世界は誰のものか
川崎 公平
ヨハネの黙示録 第20章1-15節
主日礼拝
■黙示録を書いたヨハネという人は、教会の牧師でした。私のようなひとつの教会だけの牧師ではなくて、小アジアの教会全体を指導するような、たとえば監督とかビショップとか呼ばれるような立場の人間であったと言われます。そのヨハネが、たいへん豊かな幻を神から見せていただいて、この黙示録を書いた。それはパトモスという小さな島にいたときのことであったと、第1章の9節に書いてあります。
今日読みました第20章の4節には、「わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった」と、かなり生々しいことが書いてあります。この「獣」というのは明らかにローマ帝国の権力体制のことで、そのローマによる迫害がたいへん厳しい時でありました。ヨハネがパトモスという小島にいたのも、いわゆる島流しに遭っていたのか、あるいは自ら亡命を試みたのか、詳しいことはよく分かりません。いったいいつからパトモスにいたのでしょうか。もしかしたらもう何年もこの島にいたのかもしれませんし、いつこの島から出ることができるか。自分に委ねられている教会の仲間と再び会うことが、果たして許されるのか。そんなことも分からない不安な生活の中で、ヨハネはこのような幻を神から見せていただくことができました。
ヨハネは、パトモスでの生活が何年続こうが、神が自分に委ねてくださった教会のことを忘れることはありませんでした。黙示録の最初に置かれているのは、小アジアの7つの教会に宛てて書かれた手紙です。正確には第2章から第3章にかけて、エフェソにある教会、スミルナにある教会、ペルガモンの教会、ティアティラの教会……。小アジアの7つの教会、いずれもヨハネにとっては、その名を聞くだけで涙が出てきそうな、懐かしい教会であったに違いありません。そのひとつひとつの教会のためにキリストご自身が語ってくださった言葉を、ヨハネは書き記しました。そしてヨハネ自身、その魂がそれらの教会から離れたことは一度もなかったし、この7つの教会もまた、ある日突然ヨハネ先生からの手紙という形でこの黙示録を受け取って、どんなに大きな望みを与えられたかと思うのです。
■このような当時の教会の姿を思うにつけ、私は同時に、自分に委ねられている鎌倉雪ノ下教会のことを思うのです。感染症の状況もずいぶん落ち着いて、礼拝堂に集まる人の数も少しずつ増えてきました。それだけに、それでもここに集まることを控えざるを得ない方たちはまだまだ多いし、そういう仲間たちを気軽に訪問するわけにはいかないことを、悲しく思うのです。けれどもそこで、だからこそ、ヨハネの黙示録から私どもが学び取らなければならないことがあると思います。ヨハネは、このような幻を神から見せていただきながら、ただ自分たちの寂しさや悲しみをかこつだけではありませんでした。そのようなところにだけ、とどまり続けるわけにはいきませんでした。
先ほども読みましたように、4節には、「わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た」と書いてあります。事実、当時の教会は、殉教者を出さなければならないような厳しい状況にありました。「この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった」。獣との戦いを余儀なくされた教会が、ところがここでは「キリストと共に千年の間統治した」と言います。その統治というのは、6節にも「キリストと共に千年の間統治した」という言葉がもう一度繰り返されますが、6節ではもうひとつ言葉が重ねられて、「彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する」と言われます。祭司としての統治です。祭司というのはつまり、神と人との間を執り成す奉仕です。獣の支配のために、くまなく荒らされてしまったこの世界のために、けれども教会は「神とキリストの祭司」として、キリストの福音を伝えるのです。3節にも「千年」という数字が出て来て、「千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした」とも書いてあります。サタンにさんざん惑わされ、迷わされ、悩まされた世界のために、教会は祭司として慰めを告げ、執り成しの祈りに生きるのです。
新型コロナという疫病は、確かに、キリスト教会にとっても大きな打撃となりました。けれどもそこで、ただ自分たちが自由に礼拝できないとか、大きな声で讃美歌を歌えないとか、自分たちの不自由をかこつだけであるならば、私どもが何のためにこの試練を経験したのか、何の意味もなくなるだろうと思うのです。私どもキリストの教会は、祭司としてここに生かされている。世界にとってなくてはならない存在として、教会は生かされているのです。神とキリストの祭司として、キリストの統治を共に担うために、この鎌倉雪ノ下教会もまた、104年の歴史を刻むことが許されました。ヨハネの黙示録は、そのことを新しく私どもに教えてくれます。
■今朝読みました黙示録の第20章というのは、先ほども聖書朗読をお聞きになりながら、深い慰めを受けた、感銘を受けたというよりは、「わけがわからん」という印象を受けた人の方が多かったのではないかと思います。一方ではそれは仕方のないことだと思います。1900年も昔の、時代も文化も言語も異なる文書を読んでいるのですから。しかもこれは、歴史を単純に叙述した文章ではなく、ヨハネの見た〈幻〉であって、その一字一句にあまりにこだわりすぎると、どつぼにはまると思います。しかし、ここで黙示録が伝えようとしていることは、実はそれほど複雑なことではありません。
この第20章が伝えるひとつのことは、サタンが取り押さえられている千年という時間のことです。まず2節で、「この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ……」と言われます。創世記第3章で、アダムとエバを罪に誘惑した蛇のことでしょう。「年を経たあの蛇」と言われる通り、それはもう誰よりも年を取っていました。その老練な、老獪きわまる蛇、あるいは竜が、けれども黙示録の第12章では、天における戦いに負けて、地上に叩き落されたと書いてあります。決定的な敗北を喫したサタンが、だからこそ、最後の悪あがきをするように、二匹の獣を従えて、地上で大暴れをしている。そのために、今キリストの教会は悩みに悩んでいるのだ、というのが黙示録の歴史観です。ところがここに至って遂にその竜が取り押さえられて、千年の間、世界は竜の支配、獣の支配からも自由になることができたと言うのです。
そこでもうひとつ大切なことは、その千年の間、教会は何をするのか、ということです。それが4節以下の段落に記されていることで、「イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たち」、それはつまり、「あの獣もその像も拝まず」、そのために殉教したキリスト者たちが甦って、千年の間キリストと共に統治した。神と人との間を執り成す、祭司としての統治を千年にわたって続けたというのです。それは、悪魔に一切邪魔されることなく、自由に、妨げなく伝道ができた千年間です。
■このような、実に不思議な幻を見せていただきながら、ヨハネは深い慰めと、しかしまた同時に、深い心の痛みを覚えたことだろうと思います。天から追われてきた悪魔のせいで、神の造られたこの世界がどれほど汚れてしまったことか。悪魔の手下である獣、すなわちローマにそそのかされた人間の手によって荒廃してしまった世界の姿は、しかし、黙示録の語るところに従えば、ヨハネが考えていたよりもずっと深刻だったのです。ところがそのような力がすべて取り押さえられて、教会が自由に伝道することができる千年間が来るという、すばらしい望みをヨハネは見せていただいたわけですが……主イエスよ、いったいそれはいつのことですかと、既に皆さんもそのような問いを抱いておられると思います。
しかも、話がもうひとつ複雑になるのは、その千年間が終わると、それまで取り押さえられていたサタンが解放されて、改めて諸国の民を惑わし、海の砂のような数の軍勢を集めて、神に対する戦いを試みると書いてあることです。それでも結局、悪魔はなすすべもなく焼き尽くされてしまうというのですが、なぜ悪魔を解放してしまうのか。最初から叩き潰しておけばいいのに。どうして千年間という、中間的な時代が設定されるのか。そもそもこの千年間というのは、いつからいつまでの千年のことなのか。こういうことを考え始めると、実は非常に難しい問題に首を突っ込むことになります。
この「千年間」という数字は、教会の歴史において、ひとつの役割を果たしてきました。たとえばキリスト教の事典のような書物を調べると、「千年王国」という項目が出てきます。この「千年王国」なるものをどのようにとらえるか、その理解の違いによって、非常に残念なことですが、教会の分裂が無数に繰り返されるということが起こりました。
けれどもそこで、気を付けるべきことがあります。黙示録というのは、謎解きのための文書ではない、言い換えれば、未来のことを言い当てるための言葉ではないということです。悪魔が閉じ込められて、殉教者は甦って、教会が自由に伝道できる千年王国がやってくる。それはありがたいけれども、その千年間というのが何年に始まって何年に終わるのか、その謎を解かなければならないと考え始めると、たちまち私どもは深みにはまるのであります。
黙示録が千年間について語るのは、ここが初めてです。他方で、これまで黙示録が繰り返してきたのは、獣の支配は3年半という数字です。42か月とか1260日とか言い換えられることもあるのですが、要するにその3年半というのは、7年の半分です。7というのは、聖書における完全数、神の救いの完全さを表す数字です。その半分ですから、不完全ということです。サタンの支配がどんなに恐ろしく見えたとしても、それは必ず中途半端なところで挫折する支配でしかない。その3年半というのはしかし、決して文字通りの3年半ではありません。黙示録が書かれてから3年たっても、4年たっても、いや100年たっても200年たっても、迫害の時代は終わらなかったのです。黙示録の語った獣の3年半は、思いのほか長かった。それどころか、獣の支配する3年半というのは、いまだに、決して終わっておりません。そうでしょう。ああ、これでやっと獣の支配が完全に終わった、もうだいじょうぶだ、と言えたときは、まだ歴史上一度も来ていないのです。それにもかかわらず、サタンの支配は必ず挫折すると言わなければならないので、その3年半に対する千年です。それはほとんど、永遠の重みを意味します。神の与えてくださる恵みの支配の長さと確かさが、千年という数字に象徴的に言い表されているのです。
■ハンス・リルエというドイツの牧師が書いた黙示録の講解があるということを、以前にも紹介したことがあると思います。ヒトラー率いるナチ政権に抵抗した人のひとりです。ナチ政権が教会に対してしばしばしたことは、有力な指導者を教会から引き離すことでした。それでこのリルエも、ナチの秘密警察によって逮捕された状態でなお、黙示録の研究を続けたと言います。自分の愛する教会から引き離されたリルエという人は、言ってみればパトモスにいたヨハネと同じ境遇で、だからこそヨハネの見た幻の意味がよく分かったのだと思います。この千年王国について、リルエがはっきりと書いていることは、教会はいつもこの千年王国の信仰に生きてきたということです。この世界は、神のものだ。最後まで悪魔が支配し続けることを、神は決してお許しにならない。その神の支配を共に担うのが、キリストの教会であるという信仰に、私どもも今生かされているはずです。そうではないでしょうか。その信仰は、千年たったらどうなるか、とか、その千年がいつ始まるか、という話ではないのです。いつ終わるとも知れないヒトラーの支配に抵抗しながら、この獣の支配はつかの間のこと、それに相対するキリストの千年の、永遠の支配のもとに立ったのです。
「彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する」(6節)。私どもは、ここに立つ。既に主イエス・キリストが、私どもの大祭司として、十字架の血をもって、私どもと神との間に和解の道を開いてくださったように、それと同じように今度はキリストの教会が、神と諸国の民との間に立って、キリストの慰めを告げるのです。とりなしの祈りに生きるのです。その千年間というのは、悪魔の支配する3年半に比べて、どれほどの確かさを持つことであろうか。もしも今、私どもがこの望みに生きているならば、千年王国は既に始まっているのです。千年王国なんて……いったいいつ始まるんだろう。それが始まったら本気出して伝道するんだけどなあ、というような呑気な話ではないのです。もしもそんなことであったならば、これまでの二千年にわたる教会の歴史はなかったし、104年にわたる鎌倉雪ノ下教会の歴史もなかったのです。
■その千年が終わると、改めてサタンはその牢から解放され、けれどもそこで、徹底的に滅ぼされることになります。そして最後に起こることは、「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た」(12節)ということであります。この情景は、人間の言葉では、到底描き切れないものがあると思います。その関連で非常に興味深いのは13節で、「海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた」と書いてあることです。海というのは滅びの象徴です。その海が、「その中にいた死者を出した」。原文を直訳すると、「死者を与えた」という表現で、要するに、それまで海が閉じ込めていた死者たちを、ここで全員、神にお返ししなければならなかったということです。「死と陰府も、その中にいた死者を出した」。神が、海と死と陰府にお命じになった。「お前たちが捕えこんでいる人たちは、お前たちのものじゃない。わたしのものなんだから、こっちによこせ」。神に命じられたら、逆らうことはできません。死も陰府も、自分たちが閉じ込めていた死者を、みな神さまに渡さなければならなくなった。
だからそれに14節が続きます。「死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である」。この「第二の死」という言葉だけを読むと、ほとんどの人は、肉体の死を超えた、さらにその向こうで待ち構えている永遠の滅びのことだろうと考えるかもしれませんが、ここでは話が違っていて、死が死ぬのです。滅びが滅びるのです。実に不思議な表現です。なぜかと言うと、私どもにとって世界でいちばん確かなもの、揺るがないものは、死の力だからです。死が死ぬなんて。私どもの誰もが考えもしなかったことがここで起こっている。だがしかし、教会がキリストと共にする統治というのは、まさにこの命の支配であって、だからこそ主が最初に教会をお建てになったときにも、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイによる福音書第16章18節)と仰せになったのであります。
この命の支配に相応じて開かれるのが、12節に出てくる「命の書」であります。この「命の書」については、既に第3章5節にも出てきました。サルディスの教会に宛てて、「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す」と言われるのです。死が、陰府が捕えこんでいたはずの者たちの名が、だがしかし、きちんと命の書に書き加えられているならば、この事実に立ち向かい得るものはどこにもない。洗礼入会式の最後の祈りの言葉を思い起こしておられる方もあるかもしれません。神さま、ありがとうございます。あなたはこの兄弟姉妹を「主のからだである教会のえだとして加え、その名をみもとにあるいのちの書に書き加えてくださったのであります」と言うのです。神のみもとにある命の名簿に名が記されている者は、命に生きる。死の力もその人をさらっていくことはできません。教会は、そのようにして、ひとりまたひとりと、死の力が捕えこんでいた人たちをもぎ取っていく戦いを続けるのです。
クリスマスを前にして、今年も何人かの方たちが信仰告白・洗礼入会の準備を進めています。洗礼を志願する人の言葉を聞き、またそれに応えて洗礼を行うことができることは、教会にとって何にもまさる喜びです。そのたびに、私どもは知るのです。神が勝った。命が勝利したのだ。そのキリストの命のご支配のお手伝いをさせていただいている教会であることを、改めて感謝をもって受け止め直したいと思います。祈ります。
主イエス・キリストの父なる御神、あなたにお仕えする祭司の群れ・教会を、今一度あなたのみ言葉によって励ましてくださいます。死に勝つ教会を、罪に勝つ教会をお建てになったのは、主よ、ただあなたのご意志によることであります。恐れと感謝とをもってみ前に立たせてください。望みをもって、あなたの命のご支配のもとに立ち、またそのために仕え抜くことができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン