逃れる道も備えあり
中村 慎太
コリントの信徒への手紙一 第10章1-13節
主日礼拝
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
この言葉は、教会で、さらに言えば、教会の外でも、良く知られ、愛されている言葉です。中高生の修養会で、この言葉によって励まされ、若い友の言葉がありました。また、キリスト教学校の生徒たちの愛唱の聖句のまとめたもので、この言葉が挙げられていました。
そして、私自身も、この箇所の言葉に何度も励まされていました。今もまさに、この言葉に、いやこの言葉が指し示す、主イエスに、依りすがるようにして歩んでいます。
ただし、この言葉だけを取り出すのでも励ましに満ちていますが、この言葉がコリントの信徒への手紙において、どうして書かれたかを思う時、私たちにはさらに恵みが満ち溢れます。それは、偶像崇拝から離れ、主イエスのみを礼拝しよう。そしてこの方こそ私たちの究極の逃れの道なのだ、という福音です。
コリントの信徒への手紙第10章の中心になる言葉は、実はそれは今日みんなで読んだ箇所の次14節も含めることができます。
14節です。「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。」実は第10章は、偶像礼拝を避けることを伝えています。「唯一なる主のみに礼拝をささげ、偶像を避けようではないか。」この手紙の書き手である伝道者パウロたちは、それを訴えているのです。
コリントの信徒への手紙において、パウロたちは、コリント教会の者たちの一部の者たちに警告をしていました。その一部の者たちは、偶像はただの造られたものとして、何の力もないものとして、別に避けなくてもいいと考えるところがありました。コリントの町で行われる祭りに参加し、そこで飲み食いをしてしまうことを、それでいいのか、と伝えていたのです。むしろ、教会のほかの兄弟姉妹がそれでつまずかないように、偶像崇拝に参与していると思わせることはしないほうがいいではないか。そして、まことに信仰の食卓である聖餐をこそ、大切にしようではないか。そのようにして、主なる神のみに礼拝をささげ、その福音が広げていこうではないか。福音が広がるためには、どんなことでもしようではないか。とパウロは訴えていたのです。
そのパウロが、第10章では、偶像崇拝を避けるために、聖書の旧約の出来事を思い出させます。この箇所を読んで私たちが思わされることは、旧約に示された神さまの御業は、私たちにも関係して読めるのだということです。コリント教会の人たちは、かつては異邦人としてイスラエルの民から区別されていました。しかし、パウロは、イエスさまによる洗礼によって、教会の者は皆主の民にされたことを、大前提としています。だからこそ、かつての信仰の民の出来事は、教会の皆にとっても、必ずつながるのです。
パウロは出エジプトの出来事から、いくつも例を挙げます。主の民とされながらも、偶像に染まってしまった民のことです。
出エジプトの民は、火の柱、雲の柱によって主に守られました。また、主は葦の海を真っ二つにして民をその間に通してくださいました。また主なる神さまは、マナを降らせ、岩から水を出させ、民に生きる糧を与えてくださったのです。パウロはその命の水を与えた岩こそ、キリストであったと教えます。もうその時から、イエス・キリストにある新しい命は、信仰の民に示されていたのだと。しかし、この出エジプトの民は、そのように神さまに救われても、なお主から心が離れてしまう者でした。悪をむさぼり、金の子牛をの像を拝み、座って飲み食いし、立って踊り狂うことまでしてしまったのです。荒野の旅のペオルにおいても、民は異邦の民の風習に従って食事をし、偶像礼拝をしてしまった。さらには、食べ物も飲み物もなくなった時、民は言いました。「なぜ我々をエジプトから導きだしたのですか」そのように主を試したことで、主なる神は炎の蛇を民に送られて、民の多くが滅びたのです。
これらの出来事を、パウロは、今も関係あることとして伝えているのです。かつての出エジプトに起こった出来事や、民数記で起こった出来事と同じように、あなたたちが偶像を崇拝するようなことをしたら、滅びが起こるのだ、と。
その言葉が私たちにも、向かってきます。そう考えると、この章はとても厳しいことを突き付けている箇所なのです。
ただし、パウロは同時に主の憐れみをつたえます。出エジプトのこれらの出来事が起こりながらも、民は滅び失せることが無かったことも、パウロは伝えています。「皆」、洗礼を受けた、と記されている一方、滅びたのは、「大部分」ではあるものの、「皆」ではなかったのです。「ある者が」滅びたことが伝えられているのです。「皆」は滅びなかった。
主なる神は、これほどの離反が続いたにも関わらず、民を滅ぼし尽くすことはなかった。民を生き延びさせ、その民にお教えになった。偶像崇拝を避けなさい。と。その教えが、コリント教会の人に、私たち鎌倉雪ノ下教会の者たちに伝えられている。
「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。」
主がこれほどまでに厳しく民を導いたのは、今を生きる私たちに、偶像崇拝を避けることを教えるためだったのです。
偶像崇拝を避けるように旧約のことを伝えたうえで、パウロは注意の言葉を伝えます。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」
この言葉も、私たちに向かって語られる言葉です。
私たち自身も、偶像崇拝と無縁かのように思うことがあります。
しかし、具体的な崇拝対象がなくとも、私たちのまわりに偶像はいくつもある。自分を、自分の大切な誰かを、また何か自分が価値を置いている何かを、私たちは偶像としてしまう。死に絶望に、囚われてしまうことがある。
そういった偶像にたよっていると、私たちはふと襲う試練の前に、倒れてしまうのです。
しかし、その試練の際に、主のみを思うことができるとき、私たちには逃れる道が示されるのも事実なのです。
今日は、創世記の出来事も挙げました。それは、アブラハムが、主なる神さまから試みを受けて、息子イサクをささげることになった出来事です。
この出来事も、実はアブラハムが偶像を避けることができるかどうかの、試練だったと言えます。アブラハムは、主から愛され、主を信じ、そう簡単には信じられなかった妻サラとの間の息子まで与えられました。アブラハムは、その時点で、自ら立っていると考えたのではないでしょうか。自分は倒れていない、と思ったのではないでしょうか。
そんなアブラハムを主は試されるのです。
息子イサクをささげよ、とつまりは、羊を屠るように、自分の息子を屠りなさいと命じたのです。
アブラハムにとっては、息子イサクはかけがえのないものでした。おそらく、自分の命より大切だと思っていたでしょう。極端な言い方をすれば、アブラハムにとっては、息子イサクが偶像になっていた可能性もあるかもしれない、と私は思います。
しかし、アブラハムは、そのイサクをささげました。つまりは、本当に屠るところまでいったのです。天使が「アブラハム、アブラハム」と呼びかけ寸前で止めるにいたるまで。
主の試みは、アブラハムにとっての極限状態になるところまで与えられたのです。
主の試練は、そのように私たちに与えられます。耐えられない、と思うほどにまで、私たちを追い詰め、そして、私たちが、自らのうちに持っている全てを手放すところまで、試練が与えられることがあるのです。
アブラハムは、自らのかけがえのない息子を手放し、神さまにささげるところまでいきました。その時、主はアブラハムの手から、息子を屠るための刃物もまた、取りあげてくださいました。
神さまは、アブラハムに、試練の先に、試練と共に、逃れる道も備えてくださいました。イサクに手を下してはならない、と伝えてくださいました。そして、代わりのささげものである、雄羊を与えてくださいました。
この代わりに屠られた羊こそ、アブラハムに与えられた代償のささげものでした。アブラハムとイサクの命の代わりとなった雄羊でした。
そして、私たちの代わりとなってくださったのは、イエスさまでした。私たちが罪によって、偶像崇拝によって、主から離れ、その罪によって滅びるはずだったのです。その私たちの代わりに、主イエスがささげられる羊となってくださいました。
私たちの試練の最も重いものは、この罪による滅びです。罪の結果による死です。この試練は、主イエス以外の誰にも覆せません。
主は私たちに試練と共に逃れる道も備えてくださいます。偶像崇拝に染まる私たちが、立ち帰るために、そして、その罪を贖うために、主ご自身がその逃れの道となってくださったのです。
神は試練と共に逃れる道を備えてくださる、とパウロは伝えるのです。これは、偶像崇拝を避けること、またかつて旧約で起こった民の離反への厳しい裁きを知ったうえで、コリント教会の皆が、倒れてしまわないように、励ます言葉でもあったのです。そのことは、逃れの道であるイエスさま、私たちの究極の救いは唯一この方にあることを知って、初めてこの言葉の本当の意味が分かります。
私たちはこのイエスさまに救われた民です。この方のみに私たちは礼拝をささげます。私たちに試練が与えられ、全てを手放して降参した時に、その主イエスという逃れる道が、その主の恵みが、燦然と示されます。