主の食卓に連なろう
中村 慎太
コリントの信徒への手紙一 第10章14-22節
主日礼拝
あ 皆さんに、○×クイズを出します。
「教会は、家族のようなものである」〇か×か。
×です。
「教会は家族のようなものである」のではありません。「教会は家族である」のです。
今日受洗した人、信仰告白をした人は、「わたしは教会という神さまの家族とされました」という事実を、今日はっきりと示されたのです。そして、これから受洗していく皆さんにも伝えます。皆さんも、イエスさまは家族としてくださる、むしろ、家族とするためにもう救いをなしてくださったのです。
「わたしたち教会は神さまの家族である」。なぜこのように私たちがはっきりと言えるのか。
自分たちがさみしくないように、言い聞かせているのではありません。みんな家族だから甘えていいのだ、とかそういう言い訳をするためでもありません。
私たちを家族とし、愛してくださったイエスさまがいてくださるから、私たちははっきりと宣言するのです。イエスさまの愛が計り知れないほど大きいからこそ、私たち教会は家族なのだ、とはっきり言えるのです。ローマの信徒への手紙第8章39節「高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。この方の愛がはっきりと示すのです、わたくしたちを神さまの家族にしてくださったことを。
今日は、新約のコリントの信徒への手紙一のみ言葉を聴きました。これは、イエスさまの弟子である伝道者パウロが、コリント教会の皆に向けて書いた手紙です。伝道者パウロは、コリント教会のみんなにむかって、ある時は厳しいことも伝えます。コリント教会の人たちに起こった問題を、きつく注意するような言葉も書いているのです。でも、パウロはコリント教会の人たちを、愛する家族として語りかけ続けるのです。
今日私たちが聞いたところにも、その愛が込められている言葉がありました。
コリントの信徒への手紙一第10章14節です。
「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。」
「わたしの愛する人たち」とパウロは呼びかけるのです。まずパウロがコリント教会の信徒のみんなを、愛しているよ、という思いが込められている。また、新約のもとの言葉も考えると、この言葉、わたしの「愛されている者たち」という言葉でも読めます。英語で言ったら、「beloved」という言葉なのです。神さまに愛されているわたしの家族よ、わたしの兄弟よ、という思いが、実はこの一つの言葉に込められている。実際、パウロはこの手紙の後、第15章の最後の方では、「わたしの愛する兄弟たち」という言葉を使っています。「神さまに愛されているわたしの兄弟姉妹であるみんな」とパウロは呼びかけている。コリント教会に呼びかけるその言葉が、今ここに集うわたくしたちにも向けられている。「神さまに愛されている私の家族である教会のみんな」と、呼びかけている。
パウロはそのように呼びかけて何を伝えるか。それが「偶像崇拝を避けなさい」という言葉でした。実は、コリントの信徒への手紙Ⅰでずっとこれまで書かれてきたのは、偶像を、主なる神さま以外の何かの者や像を拝んではいけないよ、という話でした。コリントには、ギリシア神話に出てくるような神々の偶像がたくさんありました。そしてその偶像を拝むための神殿があり、祭りがたくさん開かれました。だから、コリント教会の人たちの中には、そういった偶像を拝むことで、他の信徒の信仰を弱らせ、悲しませることがあったのです。
パウロは、そのような偶像を拝むことで、教会の家族が信仰から離れるきっかけを作ってはいけないよ、と伝えてきたのです。
私たちは、間違った方角や危ない所をいくら教えられても、そっちに行ってしまうものです。それが、私たちの弱さです。
イエスさまが地上にいらっしゃるはるか前の、信仰者たちも、そのような失敗を重ねてきました。
今日は旧約のみ言葉も共に聴きました。それは、出エジプト記の出来事でした。それは、エジプトを脱出したイスラエルの民が、シナイという山についた時のことです。そこで主なる神さまは、民に律法、主なる神さまと民との間の掟を与えてくださいました。そして、主なる神さまがイスラエルの神であることと、イスラエルの民が神さまの民であることをはっきりさせるから、この掟を守りなさい、と伝えてくださったのです。
この時、民の指導者モーセと長老たちは、なんと主なる神さまの前で食事をします。第24章11節です。
「神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。」
主なる神さまは、私たちと一緒に食事をなさることを望まれる方です。一緒に食事をする家族として、私たちと親しく、一緒にいたいと願ってくださる方なのです。
では、この時のイスラエルの民の長老たちは、主なる神さまの前での食事を、喜んでいたのでしょうか。もしかしたら、緊張して、びくびくして食事をしていたかもしれません。旧約のもとの言葉をじっくり読むと、この11節の「見て」という言葉、「畏れ敬いながら」という意味にもとれる言葉なのです。
旧約の時代、主なる神さまの前に立ち、その主を見てしまったら、命は取られると考えられられていました。それほどに、主なる神さまは偉大で畏れ多い方だと思われていたのです。
しかし、それほどに畏れ多い主なる神さまからの掟をいただきながら、イスラエルの民はその掟を、律法を守ることができませんでした。十戒が与えられて「わたしをおいてほかに神があってはならない。いかなる像も作ってはならない。」という掟が与えられたのに、民はその掟をすぐに破ってしまうのです。
シナイ山で主なる神の前で食事をしたアロンや長老たちが、イスラエルの民が、モーセが死んでしまったと思って恐れたことを理由に、金の子牛の像を作ることを許してしまうのです。
私たちはそのように、偶像崇拝に向かってしまうものです。
それは、教会も同じです。主なる神さまのみ言葉以外の何かを、自分たちの基準にしていしまう。この世の価値観を、人々の意見にながされて主ではない何かを重んじてしまう。
例えば、感染症の恐れがこの世で言われています。その恐れに耳を傾けて、それだけを基準に、礼拝を大切にしなくなったら、どうなるでしょうか。それはまさに、モーセの死を恐れた民の言葉に耳を傾けて、感染症を金の子牛としてしまったのと同じではないでしょうか。私たち教会は、そうならないように、祈りを合わせて、何とか主の御心に従おうと願うのです。しかし、私たちでさえ、そのような偶像崇拝に傾いてしまった時があるのでは、と悔い改めます。
私たち自身のこともそうです。何か、主なる神以外のものに心奪われてしまうことがある。恐怖や死に心囚われて、それの前になすすべなくなってしまうことがある。自分がそうなったとき、愛する友がそうなった時、どうすればよかったのか、と後悔をすることがある。神さま、私はあの時、何もできませんでした、偶像の前に、負けてしまいました、と悔い改めるのです。
しかし、主なる神さまは、そのように偶像に向かってしまう私たちを何とかして救おうとなさるお方でした。どうしても偶像に向かってしまう私たちを救うために、イエスさまが必要だったのです。
では、パウロは偶像崇拝を避けることを、どのように伝えているのでしょうか。ただ、やめろ、と言って禁止する言葉を続けるのでしょうか。
パウロは「偶像崇拝を避けなさい」と書きました。
「避けなさい」。この言葉は、「逃げなさい」という意味で読むこともできる言葉です。実際、イエスさまも、この言葉を弟子たちに伝えています。「迫害された時は、他の町へ逃げて行きなさい」といったようにお語りになる時、この言葉を使われたのです。
偶像を崇拝するな、とパウロはただ命令するのではありません。そっちではなく、イエスさまの方へ、イエスさまが指し示す方に、逃げるようにしよう、そっちに行こうよ、とパウロは伝えるのです。
私たちが偶像崇拝を避けて、そこから逃げ出して、イエスさまの方へ向かうためにあるのは、聖餐です。イエスさまが定めてくださった、主の食卓です。
私たちが主の日、日曜日の礼拝をささげる時、必ず中心にあるのは聖餐のテーブルです。この教会も、この聖餐卓を中心にしている。みんなで、この聖餐を、イエスさまが与えてくださる主の食卓を向きます。
コリントの信徒への手紙も、偶像崇拝問題をずっと注意しながら、手紙の後半ではイエスさまの定めてくださった聖餐のことを、どれほど嬉しく、恵みに満ちたことかと伝えていきます。そこに示されるイエスさまの愛を伝えていくのです。今日読んだ箇所もそうです。
そっちはあぶないよ、というだけではなく、こっちこそ、神さまにつながる道だよ、と示していく、それがイエスさまの示してくださったことなのです。
イエスさまは、父なる神さまを恐れてしまい、かえって偶像の方へと向かってしまう私たちに、「恐れるな」と語り掛けてくださいました。イエスさまは、この地上に降りてきて、弟子たちと一緒に食卓を囲んでくださいました。かつてイスラエルの民が主なる神を前に食事をしましたが、今度はイエスさまご自身がその食事を一緒にしてくださったのです。さらに、イエスさまは、私たちがその食卓につけないほど罪深く神さまから離れていたのを、お赦しになるために、十字架にお架かりになりました。私たちの罪を背負ってくださいました。そこで、私たちのために肉を裂き、血を流してくださって、命をささげてくださったのです。そこまで、私たちを愛し抜いてくださったのです。
そして、イエスさまはご復活させられました。私たちがイエスさまと同じように、復活させられて永遠の命を与えられるために。
そのイエスさまが、聖餐を教会にこのように行いなさいと命じてくださいました。
それは、ただの儀式ではありません。弱い私たちがはっきりとイエスさまの十字架と復活を心に刻むことができるようにイエスさまがさだめてくださったことです。そして、それは天の食卓を私たちに先取りさせる出来事です。
天国のイメージは私たちなかなか持てないものです。しかし、聖餐こそが、そのみ国を指し示すものです。イエスさまはそのみ国を私たちに示すために、聖餐をお定めになったのです。
偶像崇拝に囚われそうになる私たちに、イエスさまは命の道を示してくださいました。それが聖餐となっています。
私たちはその聖餐に与るたびに、イエスさまにごめんなさいと祈ります。そして、十字架で肉を裂き、血を流されたイエスさまのことを思い起こし、ありがとうございます、と祈ります。そして、この天の食卓の喜びに、さらに新しい誰かが連なることを祈ります。