1. HOME
  2. 礼拝説教
  3. 神の最後の戦い

神の最後の戦い

2021年9月19日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第16章1-21節

主日礼拝

■かつて主の日の礼拝で毎週唱えていた、十戒という言葉があります。今は一種の非常事態ですから、少しでも礼拝堂にとどまる時間を短くするために、十戒を唱えるのをやめてしまっていますが、いつかは必ず復活させなければならないと思っています。「我は汝の神、主、汝をエジプトの地、その奴隷たる家より導き出せし者なり」という言葉から始まります。鎌倉雪ノ下教会の多くの方が、この十戒を暗唱しておられたと思います。しかし今はもう暗唱できないという方もあるかもしれません。

十戒、すなわち「十の戒め」と私どもは呼びますが、これは実は、世界共通の呼び方ではありません。たとえば英語では、もちろんTen Commandments「十の戒め」と呼ぶこともありますが、それよりも伝統的な呼び方はデカローグ、「十の言葉」というのです。デカというのは数字の10で、ローグというのは言葉という意味です。十戒を伝える出エジプト記第20章を開いてみると、そこにも「神はこれらすべての言葉を告げられた」(1節)と書いてあります。その言葉がどういう言葉かというと、

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記第20章2、3節)。

わたしは、あなたの神だ、と言うのです。「わたしは主、あなたの神。あなたをエジプトの奴隷の家から導き出した、あなたの神は、わたしなのだ」。だから、「わたしをおいてほかに、神があるはずがないだろう?」と続くのです。この言葉の重みを考えますと、十の戒め、十の決まり事、という呼び方よりも、やはり「言葉」という表現の方がよいのかな、と思わないでもありません。礼拝のたびに、私どもは神の言葉の前に立たされるのです。「わたしは主、あなたの神」。わたしだよ。わたしがここにいるよ」。礼拝というのは、結局のところ、「あなたの神は、このわたしだ」という神の言葉の前に立つことに他ならないのです。

今日はヨハネの黙示録の第16章を読みました。その最初のところに、「また、わたしは大きな声が神殿から出て、七人の天使にこう言うのを聞いた」と書いてあります。言うまでもなく、神の声です。大きな声が神殿から聞こえた。神の言葉が聞こえた。黙示録を書いたヨハネは、その神の言葉の前に立たされたのです。考えてみますと、黙示録というのは、どの頁を開いても色彩が豊かというか、視覚に訴えてくるような、強烈なイメージの描写が続きますが、その背後にはしかし、いつも神の言葉がありました。しかしそれは聖書全体がそうなので、聖書全巻の中で最後に位置するのが黙示録、それに対して聖書の最初に置かれている創世記が最初に伝えることも、最初にあったのは神の言葉であったということです。「光あれ」という神の声が聞こえて、そこに光が生まれました。神の声が響いたから、天地が姿を現したし、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」という神の言葉が先にあって、だから人間もまたこの地上に生きるものとなったのです。そしてイスラエルがエジプトから導き出されたときにも、この小さな民を支え続けたのは、「あなたの神は、わたしなんだよ」という神の声であったのです。

■けれどもここでは、また新しく神の声が聞こえる。「大きな声が神殿から出て、……『行って、七つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注ぎなさい』」。神が、その言葉をもって造られた世界を、今度はまたご自身の言葉でもって滅ぼさなければならない。どうして、そういうことになってしまうのでしょうか。少なくともこの第16章のうち、どこをどうひっくり返しても、神の恵みとか神の愛を感じさせる言葉を見出すことは難しいようです。こういう言葉が延々と続くから、黙示録だけはどうしてもなじめない、という方もあるかもしれませんし、将来いつか世界の終わりには、こんな恐ろしいことが起こるのかと、怯えに怯えた人たちがいなかったわけでもありません。ことに、16節に出てくるハルマゲドンというような言葉をとらえて、世界の終わりは近いとか、千九百何十何年には最終戦争が始まるとか言って、奇妙な宗教運動を起こした人もいなかったわけではありません。しかしもう少し冷静に聖書を読む人がただちに気づくことは、たとえばこの第16章に描かれる七つの災いの背後にあるのは、まさしくあの出エジプトの出来事であるということです。

黙示録と出エジプト記との関わりについては、これまでも何度か触れてきました。たとえば第一の災いの悪性のはれ物というのも、第二、第三の災いにおいて、水という水がすべて血に変わったというのも、出エジプトに際して起こったさまざまな災いとまったく同じではありませんが、深い関わりがあるということは、すぐに分かります。出エジプト、イスラエルがエジプトの奴隷の家より導き出されたときには、十の災いが神の手によってもたらされました。それは聖書の中でも最も強烈な印象を残す物語であるに違いありません。

なぜそんな災いが起こったかというと、イスラエルの指導者モーセが、われわれをエジプトから出させてほしい、わたしたちは主のものだから、荒れ野に行って主に礼拝をささげなければなりませんから、と言うのですが、もちろんエジプトの王ファラオがそんな言葉に耳を貸すわけがありません。そこで、次から次へと、目を背けたくなるような災いが起こりました。血の災い。蛙の災い。ぶよの災い。あぶの災い。疫病、はれ物、雹の災いと、この10の災いを暗唱しておられる方はなかなかいないだろうと思いますが、私が小さい頃、小学校2年生の頃ですが、生まれて初めて聖書通読ということをさせられて、この聖書の物語を読んだときに、夜も眠れないほどの衝撃を受けました。

たとえば12節以下に、蛙のような汚れた霊が世界中の王を従えるという話がありました。出エジプトにおいては、その蛙の役割が微妙に違っていて、エジプト全土に蛙があふれかえり、各家庭の台所の鍋釜の中まで、ファラオの宮殿の寝室の、その布団の中にまで蛙が上がり込むようになったというのです。当時まだ7歳の公平くんが、夜眠れなくなったことを同情的に理解していただければ幸いです。ついでに、よく聖書を読むと、その蛙の災いを見たエジプトの魔術師たちが、どういうわけか対抗心を燃やして、「何を、そのくらい、俺たちだって」と言って、さらにたくさんの蛙がエジプト中にあふれかえったと言います。それはちょっと、頭が悪いんじゃないかと思いますが……。それでファラオがモーセに懇願して、この蛙を何とかしてくれ、何でもするから、と言ったので、モーセが主に祈ると、たちまち蛙は死に絶え、国中に蛙の死骸の悪臭が満ちたと言います。けれども、皆さんもご存じの話かもしれませんが、それでもファラオは心を頑なにして、イスラエルを去らせようとはしなかったというのです。

■私が子どものころ、この出エジプトの物語を読んで、どうしても理解できなかったことがあります。次から次へとエジプトを災いが襲い、それでもファラオはその頑なな心を変えようとしない。いや、さっさと悔い改めた方が絶対に幸せになれるって分かりきっているのに、どうしてそうしないんだろう……。しかしそれを言うなら、それなら自分はどうなのかと、改めて問うてみるべきでしょう。

最後の10番目の災いにおいては、国中の初子、つまり最初の子どもが殺されるということが起こります。それはもう人間も家畜も差別なく、ファラオの長男もまた主に撃たれて死んだというのです。それでもファラオは、頑なにイスラエルを去らせようとはしませんでした。なぜそこまで頑固に、神に敵対しようとするのだろうか。不思議としか言いようがありませんが、それはまさしく、黙示録の第16章8節以下が預言している通りであったのです。

第四の天使が、その鉢の中身を太陽に注ぐと、太陽は人間を火で焼くことを許された。人間は、激しい熱で焼かれ、この災いを支配する権威を持つ神の名を冒瀆した。そして、悔い改めて神の栄光をたたえることをしなかった。
第五の天使が、その鉢の中身を獣の王座に注ぐと、獣が支配する国は闇に覆われた。人々は苦しみもだえて自分の舌をかみ、苦痛とはれ物のゆえに天の神を冒瀆し、その行いを悔い改めようとはしなかった(8~11節)。

この出エジプト記の物語を読んでいると、いやでも覚える言葉があります。「このことによって、わたしが主であることをあなたがたは知るようになる」と、繰り返し主が言われるのです。あそこで主がもたらされた災いのひとつひとつもまた、「わたしがあなたの神なのだ」という言葉を、裏付けるものでしかなかったのです。しかもこのヨハネの黙示録第16章は、それほどの災いを経験してもなお、神が神であることを認めようとしない人間の頑なさを伝えます。

特に私が深い心の痛みを覚えて読まなければならなかったのは、10節の「舌をかみ」という表現です。これは明らかに自殺の具体的な表現でしょう。しかしまたある人はこういうことを言っています。舌というのは、本当は神を賛美するために与えられたものだ。たとえば十戒を唱えて、「わたしがあなたの神だ」という神の言葉に答えて、「そうです、あなた以外にわたしの神はおりません」と申し上げる、そのために与えられているのがわれわれの舌であるに違いない。けれどもその舌を、ここで人は嚙み切る。神を賛美するなんて、それだけは死んでもしたくない。そのようにして滅びていく人間の姿が描かれているのです。

■ここに、ハルマゲドンという言葉が出てきます。この謎めいたカタカナについて何らかの説明をした方がよいか、それとも大した意味はないのだから無視した方がよいか迷ったのですけれども、こういう言葉を説教で素通りすると、必ずあとで「どうしてハルマゲドンについてひと言も触れなかったか」と言われるだろうと思います。しかし元来は、そんな大した意味でもないので、もし気になるなら簡単な聖書事典のようなもので調べてみればよいと思います。私の手元にある事典では、もともとは「メギドの山」という意味だと書いてあります。「ハル」というのが山という意味で、「ハル・マゲドン」で、「メギドの山」。メギドというのは古戦場として知られていると、その事典には書いてありました。戦いの場所であります。ここでも、神に逆らう汚れた霊どもが、世界中から王たちを集めてきて、メギドの山にたてこもって、神に対する戦いの準備をしているというのです。

思えば、神はエジプトの王ファラオの頑なな心に立ち向かうために、その獣の支配からご自分の民を解き放つために、たいへん激しい戦いを戦わなければなりませんでした。そのために神はあらゆる手立てを尽くされ、それが10の災いという形で現れたのです。「わたしは主、あなたの神」。そのことを示すための戦いであります。しかし、旧約聖書が伝える神の戦いは、エジプトだけが相手ではありません。エジプトからの脱出を果たしたイスラエルの民は、しかしその後40年間、荒れ野を旅することになります。そこでも神が戦い続けなければならなかったのは、イスラエルの不信仰に対してでありました。そのような神の戦いの中で、十戒と呼ばれる言葉も与えられたのです。「わたしはあなたの神だ。あなたをエジプトの奴隷の家から導き出した、あなたの神は、わたしなのだ」。

そのような神の戦いの姿は、黙示録を書いたヨハネにとっても、決して遠い世界の話ではなかっただろうと思います。自分の目の前で繰り広げられている戦いだということを、痛いほどに理解したと思います。ローマ帝国の支配がある。その中で、自分たちの信仰が圧迫され、信仰の仲間たちが命を落とすというようなことまで起こり始めている。そのような力を好き放題に振り回しているのは、獣である。13節の表現を繰り返すならば、「竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た」。けれどもそこで、神がその獣の力と、正面切って戦っていてくださる。「わたしは主、あなたの神。あなたの神は、わたしなんだ」。そこに望みが生まれます。

しかもそこで、私どもが冷静に見つめていなければならないことがあると思います。それは、前回第15章を説教したときにも申し上げたことですが、たとえばこの第16章や、第17章、第18章が預言しているような出来事は、これがことローマ帝国の獣の支配について語られているのだと考えるならば、文字通りには起こらなかったということです。その意味では、ヨハネが語らせられた黙示録の預言は当たらなかったということです。むしろ、獣とまで呼ばれたローマ帝国は、黙示録が書かれた200年後にはすっかりキリスト教会の信仰を受け入れるようになってしまいました。ローマ皇帝も皆、キリストの支配の前にひざをかがめるようになりました。神の〈言葉〉が勝ったのです。

しかも皆さんはおそらく、だからと言ってヨハネの黙示録には価値がなくなったとはお考えにならないと思います。むしろ、私のような者がつくづく思わされることは、ヨハネの黙示録ほど現代的な価値を持つ聖書の言葉もないのではないか、ということです。かつてのエジプトもまた、神の民イスラエルに対して、獣の支配をほしいままにした。神を神としない人間は、人間でありながら人間であることをやめてしまい、獣と化してしまうのです。そして、そのように獣と化した人間は、人間を人間として扱うこともできなくなるのです。人間の歴史が繰り返してきたことであり、今も私どもの周りで起こり続けていることです。

■だがしかし、黙示録は、まさにそこで神の勝利を告げます。15節に、ほとんど唐突に記される祝福の言葉を、ヨハネは心を込めて書いたと思います。

――見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。――

この15節だけは、明らかに主イエス・キリストの言葉です。「見よ、わたしは来る」。ただわたしを待つがよい。わたしは主、あなたの神だ。それに続けて、「裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである」と言われるのは、明らかに第3章18節を思い起こさせます。かつて私どもがこの場所で印象深く聞いた、ラオディキアの教会に宛てて書かれた手紙の中に、こういう言葉がありました。

そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。……見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう(第3章18、20節)。

今、私どものためにも、このキリストのみ声が聞こえます。「わたしだよ。わたしは戸口に立って、叩き続けているよ」。「わたしは主、あなたの神」。今、その事実にふさわしい装いをもって、主のみ前に立ちたいと願います。お祈りをいたします。

 

主なる御神、あなたこそ、わたしの神、私どもの救い主です。今はもう、自分の舌を噛み切るようなこともせず、「あなたこそ、わたしの神」と、その栄光をたたえる者として立つことができますように。いつ終わるか知れない戦いを、あなたに強いてしまっているこの世界であることを、悲しく思います。しかし、最後には必ずあなたが勝利してくださることを、その日には、私どもの主がもう一度来てくださることを、望みをもって待ちます。目を覚まし、ふさわしい衣を身に着けて、ただあなたの御子を待つ者とさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン