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無駄ではない人生

2021年8月22日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第14章14-20節

主日礼拝

■予告を変更して、今日はヨハネの黙示録第14章の13節以下を読みました。先週の週報では、新共同訳の区分に従って14節から20節までを読むと予告していたのですが、説教の準備をしながら、14節以下を正しく理解するためには、やはりどうしても13節から読む必要があるということに気づかされました。

おそらく皆さんの中にも、この13節を愛誦しておられる方があると思います。かつて25年前に、この教会の牧師であった加藤常昭先生がヨハネの黙示録を最初から最後まで、約1年かけて説教なさいました。それが、加藤先生の牧師生活における最後の説教になりました。その加藤先生の黙示録の説教を25年前に聴き続けた人が、しばらく前に私に言われたことがありました。加藤先生の黙示録の説教は、難しいところも多かったけれども、とにかく今でもしっかりと心に刻まれていることは、「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」。この第14章13節こそが黙示録の中心に立つみ言葉である。それだけはよく理解できた。その通りだと私も思います。

「書き記せ」と、天からの声がヨハネの耳に聞こえたと言うのです。「書き記せ」。この言葉を書き記すために、ヨハネはこの黙示録を書くことを命じられたと言うこともできるだろうと思います。それは何かというと、「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」。「主に結ばれて死ぬ人よ、あなたは本当に幸いなのだ」と、天からの声が聞こえたのです。

■黙示録を読む際に、ひとつの鍵となるのは七という数字であるということに、誰もが気づくと思います。私どもがこれまで学んできたように、最初に七つの教会への手紙が記され、また小羊が七つの封印で閉じられている巻物を開く。あるいは七人の天使が七つのラッパを吹く。そのようにして、神の御心が示されていきます。そこでもうひとつ、目立たないけれども忘れてはならないことは、黙示録全22章の中に、七つの祝福がちりばめられているということです。この第14章13節にも出てくる「幸いなるかな」という同じ形式の祝福の言葉が、第1章の初めから、第22章の最後まで、7回出てきます。その箇所をひとつひとつ紹介するいとまはありませんが、興味のある方はそれを調べ直し、味わい直し、自然と黙示録を通読してしまった、ということがあってもよいと思います。

ついでに申しますと、この黙示録の七つの祝福の言葉は、しばしば主イエスがマタイによる福音書第5章においてお語りになった、〈山上の説教〉の冒頭の八つの祝福と対照されることがあります。「心の貧しい人々は、幸いである」。「悲しんでいる者よ、あなたは幸いだ」。「義に飢え渇く者よ、必ずあなたは満たされる」。ここでは、「主に結ばれて死ぬ人は幸いである」と言われます。

かつてこの場所で、マタイによる福音書を通して説教したことがありました。そこでもお話したことですが、「心の貧しい人は幸いである」と言っても、貧しさそのものに価値があるわけではありません。悲しみで倒れそうになっている人に向かって、「だいじょうぶだよ、キリスト教では悲しみは祝福なんだよ」なんてことを言ったら、二度と口をきいてもらえないかもしれません。この祝福を告げることができるのは、主イエスおひとりでしかないのであって、悲しむ人が祝福されるのも、その悲しむ人の傍らに主が立っていてくださるからでしかありません。

「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」。死ぬことなんか全然怖くないとか、神さまがわれわれの死を喜ぶという話ではないのです。けれども、「主に結ばれて死ぬ人は」。死によっても、私どもが主に結ばれた、その結びつきが断たれることはありません。

特に、このヨハネの黙示録の文脈において重要なことは、これに先立つ第13章において、二匹の獣の支配が非常に生々しく描かれていたことです。大言と冒瀆の言葉を吐く獣が現れ、この獣および獣の像を拝まない者があれば、その人はもはやこの世界で生きることもできない。それは特に黙示録が書かれた時代にあって、非常に現実的な意味を持ちました。けれども、そこで言われるのです。「幸いなるかな、主に結ばれて死ぬ人は」。その「主に結ばれて死ぬ」という出来事の中には当然、殉教のこともヨハネの視野に入っていたのであります。「幸いなるかな、主に結ばれて死ぬ人は」。この小さな言葉の中には、主イエスの教会に対する愛があふれております。「わたしに結ばれているならば、必ずあなたを幸せにしてみせるから……」。獣が好き放題に跋扈して、殉教者さえ出ていたところで、けれどもヨハネは、天から聞こえる主の愛に触れたのです。あなたは、わたしのものだ。詩編第17篇の「瞳のように、わたしを守ってください」という言葉をふと思い起こしますが――神がこの教会を、どんなに大切に守り、慈しんでくださるか。私どもは今、主に結ばれて生きているし、死ぬときも、主に結ばれて死ぬ。私どもは、神ご自身の宝の民なのです。

■そのことが、13節の後半でもこのように言い表されています。

“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである」。

「行いが報われる」とありますが、もちろん、神が報いてくださるのです。そのことと、「彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る」ということは、ひとつのことでしょう。なぜかいうと、苦労が報われないことくらい、私どもを疲れさせることはないからです。けれどもここで、主に結ばれて死ぬ人に対しては、神がその労苦をねぎらってくださる。労苦に報いてくださる。たいへんだったろうけれども、あなたは本当に、よくやってくれたね。わたしは、うれしいよ。そのような神のねぎらいを、神の霊が確証してくださったと言うのです。

ここで言われる「行い」とか「労苦」とか、それが具体的にはどういう中身のものなのか、それがどう報われるのか、そこが知りたいと思われるかもしれませんが、しかし私は、それほど難しく考える必要はないと思います。主に結ばれて生きる私どもの生活すべてが対象になるだろうと思います。私どもの生活の中の特別な善行とか立派な行いだけが取り上げられるというのではなくて、私どもの全生活を、神が喜んで受け止めてくださる。なぜならば、私どもは、主に結ばれて生きている、神の宝の民だからです。

このようなことは、私どもがいざ死を迎えるというときに、初めて問題になるようなことではないだろうと思います。既に日常的に知っていることだと思うのです。自分の行いが報われるか、報われないか、もっと言えば、自分のしていることを誰がきちんと受け止めてくれているか、そのことに私どもは神経質なくらいこだわるのです。こんなに私が苦労しているのに、誰も理解してくれないという状況に、私どもはなかなか耐えることができません。けれどもまた、たったひとりでもいい、本当に自分のことを理解してくれる人が現れて、「よくやったね」と声をかけてくれる人がいれば、それだけで何だか救われたような、少し大げさかもしれませんが、「自分も生きていていいんだ」というような経験を、誰もが知っていると思うのです。しかしまたそのことが、いちばん切実に問われるのが、もしかしたら私どもが死を迎える時なのかもしれません。自分の一生を振り返ってみて、「ろくでもない人生だったな。こんなに苦労したのに、全然報われなかったな」と思うのか、それともそうではなくて、「そんなことはないよ。あなたの生きてきたこと、してきたことは、全部わたしが受け止めているよ」と、神の声を聴くことができるのか。そこで急所となるのが、「わたしは主に結ばれている」ということなのです。もしも、主に結ばれていなかったら、いったい誰が私の労苦に報いてくれるのでしょうか。

■そこでひとつ、注意すべきことがあります。14節以下に記されていることに従えば、「わたしは主に結ばれている」ということがいちばん切実に問われるのは、私どもが死ぬ時というよりも、主が再び来てくださる再臨の時、すなわち世の終わりの時だということです。14節に出てくる「人の子のような方がその雲の上に座っており、頭には金の冠をかぶり、手には鋭い鎌を持っておられた」というのは明らかに、再臨の主イエスのお姿です。何のために鎌を持っておられるかというと、15節。

すると、別の天使が神殿から出て来て、雲の上に座っておられる方に向かって大声で叫んだ。「鎌を入れて、刈り取ってください。刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っています」(15節)。

最後の刈り入れであります。既に13節で語られていた、「その行いが報われる」ということが、ここでは豊かに実った穀物の刈り入れとして表現されています。

この最後の刈り入れがいつ行われるのか、つまり言い換えれば、終末がいつ来るのかということは、私どもには何も知らされておりません。終末がいつ来るのか、それが何年の何月なのか、多くの人が、しかもそれを聖書を頼りに確定しようと試みましたが、すべては嘘であったことが明らかになりました。そのことについて、いつも私が半分愉快な思いで思い出すのは、福音書の中で、主イエスもまた、「終末がいつ来るのか、わたしも知らない」とおっしゃったことがあるということです。マタイによる福音書第24章36節に、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」と書いてあります。最後の刈り入れをするために、大きな鎌を持っておられる主イエスが、しかしその鎌を実際に使うのがいつのことか、自分も知らないと言われる。それだけに主イエスは、最後の刈り入れの時を今か今かと楽しみにしておられたと思います。しかしここでは遂に、神から遣わされた天使が人の子イエスに告げるのです。「鎌を入れて、刈り取ってください。刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っています」。主がその天使の声をお聞きになったとき、どんなに大きな喜びにあふれたことかと思うのです。やった、収穫の時だ! そのとき、主に結ばれて生きる私どもの歩みが、丸ごと刈り取られる。心からの喜びをもって、主は刈り取ってくださるのです。

16節に、ひとつ興味深い表現があります。「そこで、雲の上に座っておられる方が、地に鎌を投げると、地上では刈り入れが行われた」とありますが、最後の「地上では刈り入れが行われた」という翻訳は少し気を回しすぎで、直訳すると「地が刈り取られた」という表現です。「根こそぎ刈り取る」というよりももっと深い、地そのものが、巨大な鎌によってごっそり刈り取られて主イエスの手に取られてしまう。何ひとつ残らない。私どもの生も死も、あらゆる行いも、そしてあらゆる労苦も、全部主が手に取ってくださるということです。その最後の刈り入れを、主が楽しみにしていてくださるならば、今既に私どもも、無限の勇気を与えられて、日々の労苦にも耐えることができるだろうと思います。

■しかし、これに17節以下が続きます。別の天使が現れて、今度はぶどうが刈り取られ、最後の20節にはこんな表現まで出てきます。「搾り桶は、都の外で踏まれた。すると、血が搾り桶から流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンにわたって広がった」。1600スタディオンというのはだいたい300キロメートル、たとえば東京から名古屋くらいまでの距離ですから、ほとんど国中が血の海になるという、たいへんむごたらしい情景が描かれています。

これがいったい何を意味するのか、ひとつの常識的な解釈は、14節以下の主イエスによる決定的な救いのわざに対して、同時に滅びをつかさどる天使が現れて、滅びるべきものが完全に滅ぼされる、そこにたいへんな量の血が流される、というものです。それはそうかな、とも思いますけれども、ある学者はたいへん興味深い解釈を示します。皆さんもそうお感じになるかもしれませんけれども、ぶどうというのは、旧約聖書においても新約聖書においても、神の民イスラエル、またそのもたらす実りの象徴です。主イエスもまた、「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」、「もしあなたがわたしに結ばれているならば、あなたは必ず実を結ぶ」と約束してくださいました。そういう解釈に立ってここを理解すると、そのぶどうの実りを搾ったら、これまたたいへん豊かなぶどうの汁が出てきたという話になりそうですが、そう単純にはいかないので、19節では、ぶどうの実が「神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れた」と言われますし、20節では、ぶどうの汁ではなくて、はっきりと「血が搾り桶から流れ出て」、国中が血の海に沈んだ、と書いてあります。そうするとやはり、その学者の言う、私どもの救いがぶどうの豊かな実りにたとえられているという主張には無理があるということになるかもしれません。やはりここに記されていることは、神の恐ろしい裁きによって滅ぼされる者どもの悲惨な結末だということになるかもしれません。

けれども、その学者が注目するのは、20節の「搾り桶は、都の外で踏まれた」という記述です。なぜ都の外なのでしょうか。私どもがよく教えられていることは、主イエスもまた、都の外で十字架につけられたということです。「みやこの外なる丘の上に」、主を十字架へと引っ張っていったのは誰か、と歌う讃美歌261番を思い起こす方もあるかもしれません。ここでは、その主のあとに続くように、主に結ばれた民が殉教の死を遂げる。その殉教の血の実りを、主が収穫してくださることを、ここで改めて語っているのではないかと、その学者は言うのです。私は、その通りだと思いました。むしろそう読んだ方が、13節からの文脈にもよく合うと思いました。

既に13節では、主に結ばれて死ぬ者の祝福が語られておりました。その労苦が報われると言うのです。しかし、獣の支配の中にあって、それでも主に結ばれて生きる、また死ぬということは、決してたやすいことではありません。もちろん私どもの全員が殉教するわけではないでしょうが、主に結ばれて生きるというときに、必ず生じる労苦を避けるわけにはいきません。けれども、殉教者の血に象徴されるような私どもの労苦が、ぶどうの豊かな実りにたとえられているとしたら、どうでしょうか。その殉教者の血を、尊い収穫のように、神がしっかりと受け止めることができるとするならば、どうでしょうか。

既に主イエスご自身が、都の外で十字架につけられたのです。あらゆる殉教者に先立って、まず主イエスご自身が獣の支配の中で苦しみをお受けになったことを忘れることはできません。それはまさしく、神の怒りの裁きそのものであった。ところがその神の怒りのもとで血を流したのは、御子イエスご自身であったというのです。そのお方の復活は、私どもにとって何にもまさる慰めであるはずです。もしこのお方が復活しなかったとしたら、あなたの労苦は報われるとかなんとか言ったって、何の説得力もないではありませんか。けれども、御子を死人の中から復活させられた神は、必ず私どもの労苦を、実りに変えてくださる。そのことを信じて、もしも神が私どもに、都の外に引っ張られていった主イエスに従って行くことを求められるならば、喜んでついて行くのです。今、主に対する服従と献身の思いを、新たにさせていただきたいと願います。お祈りをいたします。

 

主に結ばれて、今ここに立つ幸いを感謝いたします。今、深い信頼と感謝をもって、主に従う者とさせてください。私どもの労苦が、必ずあなたによって報われることを、私どもの望みとし、核心とすることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン