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滅びを生む富の力

2021年10月3日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第18章1-20節

主日礼拝

■ヨハネの黙示録第18章を読みました。黙示録は全部で22章ですから、既に終わりに近いわけですが、ある意味では、黙示録はここでようやく問題の核心に触れると、そのように言うこともできるだろうと思います。どうしてもこの黙示録が書かれなければならなかった、その具体的な問題が、ここで明らかになるのです。

「天使は力強い声で叫んだ。『倒れた、大バビロンが倒れた』」(2節)。大バビロンというのは、ここでは当時のローマ帝国のことであり、特にこの第18章の文脈に即して言えば、その都ローマの輝かしい繁栄のこと、豊かさにほかなりません。そのローマの富の輝きが、歴史の流れの中で、やがて自然と衰退していくだろう、というのではありません。神の怒りに触れて滅ぼされるのです。8節にも、「彼女を裁く神は、力ある主だからである」と書いてあります。その神の裁きを伝えるのです。

言うまでもないことですが、黙示録が書かれたとき、まだローマは倒れておりません。むしろ人びとの目に映るところ、ローマの都がどんなに栄えていたか、どんなに輝いていたか、それもまた、この第18章の言葉の端々から窺い知ることができます。当時のユダヤの人が書いた文章に、こういう言葉があるそうです。「10の富が全世界に来た。そのうちローマが9を、それ以外の世界が1を受け取った」。もっとも現代においても、全人類の1割の人が、世界中の富の9割を独占していると言われますから、他人事ではありません。

ヨハネはそのように、世界中の富が集中しているようなローマの都の輝きを指差しながら、「大バビロンが倒れた」と言うのです。この発言については、さまざまな理解があり得るかもしれません。この繁栄は、いつか必ず崩れるんだと、将来のことを言い当てていると読むこともできるかもしれません。しかし私はむしろ、「倒れた、大バビロンが倒れた」と過去形で書かれているのですから、「この都は、既に倒れたのだ」、神のまなざしの中では、既にこの都は崩壊している、という意味だと思います。その現実を、ヨハネは幻の内に見せていただいたのです。

■この第18章において、まず最初に「大きな権威を持っている別の天使」というのが登場して、大バビロン、すなわちローマの崩壊を告げます。さらに4節以下でも、天から別の声が聞こえ、ローマに対する裁きを重ねて語ります。主題は一貫して、ローマの豊かさであり、それを繁栄を支えた富であり、それがひとときの内に滅ぼされてしまうというのです。そして9節以下では地上の王たち、11節以下では地上の商人たち、そして17節以下では、その商人たちと結託して豊かな財貨を運んでいた海運業に関わる人たちが、それぞれ声を上げます。しかし結局は同じことを言っているので、「不幸だ、不幸だ、大いなる都バビロン」(10、16、19節)と繰り返して言います。

この「不幸だ」と訳されている言葉については、以前にも何度か説明をしたことがあると思います。原文のギリシア語をそのまま発音すると、「ウーアイ」という、言葉というよりも、叫びであり、呻きであり、それはしばしば、神ご自身の呻きを伝える言葉としても用いられます。「ウーアイ、なんて不幸なんだ」。ここではしかし、その言葉を、ローマの豊かさをいちばん豊かに享受していた権力者たち、また商売人たちが叫ぶのです。「不幸だ、不幸だ」。

この「不幸」というのは……かつては豊かであった、したがって幸せであった、不幸ではなかった。けれども今は、自分たちを喜ばせてくれた豊かさが全部取り上げられて、不幸になってしまった、という話なのでしょうか。おそらくそうではないだろうと、私は思います。そうではなくて、贅沢に暮らしていた時に、既にわれわれは不幸のどん底にあったのに、それに気づかなかった。気づくのが遅すぎた。今、大バビロンが神に裁かれ、倒れていく姿を見ながら、改めて、自分自身のみじめさを悟るのです。もちろん黙示録を書いたヨハネは、だからこそ、今すぐその不幸の中から立ち上がって、神に裁かれるべき豊かさの中から出てきなさいと言っているのです。

■このような不幸、わざわいをもたらす元凶として第18章が取り上げているのは、富の問題です。既に3節にも、「地上の王たちは、彼女(すなわちローマの都)とみだらなことをし、地上の商人たちは、彼女の豪勢なぜいたくによって富を築いたからである」と書いてありますし、たいへん興味深いのは、23節に「なぜなら、お前の商人たちが地上の権力者となったからであり」と書いてあることです。

ここで、黙示録を注意深く読んできた方は、黙示録がこれまではっきりとは語っていなかった、新しい主題が明確になってきているとお気づきになると思います。これまで黙示録が、特に第12章以下で徹底的に対決してきたのは、〈獣〉であります。それは要するにローマ皇帝のことであり、もっと広く言えば、ローマ社会の政治の領域の権力者です。その獣の背後には、天から追い落とされたサタンがいるとまで言うのです。ところがここでは、皇帝をはじめとする政治権力ではなくて、「商人たちが、地上の権力者となった」。地上でいちばん力を持っているのは、実は商売人であると言います。アマゾンの社長と、アメリカ大統領と、どっちが偉いか。もちろんそんな話にはとどまらないので、ここで黙示録が告げていることは、われわれ人間を奴隷にしてしまうのは富の力である、富の魅力である、ということです。

7節には、「わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない」とあります。どこか私どものひそかな思いを言い当てられているようにも思いますし、「こんなふうに言えたら幸せだろうな」というのも、その裏返しでしかありません。けれどもそれは、女王でも何でもない、富の奴隷になっているだけだ。われわれを奴隷にする本当の権力者は、富だ。豊かさだ。だがしかしその豊かさが、神に裁かれていることを、天使は告げるのです。

■特に私どもの目を引くのは、12節、13節に延々と列挙されている、商品の数々です。ここを原文のギリシア語で読むと、新約聖書の中でここにしか出てこない珍しい単語がいくつも出てきて、それをいちいち辞書で調べるのも一苦労ですが、それだけに楽しい勉強ができるところです。ここに出てくる言葉をひとつひとつ調べると、なるほど、当時のローマの社会というのが、本当に贅沢を楽しむことによって成り立っていたのだな、ということがよくわかります。特に前半の20品目くらいは、生活必需品とは言えない、いかにもバブリーな商品ばかりで、こんなものがなくたって生活はできます。しかしそれを言ったら、現代日本の社会だって、国中の人がいっせいに贅沢をやめて、極力質素な生活をしようと言い出したら、たちまち日本経済そのものが冷え切ってしまうでしょう。それに似た状況がローマにもあったと言われます。

しかしおそらく、何と言っても皆さんの多くが注目したに違いないのは、13節の最後に出てくる「奴隷、人間」というふたつの言葉です。人間を商品のひとつに数えるとは何事か、というよりも先に、奴隷は人間じゃないのか、というところに引っかかった方もあるかもしれません。原文を直訳すると「奴隷」とはちょっと訳しにくい言葉で、むしろ「体」という言葉です。商品としての人の体であります。その次の「人間」というのも、直訳すると「人間の魂」あるいは「人間の命」という言葉です。口にするとちょっと恐ろしい話ですが、売り買いの対象となるところの、人間の命です。「家畜、羊、馬、馬車、人体、人命」と言うのです。ところが実際には、大部分の聖書翻訳が新共同訳と同じように、「奴隷、人間」と訳します。そしてそれがおそらく、意味の上では正しい翻訳なのです。しかしそうだとしても、どうして黙示録がここで「人体、人命」という表現を用いたのか、それは丁寧に考えてみる必要があるだろうと思います。

古代ローマ社会というのは、奴隷によって成り立つ社会であったと言われます。何年か前に、たまたま見ていたテレビ番組で聞きかじったような話でしかないので恐縮ですが、人口の4割が奴隷であった。もちろん年代によって、地域によって違いがあるでしょうし、古代社会の人口なんて正確に調べられるはずもないのですが、それにしても人口の4割が奴隷だという数字を聞いたとき、私は改めて、「あまり健全な社会ではないな」と思ったのですが、そのテレビ番組で聞いて、私が今でも忘れられないのは、「要するに、古代ローマにおける奴隷というのは、今でいうサラリーマンみたいなものだ」と言うのです。

当時のローマの奴隷というのは、大部分が、戦争捕虜として連れて来られた人だったと言います。ですから、もともと大学の先生みたいな人が奴隷にされて、主人よりも奴隷の方がずっと学問も教養も豊かであるなんてケースはいくらでもあったのです。奴隷は、ただでは買えません。奴隷ひとりの値段は、もちろんその奴隷の質にもよりますが、われわれの生活感覚で言えば、車を買うくらいの値段であったと言われます。当然、体が頑丈であったり、それこそ学識も豊かであったりする奴隷には、高級な外車のような高値がついたでしょうし、それを自分自身で誇らしく思う奴隷だっていただろうと思います。「おれはこんなに高級な奴隷だ。おれの体には、こんなに高い値段がつくんだ」。逆に、何のとりえもない、頭の回転も遅いような奴隷は、二束三文で買い叩かれることもあったでしょうし、そんな自分であることを嘆く奴隷だっていたでしょう。

そういう奴隷のことを念頭に置きながら、けれども黙示録を書いたヨハネが、それをあえて「奴隷」とは呼ばずに、「人間の体」と、そのように商品としての奴隷のことを書いたとするならば、きっとそこには、たいへんに深い悲しみが込められたことだろうと思います。奴隷の体は、体でしかない。なるべく安くて性能のいい体が手に入ればありがたい。いったいそれが、本当に神の前に許されることなんだろうか。しかもそこで黙示録が、「人体、人命」と言葉を重ねるのです。人間の体に値段をつけるというのは、それは結局、人間の命を売り買いすることではないか。聖書の最初の文書、創世記の最初の章は、神が人間を、ご自分に似せて、神の形にかたどって造られたことを伝えます。その人間に値段をつけるような社会の豊かさが神に裁かれるのは、当然ではないか。

■そのような社会にあってキリストの教会は、特に伝道者パウロのような人は、神のみ前においてはユダヤ人もギリシア人もない、男も女もない、そして奴隷も自由人もないのだと発言し続けました。それは、当時の感覚からすると、相当に革命的なことを意味しました。それはただ単に、差別はいかん、というような話ではなかったのであります。奴隷であった人がキリストの福音に触れて、そしてまた教会の交わりの中に生かされたとき、「わたしは、人間なんだ」という、まさしくそのことを福音として聞き取ったに違いないのです。自分の値段が高いか安いか、高級な奴隷なのか、値打ちのない人間なのか、神の前ではそんなことは問題にならない。わたしは、人間だから、ただそれだけの理由で、わたしは神に重んじられているのだ。わたしのこの体が、このわたしの命が、神に愛されているのだ。

黙示録が、特に第12章以降で厳しく批判し続けている獣の支配というのは、結局のところ、人間が人間であることを忘れさせる支配なのであります。人間を、人間ではなくて、獣の子にしてしまう。わたしは、神にかたどって造られた人間なのだという、その恵みの事実から目を逸らせようとする、そのためにサタンが用いたいちばん強力な武器が、富であったのです。

主イエスもまたあるところで、「あなたがたは、神と富と、両方を愛することはできない。片方を愛してもう片方を憎むことしかできない。神と富と、両方に仕えることはできないのだ」と言われました(マタイによる福音書第6章24節)。この主の言葉に、これ以上説明の言葉を重ねる必要もないと思います。私どももいろんな富を持っています。お金にせよ、丈夫な体にせよ、あるいは子どものころ学校の成績が良かったとか、そんなつまらないことでも何でもいいんです、自分が豊かであればあるほど、私どもはそれに寄り掛かりたくなるし、自分の豊かさに寄り掛かれば寄り掛かるほど、神の恵みなんてことはどうでもよくなるものです。逆に自分が貧しければ貧しいほど、「これさえあれば」「これさえできれば」と、藁をもすがるように豊かさを求めるようになるでしょう。けれども、まさにそのときに、このわたしの体が神に愛されている。わたしが人間であるという、ただそれだけの理由で、わたしは神に重んじられている、そのことだけは、ちっとも考えようとしなくなるのであります。そして、そのような社会が行きつくところは、人間に値段をつけ始めるということであります。けれどもそれは、もう一度申します、人間が人間であることを否定する、獣の支配でしかありません。その豊かさは、神に裁かれるべき豊かさでしかないのです。

「私は主イエス・キリストによって初めて教えていただきました。私が人間であることはどんなにすばらしいかということと、真実の人間性を失った自分がどんなに惨めであったかということを」。

これは、私どもの教会の信仰の言い表しである『雪ノ下カテキズム』問10の引用です。もしも私どもの教会の存在そのものが、私どもを人間として大切にしてくださる、その神の愛を証しする存在とされるならば、どんなにすばらしいことかと思います。まさにそこで、教会は世の光として輝くのです。けれどもまた、教会も富の誘惑に遭います。奴隷たちを喜んで受け入れた教会の心ではなく、女王としての安逸をむさぼる思いに、もしも私どもが誘われるならば、その教会の輝きは、神に倒されるべき偽物の輝きにしかならないのだということを、心に刻み直したいと思います。

今日読みました第18章の最初のところに、こういう言葉がありました。

その後、わたしは、大きな権威を持っている別の天使が、天から降って来るのを見た。地上はその栄光によって輝いた(1節)。

あの大バビロンが倒れた。その輝きが完全に消え去った、その地上に、神の栄光が輝いたというのです。大バビロンの輝きとは何の関係もありません。この世の富の輝きが、全部倒れたとき、けれどもなお最後まで残る輝きであります。このような輝きを、神はこの教会にも与えていてくださいます。そのために、今私どもひとりひとりの体と命が召されていることを、感謝をもって受け入れ直したいと思います。お祈りをいたします。

 

父なる御神、あなたに愛され、あなたに似せて造られたものとして、私どもは今み前に立ちます。どうかそのような者として、私どもの体と魂とを、何よりもあなたの教会を、あなたの輝きによって生かし抜いてください。私どもを富の誘惑から守り、悪い者から救い出してください。主のみ名によって祈ります。アーメン

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