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なぜ神は怒るのか

2021年9月5日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第15章1-8節

主日礼拝

わたしはまた、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである(1節)。

■ヨハネの黙示録はこの第15章から、「最後の七つの災い」の悲惨な姿を描き出していきます。新共同訳の、第16章、第17章、第18章の最初にある小見出しを追っていくだけでも、何だかおどろおどろしい話が続きそうだ、ということが分かります。それらの話をあらかじめ総括するように、ヨハネはこう書くのです。「これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである」。

これは特別な重みを持つ発言だと思います。「極みに達する」と訳されている言葉は、もう少し単純に訳すと、「完成される」という意味です。神の怒りは、必ず完成される。「目標・ゴールに到達する」と言い換えることもできます。

私どもの生きるこの世界は、神のものです。世界がどんなに混乱しているように見えても、この世界について最終決定権を持っておられるのは神である。最後の最後を、すべて握っておられるのは、神の御子イエスなのです。これは、たいへん慰めに満ちた話だろうと思います。けれども問題は、その世界のゴールに何があるかというと、ここでは「神の怒りがその最終到達点に達するのだ」と言われるのです。

6節以下には、改めて七つの金の鉢を持った七人の天使が現れます。「神の怒りが盛られた七つの金の鉢」と言います。この七という数字は、何度もここでお話ししている通り、完全数と呼ばれるものです。まさに完全数なのであって、神の怒りは必ず完成する。ゴールに達する前に、途中で頓挫してしまうようなことはない、という話です。

今朝は、「なぜ神は怒るのか」という説教の題をつけてみました。先週一週間、その説教の題が書かれている教会の看板の前を毎日通りながら、「中村先生には悪いことをしちゃったかもな」と思いました。私の説教の題の横に、今日の夕礼拝の中村先生の説教題も貼り出してあって、「神さまは今から何をなさるのか」。これだけだったら、非常に魅力的な、道行く人たちにもアピールする説教題であったに違いない。ところがその隣に「なぜ神は怒るのか」などと言われると、「今から神さまに、何を怒られるのかな……」。正直に申しまして、神が怒りの神であるということを、私どもはあまり真正面から認めたがらないところがあると思います。

■「なぜ神は怒るのか」。その理由はしかし、ヨハネの黙示録の文脈から言えば非常にはっきりしていて、獣が支配しているからです。たとえば第13章に、この世界を牛耳っている二匹の獣の姿が描かれました。その獣というのは、黙示録を書いたヨハネにとっては、ローマ帝国以外の何ものでもありませんでした。その力に人びとは驚いて、皆がこの獣を拝むようになった。のみならず、その獣の像を作り、これを拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせたとまで書いてあります。しかも、その第13章を私が説教したときにもお話ししたことですが、このような獣の支配というのは、人類の歴史の中で、私どもの国においても、繰り返しさまざまな姿をとって現れてきたと言わなければなりません。

神の怒りというのは、その獣の支配に対する怒りです。獣の支配に対して何ら怒りを表すこともせず、見て見ぬふりをすることが神の愛だとするならば、われわれにとってこんな悲惨なことはないだろうと思います。けれども感謝すべきことに、獣の支配に対する神の怒りは必ず完成する。途中で頓挫することはありません。その意味では、神の怒りと、神の愛とは、本来まったくひとつのものです。神の愛も大事だけども、神の怒りということも聖書に書いてあるし……。たとえば私のような者がここで説教をするときに、神の愛と神の怒りと、その折衷案のような教えを説く、などということはまったく考えられません。そんなことは、問題にもならないのです。

この神の怒りと、そしてまた神の愛の完成を賛美して、ひとつの歌が歌われます。それが3節以下で「神の僕モーセの歌と小羊の歌」と呼ばれています。ここに出てくるモーセとは、旧約聖書の出エジプトという出来事において、指導的な立場に立たされた人です。神の民イスラエルは、実に430年間エジプトの奴隷であり続けた。けれどもこれを神がエジプトから脱出させてくださり、最後にはファラオの率いるエジプト軍に海の岸辺まで追い詰められながら、ところが海がふたつに割れて、その間の乾いた地面を歩いて渡ってエジプト軍の追撃を振り切ったといいます。エジプト軍は皆海の中に飲まれてしまったというのですが、そのときにイスラエルが歌った歌を、ここでヨハネは念頭に置いていると言われます。

「全能者である神、主よ、
あなたの業は偉大で、驚くべきもの。
諸国の民の王よ、
あなたの道は正しく、また、真実なもの」。(3節)

もしも神があのとき、エジプトの獣の支配に対して何ら怒りを表すことがなかったとしたら、イスラエルは永遠にエジプトの奴隷であり続けただろうと思います。ついでに申しますと、出エジプトと呼ばれる出来事に際して、神はエジプトに対して10の災いをもたらされた。ナイル川の水が血になったり、太陽が隠れて真っ暗闇になったり、あるいは大量の蛙が現れたり。それがまた黙示録の第16章に出てくる七つの災いにもたいへんよく似ています。それはいずれも神の怒りの表現であり、それがまた神の民イスラエルの救いの物語にもなっているのです。

「主よ、だれがあなたの名を畏れず、
たたえずにおられましょうか。
聖なる方は、あなただけ。
すべての国民が、来て、
あなたの前にひれ伏すでしょう。
あなたの正しい裁きが、
明らかになったからです」。 (4節)

■ところで、ある人がこういうことを言っています。「神は、ヨハネにこのような幻を見せながら、その通りのことが実際には起こらないことを望んでおられたに違いない」。これはなかなか大胆な発言だと思います。そしてそれは、黙示録を理解する上で、非常に大切なことだと思うのです。

旧約聖書に出てくる預言者たちも、しばしば神の怒りについて語りました。「神は怒っておられる。いつまでもやりたい放題ができると思うな」。けれどもそこで大切なことは、旧約の預言者たちもまた、自分の語らせられた預言が、その通りにならなかったという経験をしたということです。

そういうことが、おそらくいちばん生き生きと伝えられているのは、預言者ヨナの物語だと思います。大きな魚の腹の中で、三日三晩を過ごしたというヨナの物語に、物心つく前から親しんだという方も多いと思います。しかし問題は、なぜヨナは魚に食べられるようなことになったのかということです。

預言者ヨナの生きた時代、イスラエルにとって深刻な脅威であり続けたのは、アッシリア帝国の存在でした。私の憶測ですが、ヨナ自身が最初から、アッシリアの没落を願っていたのではないかと思います。ところがそのヨナに、神がお命じになる。「アッシリアの都ニネベに行って、神であるわたしの怒りを告げよ。いつまでもあなたがたの悪をわたしが見逃すと思うな」。けれどもヨナは、怖くなって逃げたのです。その逃げた先で、それはいろいろありまして、嵐の海の中に放り込まれ、しかし溺れる前に大きな魚に飲み込まれて、考えてみると到底考えられないことですが、丸三日間魚の胃袋の中で過ごしたあと、もう一度吐き出されて、それで遂に腹をくくったのでしょう、アッシリアの都ニネベに行きました。「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」と、預言をしたのです。それはもう、勇気を振り絞って、語るべきことを語っただろうと思います。ところがヨナにとって思いがけなかったことは、そのヨナの預言を聞いて、ニネベの人たちは見事に悔い改めた。アッシリアの王が先頭に立って、民にお触れを出したというのです。「おのおの悪の道を離れよ。そうすれば神が思い直されて、その激しい怒りを静めてくださるかもしれない」。そして実際、神はニネベを滅ぼすのをおやめになったと言うのです。

けれども、まったく納得がいかなかったのはヨナです。命を賭けて語った預言が嘘になってしまいました。それで、怒り狂って神に訴えました。主よ、こうなることは最初から分かっていましたよ。だからわたしは逃げたんです。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。でも、じゃあ、なんでわたしにあんな嘘の預言をさせたんですか。そんなことをするんだったら、今すぐにわたしを殺してください。わたしが預言をしたばっかりに、かえってアッシリアが助かってしまうなんて! 神さま、どうしてアッシリアを滅ぼしてくださらなかったんですか?……ところがそこで主はヨナに言われました。「お前は怒るが、その怒りは、正しいのか」。

これ以上、ヨナの物語を延々と続けるわけにもいきませんので、お読みになったことのない方は、今日のうちにでもお読みになることをお勧めします。ヨナ書の最後の言葉は、このような神の言葉です。「どうしてわたしは、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、12万以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」。

■神の怒りが完成する。その神の怒りの完成というのは、このような深みを持つのだということを、私どもはよく知っておかなければならないと思うのです。今私どもが黙示録を読むときにも大切なことは、まさしくかの学者が言ったように、「神は、ヨハネにこのような幻を見せながら、実際にはその通りにならないことを望んでおられたに違いない」ということです。神の怒りは、神ならではの仕方で、必ず完成するのです。けれどもその神の怒りの完成ということを、自分のした預言が嘘になってしまったと言って、地団太を踏んだヨナと同じような次元で考えてみても、それはまったくの的外れになるだろうと思うのです。神の怒りの完成というのは、このままでは結局は人間が滅びてしまう、その滅びの力に対して、神が立ち向かってくださるということでしかない。その意味で、神の怒りの完成というのは、もう一度申します、神の愛の完成と、まったくひとつの事柄なのです。

ヨハネの黙示録が語る預言もまた、ヨナの預言に似て、文字通りの意味では当たりませんでした。黙示録の語る二匹の獣とか、あるいは第17章の大淫婦とか第18章のバビロンの滅亡とか、いずれも常識的に理解すれば、これはローマ帝国のことに他ならない。しかしそれなら、黙示録がここで告げている通りに、ローマ帝国は滅ぼされたのだろうか。確かに、ローマ帝国の衰退の歴史というのは、痛ましいほどのこともありましたが、黙示録が預言した通りのことは、ことローマ帝国に関して言えば、ひとつも起こらなかったのであります。むしろ、黙示録が書かれてから200年以上たったのちに、ローマ帝国は遂にキリスト教会を弾圧することをやめ、逆にこれを受け入れてしまいました。ローマ皇帝は皆キリスト者として、主の前に膝をかがめるようになったというのが、歴史的な事実であります。それもまた、ヨナの経験と深く重なるかもしれません。もしかしたら、ヨハネは既に地上の生涯を終え、天国からイエスさまと一緒に、そのようなローマ帝国の歴史を眺めていたかもしれません。そのときに、ヨハネがまるでヨナのように、「神さま、何ですか! 俺の預言が嘘になっちゃったじゃないですか!」と文句を言ったかどうか。いやむしろ、ヨハネはまさにそこでこそ、この時に聞かせていただいた「神の僕モーセの歌と小羊の歌」を、心から歌うことができたのではないでしょうか。神の勝利が自分の考えもしなかった方法で完成したことを、共に喜んだのではないでしょうか。

「全能者である神、主よ、
あなたの業は偉大で、/驚くべきもの。
諸国の民の王よ、
あなたの道は正しく、また、真実なもの。
主よ、だれがあなたの名を畏れず、
たたえずにおられましょうか。
聖なる方は、あなただけ。
すべての国民が、来て、
あなたの前にひれ伏すでしょう。
あなたの正しい裁きが、
明らかになったからです」。

■「あなたの正しい裁きが」。神の正しさと言ってもいいし、神の怒りと言ってもよい。それが明らかになったことをたたえる歌が、ここではただ「モーセの歌」とは呼ばれず、「モーセの歌と小羊の歌」と呼ばれています。獣の支配に対する神の怒りを明らかにするために、神は最初、僕モーセをお立てになったし、しかし最後には、小羊イエスをお遣わしになりました。

小羊というのは、考えてみればたいへん不思議な表現です。皆さんもお気づきかもしれませんが、黙示録はイエス・キリストのことを「小羊」と呼びます。「キリスト」という呼び名は、実は黙示録ではあまり使われません。イエスという名を持つあのお方にいちばんふさわしい称号は〈小羊〉であると、黙示録を書いたヨハネは考えていたようです。その称号の不思議さに、私は改めて心を打たれるような思いがいたします。獣の支配に対する神の激しい怒りが、その極みに達した、遂に完成した、もうこれ以上我慢ならん、というときに神が私どもに見せてくださったのは、まるで小羊のような御子の姿であったというのです。

小羊というのは、弱さの象徴であるに違いありません。そう言えば主イエスご自身があるところで、弟子たちを伝道者としてお遣わしになるというときに、「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」とはっきり言われたのであります。ここでは、もうこれ以上何の説明も要らないと思います。このイエスというお方ご自身が、屠られた小羊のごとく、十字架につけられ、しかもそれを、神が死人の中から甦らせてくださったとき、それは獣の支配に対して神がどんなに激しい怒りをもって立ち向かってくださったか、その確かさが、明らかになったのであります。獣が支配することを、罪が私どもを支配することを、死が最後の支配者であることを、神は遂にお許しになりませんでした。そのときに神がお遣わしになったのが、さらに強大なライオンのような姿ではなくて、小羊であったということは、それこそ神の確かなご意志を表すものだと思います。

ここにある「モーセの歌」というのは、最初に申しました通り、イスラエルがエジプトを出たとき、最後はふたつに割れた海の間を歩いて渡り、しかもこれを追撃しようとしたエジプト軍は皆、海の中に飲まれてしまったというときに歌われたものであります。「主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた」(出エジプト記第15章1節)というのです。モーセの同労者アロンの姉、ミリアムは小太鼓を叩き、他の女たちも小太鼓を持って踊りながら彼女の後に続いたという光景まで記憶しておられる方もあるだろうと思います。大きな驚きと、また恐れを抱きながら、イスラエルは歌を歌っただろうと思います。けれども、海がふたつに割れたことよりもはるかに大きな奇跡は、小羊イエスが十字架につけられ、けれども墓の中を通り抜けて、私どもの前に姿を現してくださったことであります。そこに、私どもの歌が生まれるのです。「小羊の歌」が与えられるのです。

神を無視する獣の支配は、今も続きます。主が再び来られる日まで、獣の姿が見えなくなることはないのでしょう。黙示録が語る以上に恐ろしい神の裁きを見なければならないかもしれません。だがしかし、私どもに与えられているのは、小羊の歌です。神が私どもに、新しい歌を与えてくださるのです。そこに立ち続けたいと願います。お祈りをいたします。

小羊イエスを私どものために遣わしてくださった父なる御神、あなたの聖なる怒りの確かさを、今感謝をもって受け止める者とさせてください。私どもの肉の目には、獣の支配しか見えません。確かなまなざしをもって、小羊イエスのご支配を見つめ、これをたたえる歌を、心いっぱいに歌い続けることができますように。主のみ名によって祈ります。アーメン