしばわれわれをミスリードすることもなくはないと私は思っていますが、この「和解させる任務」という小見出しは適切だと思います。「和解させる任務」、それは神が教会に委ねてくださった務めであり、しかもその教会の務めは、〈今〉という時と深く結びついた任務であったのです。たとえば、第5章の14節以下にはこう書いてあります。

なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです(14、15節)。

ここで多くの説明を重ねる必要もないと思います。私どもが生かされている〈今〉という時は、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」、〈今〉という時のことです。この「駆り立てている」という表現には、なかなか熱いものがあります。「今しかないんだ」とパウロを駆り立てる、時の切迫感が伝わってきます。しかし、この「駆り立てる」と訳されている言葉を原文にさかのぼって理解すると、さらに豊かな意味を読み取ることができます。たとえば文語訳聖書は、「キリストの愛われらに迫れり」という名調子でここを訳しました。キリストの愛がわたしにぐーっと迫ってくる。「ぐるっと周りを取り囲む」というのが基本的な意味です。キリストの愛に完全に包囲されてしまって、もう外に逃げることができない。興味深いのは、今月から読み始めるフィリピの信徒への手紙の第1章23節にも同じ言葉が出てきます。

この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です(23、24節)。

文語訳が「キリストの愛われらに迫れり」と訳し、あるいは新共同訳が「駆り立てている」と訳した同じ動詞が、ここでは「板挟みの状態です」と訳されています。板挟みになって困っているわけではありません。どっちを向いても、キリストの愛がわたしを板挟みにしている。「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です」。どっちを向いても、どっちの景色もすばらしいんだけれども、どっちにしても、このキリストの愛の板挟みから逃れるわけにはいかない。「キリストの愛、われを挟めり」というその場所で、決して忘れることができないことがある。

わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

キリストの愛が、パウロをも取り囲んだとき、そのときすべてが新しくなりました。パウロの人生も変わりました。それどころか、世界そのものが新しくなったのです。その目的は、すべての人が、もう自分自身のために生きるのではなくて、私どものために死に、甦ってくださった主イエスのために生きるようになることでした。

それが、〈今〉という時の意味です。パウロは、この〈今〉という時の縛りを受けて、キリストの愛に駆り立てられて、生きる者とされました。そこに新しい任務、新共同訳の小見出しで言えば、「和解させる任務」が生まれました。

神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい(18~20節)。

ずいぶん大胆な発言ではないでしょうか。「キリストに代わってお願いします」。キリストの代理人として、キリストのご意志を発言し続けるのです。「神と和解させていただきなさい」。それをまた第6章でも、「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます」と言うのです。神の協力者、キリストの代理人として、私ども鎌倉雪ノ下教会も、ここに立つ。キリストの愛に取り囲まれた者として、私どもは「和解のために奉仕する任務」を果たすのです。

■このような〈教会〉という存在が、今ここに生かされているということは、それ自体、たいへんな出来事であると言わなければなりません。新しく始まった2022年、この1年の間にどんなことが起こるか、誰も知りません。この年の終わりまで、この鎌倉雪ノ下教会が存在し続けることができるかどうか、それすらも本当は誰にも分からないのです。けれども現に、今ここに鎌倉雪ノ下教会を神が生かしていてくださる。「あなたがたも、わたしの協力者として働いてくれるかね」。そうであるならば、私どもも今新しい思いで、自分自身を差し出していくほかありません。「キリストの愛、われらに迫れり」。わたしに迫っているキリストの愛を告げることと、キリストの愛に迫られている自分自身を差し出して生きることは、実はひとつのことであり、これを分離することはできません。

パウロという人は、その意味でも、たいへん大切な発言を私どものために残してくれています。パウロは、コリントの教会のためにも、いつも自分自身をさらけ出して生きておりました。だがしかし、そのために、特にコリントの教会との関係において、悩み抜かなければなりませんでした。既に第5章12節にも、「わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません」という言葉がありました。その背後には明らかに、「パウロは、自分自身を推薦している。あいつは本当に出しゃばりだ」という批判があったのでしょう。特にこの手紙の中で、私がいつもつらい思いで読むところがあります。第10章10節です。

わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。

こんなことを言われたらつらいだろうなと思います。「川﨑先生の説教をホームページで読んで、すばらしい説教をする先生がいるんだ……と思ったけれども、本物に会ってみたら実につまらない人間で、がっかりした」。そんなことを言われた日には……しかし、たとえば、私だったら、こういうことを考えるかもしれない。「そうですね、おっしゃる通りです。しかし、『手紙は重々しく力強いが』と、そう思ってくださったんですね。私の書いた言葉から、神の真理をきちんと読み取ってくださったんですね。私の言動や態度があなたのつまずきになったのであれば、それは申し訳ない。けれども、私の書いた言葉は、それは本当にあなたを生かす神の福音なんですから、私のことは見なくてもいいですから、聖書の語る福音にだけ目を向けてください」。……と、いうようなことを、しかし、パウロはひとつも考えませんでした。第6章の11節以下には、こんなことまで書いてあります。

コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください(11~13節)。

コリントの人たちがパウロに心を閉ざすことは、すなわち神の恵みに心を閉ざすことだ、神の恵みを無駄にすることだ。そうパウロは考えていたようです。どうか、あなたがたも心を広くして、わたしを受け入れてください。神の協力者であるわたしを、もしも受け入れることができないならば、それはあなたがたの滅びを意味すると言わなければならないではないか。

これは、決して皆さんにとっても遠い話ではないと思います。皆さんも、キリストの愛に取り囲まれて、神の協力者として、すばらしい福音の宝をわんさと抱えながら、けれどもそれを誰かに渡そうとする。誰かに伝えようとする。「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」と言いたいのに、言葉が通じない、思いが届かない。私どもが共通に知る悩みであります。

■今日は、第6章の1節から10節までを朗読したのに、まだ3節以下にはひと言も触れておりません。しかしむしろ皆さんの心に残ったのは、むしろ3節以下であったかもしれません。

わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています(3、4節)。

「その実を示しています」というのは、ちょっと分かりにくいのですが、先ほど読みました第5章12節に「わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません」とありました。そこで使われている「自分を推薦する」という同じ言葉が、ここではなぜか「その実を示しています」と訳されているのです。自分を推薦する、間違った仕方で出しゃばるようなことは、それはまずいだろう。けれども、だからと言って、神の協力者たる者が自分を隠してしまったらどうしようもないので、「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように……あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。あなたがたのために、自分自身を差し出しています」。どうか、このわたしを見てください。「キリストの愛、われに迫れり」。こんなにすばらしい神の愛に挟まれたこのわたしを、どうかよくご覧になってください。

ここに立つ鎌倉雪ノ下教会が、すなわち皆さんひとりひとりが、そのように自分自身を推薦する、あるいは自分自身を差し出していくことができれば、どんなにすばらしいかと思いますが、そういうことを聞かされながら、おそらく皆さんの多くは、「いや、そんな無茶な、何がすばらしいんだか」とお考えになっているかもしれません。そこで改めて問題になることは、いったいいかなる自分を推薦するのか、ということです。パウロは、ちっとも心を開こうとしないコリントの人たちのために、いったいいかなる自分を示そうとしたのでしょうか。

今日読みましたところは、実は原文では非常に特徴的な文章で、3節から10節まで、ずっとひとつの文が続いているのです。途中にピリオドがひとつもない、ひとつも「。」がない。そうすると、たとえば、4節の途中から、「大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています」とありますが、「そうしています」というのは、その前の「実を示しています」というところからずっとひとつの文章が続いている。つまり、忍耐とか苦難とか欠乏とか、純真とか知識とか寛容とか、とにかくあらゆる面において、わたしはあなたがたのために、神に仕える者としての姿を差し出しています、と言っているのです。

8節では、「栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです」と言います。パウロも、ほめられたり、けなされたり、その中で苦しみ抜いたのでしょう。ことにコリントの教会との関わりにおいてさんざんひどいことを言われて、「もう知るか」とさじを投げたくなったこともあったかもしれない。そんなときにも、わたしは神に仕える者としての自分自身を、あなたがたに示してきました。キリストの愛に駆り立てられた者として、あなたがたの前に立ち続けました。だから、どうか心を狭くしないで、と言うのです。この発言が嘘でないとしたら、パウロという人は、本当に不思議な力で守られていたのだと、そう言わなければならないだろうと思います。

■ことに私どもの心を打つのは、さらにそのあと、8節の後半からです。「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり」。くどいようですが、この部分もずっと前からひとつの文が続いています。「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり」、そのような自分自身をあなたがたのために表しています、と言っているのです。「人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず……」(9節)。どうか、そのようなわたしをよく見てください。そうすれば、神の恵みが見えてくるから。どうか、神の恵みを無駄にしないでほしい。そう言うのです。

「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり」。パウロもしばしば、悪口を言われたのでしょう。「あいつは嘘つきだ。人を欺いている」。しかし、そのとき、どうするのでしょうか。「違う、わたしは誠実な人間だ」と言い返すのでしょうか。「人に知られていないようでいて、よく知られ」。誰からも知られていない、無視されているというのは、とてもつらいことです。そこで「いや違う、おれは実はすごく有名なんだ」と頑張るのでしょうか。「死にかかっているようで、このように生きており」。もしもこのような発言を、パウロがただひとりで頑張っているだけだとしたら、こんな惨めな話はないだろうと思います。誰が何と言おうと、おれは生きているんだ、誠実なんだ、だから有名なんだと、ひとりで意地を張っている人の姿は、痛々しいほどのものがあります。

けれども私は、「死にかかっているようで、このように生きており」と、このように発言しているのは、もはやパウロ自身ではないと思います。キリストの愛がパウロを取り囲んで、教会の迫害者であった男を、神の協力者として駆り立てて、そのパウロのために、主イエスが語り掛けてくださったのだと思うのです。「死にかかっているようで、見よ、あなたはこのように生きている。わたしが、あなたを生かす」。

そのように読んでまいりますと、最後の10節も、何の説明もなく理解できるだろうと思います。「悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」。パウロも、悲しみを知らなかった人ではありません。けれども、そのパウロを生かし抜いた神の恵みは、決して無駄にならなかったのであります。だからこそ、見よ、わたしは常に喜んでいる。多くの人を富ませている。無一物のように見えるかもしれないけれども、実はすべてのものを所有しているんだ。わたしは、キリストの愛に取り囲まれているから。

そのような自分を、すべての人のために差し出していく幸いな道に、パウロは立つことができました。「死にかかっているようで、見よ、このように生きている!」 このわたしを見てほしい。新しい年の初め、私どもも心新たに、パウロと同じ場所に立ちたいと願います。そのような私どもの存在を通して、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」という神のみ声が響いていくのです。お祈りをいたします。

 

「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。私どもも今、心いっぱいに、その事実を賛美することができますように。キリストの愛に取り囲まれて、私どもの言葉と、わざと、いや私どもの存在のすべてをもって、あなたの恵みを証しすることができますように。主よ、ご覧ください。ここにも、あなたに愛された教会が生きております。あなたのものとして、用い尽くしてください。この教会の存在を通して、この年も、ひとりでも多くの人があなたの愛に触れることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン