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獣の支配に抗して

2021年8月1日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第13章1-18節

主日礼拝

■先週の礼拝説教の中で、「聖書は難しい書物ではない」という話をしました。覚えてくださっている方も多いと思います。聖書というのは、神が今、わたしのために語りかけてくださる言葉です。そうであれば、神は必ず私どもに聖書を分からせてくださいます。神が聖書を理解させてくださるのであって、われわれの方で一所懸命勉強することによって、ようやく謎が解けるわけではないのです。先週申し上げたこのことを今さら訂正するつもりはないのですが、それにしても、「いや、でも、やっぱり」という気持ちにさせられるのが、このヨハネの黙示録であり、ことにその第13章であるかもしれません。

ここには、二匹の獣の姿が描かれています。この獣たちは、自分たちの権威で活動しているのではなく、第12章において天から追い落とされた竜が、この二匹の獣を操っています。「そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである」(第12章8節)。もはや自分に勝ち目はない。だからこそサタンは、この地上で最後の悪あがきを始める。そのときに、この竜すなわち悪魔の手下になったのが、第13章に現れる二匹の獣です。

先ほど聖書朗読をお聞きになって、どうしてこんなわけの分からない話を聞かされなければならないか、と思われたかもしれませんし、逆に非常に現代的な問題をつきつけられるような、身につまされるような思いで聖書の言葉に耳を傾けておられた方もあるかもしれません。黙示録を書いたヨハネには、ひとつひとつの言葉が、痛いほどによく分かったことだろうと思います。

もちろんこの竜とか二匹の獣とかいうのは、あくまでヨハネの見た幻です。けれどもそれは、何か悪い夢を見たとかいう話ではなくて、むしろ目の前にある現実を、信仰のまなざしをもって見る。より正確に言えば、神のまなざしをもって、今自分たちが直面させられている現実を、正しく見せていただくのです。そのために、私どものためにもこの黙示録が与えられているのです。

■それにしてもヨハネの黙示録はわけが分からない、不気味な書物だという印象を与えてしまうのは、第13章の最後に出てくる666という数字だと思います。「賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい」と言われますが、さっぱり意味が分かりません。けれども、これを書いたヨハネは、わざと謎めいたことを書いて得意になっていたわけではないと思います。自分の教会の仲間たちを心から信頼して、必ず分かるはずだという前提のもとに、この数字を書いたのです。ただし、まさか自分の書いたこの数字を、二千年もあとの時代の人たちが読むことになるとは。それだけはさすがに計算に入れていなかったようです。

ここで前提となることは、古代の人は、数字というものを持ちませんでした。現代の日本語はたいへん贅沢なことに、漢数字とアラビア数字と、二種類も数字がありますが、そのどちらも使えなかったら、どういうことになるでしょうか。666なら「ろっぴゃくろくじゅうろく」とダラダラ書くしかないということになりますが、それは不便だということで、アルファベットのひとつひとつの文字に数を当てはめるという方法が発達しました。アルファが1、ベータが2、ガンマが3。最近われわれを悩ませている「デルタ株」というのは「第四の株」ということです。そのように数字を当てはめていって、英語でいうところのr、s、tはそれぞれ100、200、300という具合です。それで、誰かの名前をアルファベットで綴って、それを数字に置き換えると666になるという話です。ひとつ面白い話があって、古代の遺跡に発見された落書きの中に、「ぼくは彼女が好きだ。その数字は545」という文章があったそうです。不気味でも何でもない、ほほえましい落書きです。奥さんか恋人か、大切な人の名前をアルファベットで綴って、たとえば「Megumi」だったら、mはいくつ、eはいくつ、と足し算していくと545になる。「ぼくは545が好きだ」。他の人にはその落書きの意味が分からない。しかしふたりの間では通じるのです。

666という数字も、黙示録を最初に読んだ人たちの間では「ああ、あの人」とすぐに分かったらしい。けれども問題は、現代のわれわれには分からないということです。誰の名前が666になるのか。多くの人が、それこそ知恵を絞って、謎解きのような関心をもって、延々とこの問題に取り組みました。この666とはナポレオンのことだとか、ヒトラーの名前も666になるぞ、とか、怪しげな解釈がたくさん生まれました。けれども大切なことは、黙示録を最初に読んだ当時の人は、説明抜きで分かったのです。その「分かった」ということが、大切なのです。

ついでに申しますと、19世紀になって、頭のいい人もいるものだと思いますが、遂に「これだ」と言える答えにたどり着いた。ネロというローマ皇帝がいます。黙示録の書かれた時代とは少し隔たりがありますが、その暴虐が後世まで記憶されるような暴君です。「皇帝ネロ」という言葉を、なぜかギリシア語ではなくてヘブライ語で書くと、666になるということを突き止めた。それ以外にもいろんな状況証拠があって、とにかく、666の答えは皇帝ネロが正解なんだろうと思います。けれども、もう一度申します。大切なことは、666の謎解きではなくて、ヨハネが自分の目の前に、いったい何を見ていたか。そして、今私ども自身が、自分の目の前に何を見ているのか、ということだと思うのです。

■先ほどこの第13章をご一緒に読みまして、皆さんもさまざまな言葉が気になっただろうと思います。中でも、「これはいったい何だ」と思われたに違いないのは3節です。「この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した」。この言葉のひとつの解釈はこうです。ネロという皇帝の名前を紹介しましたが、既に黙示録が書かれるよりも数十年前に自殺しておりました。ネロについて、ひとつよく知られていることは、ローマの都に自分の手で火を放ち、これはキリスト者のせいだと宣伝して大迫害をしたということです。それほどの暴君ですから、自殺したあとも、いや、本当はネロは生きているのではないかという噂があちこちで流れたようなのです。そういう「ネロ再来説」とでも言うべきものが、黙示録の文章に反映しているのかもしれないし、だからこそネロの数字は666などという言い方も、ふつうに通じたのかもしれません。

言うまでもないことですが、ヨハネ自身がネロ再来節を信じていたわけがありません。ふつうに考えれば、この文章の意味は、ローマ皇帝が何人変わったって、帝国の支配力そのものは、何ら揺らぐことはなかったということです。それをここでは、この獣には「十本の角と七つの頭があって」、「頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていた」。その七つの頭のひとつが傷つけられて死んだと思ったのに、獣自体はピンピンしていた、と言うのです。それで人びとはこの獣を拝んで、「だれが、この獣と肩を並べることができようか。だれが、この獣と戦うことができようか」(4節)。それはそうでしょう。この獣の背後にはサタンの権威があるのですから、誰も肩を並べることができないのは当然です。しかしそこで、よく想像力を働かせていただきたいと思います。ヨハネは、遠い夢の世界の話をしているのではなくて、自分の目の前にいる、地上の支配者、権力者を指差して、「あれは獣の支配だ」と言い切っている。たいへん激しいことです。

この第一の獣を助けるように、11節以下では「もう一匹の獣が地中から上って来た」と言います。ヨハネはここでさりげなく、「この獣は、小羊の角に似た二本の角があって」と言います。小羊に似ているというのは、この獣はイエスさまにそっくりだ、という意味でしかありません。やさしそうで、愛と知恵にあふれているようで、けれどもその言葉をよく吟味してみると、「竜のようにものを言っていた」。つまり悪魔の言葉を語っている。何よりもこの第二の獣は、第一の獣を拝むようにと、人びとを惑わし、またそのことを強要したと12節には書いてあります。われわれの国が76年前まで用いていた言葉で言えば、〈現人神〉であります。その上この第二の獣は、現人神たる「獣の像」、すなわち〈御真影〉を作らせ、これを拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせたと、15節には書いてあります。

この二匹の獣に、ここまですることが神に許されているというのは驚くべきことですが、このようなことは、二千年前、黙示録が書かれた周囲でのみ特別に起こったことではなくて、人類の歴史の中で絶えず繰り返されてきたことです。しかもそのようなところで、キリストの教会は無力です。そこで神は、いったい教会に何をお求めになるのでしょうか。10節には、こんなことまで書いてあります。

捕らわれるべき者は、/捕らわれて行く。
剣で殺されるべき者は、/剣で殺される。
ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。

神は教会に、このことしかお求めになっていない。「捕らわれるべき者は、捕らわれて行く。殺されるべき者は、剣で殺される」。第一の獣、第二の獣に対抗するような力は、何ひとつ与えられない。そこに聖なる者たちの忍耐と信仰が必要なのだから、そこに立ち続けなさい。何たることかと思います。

■8月は、やはり私どもの国にとって特別な月だと思います。この国もまた、二匹の獣に蹂躙されて、ほとんど国ごと滅びるような経験をさせられたことを忘れることは、やはり許されないのではないかと思います。ここで何度も紹介しましたが、矢内原忠雄という無教会の先生の書いた、ヨハネの黙示録の聖書講義があります。ちょうど80年前、戦争が始まった年に始められた聖書講義ですが、既に日本政府から睨まれていた矢内原先生のこと、とりわけ厳しい検閲・削除の対象になったのがこの黙示録講義であったと言います。ようやく戦後になって完全な形で刊行することが許されました。第13章の説き明かしの中で、こういう文章を書いておられます。

天皇を現人神としてその神格の承認を国民に強要し、神社参拝を命令し、獣の像を拝せざる者には厳しき弾圧が加へられた。獣はまた大言と瀆言を語る口を与へられ、もろもろの族・民・国語・国をつかさどる権威を与へられた。而して多くの偽祭司、偽預言者、偽宗教家、偽学者、偽思想家、偽評論家どもは、或ひは一身の危険を恐れ、或ひは利益に迎合して、獣の為めに或ひは論じ或ひは行うて、国民をして獣を拝せしめた。而して獣の徽章を右の手或は前額に有つた者だけが、それが星の徽章(旧日本陸軍の徽章)であれ、桜に錨の徽章(旧日本海軍の徽章)であれ、比較的自由に売買するを得た。キリストに対する貞潔は失はれ、教会の中にも獣に対する阿諛(へつらい)と讃美の声が満ちた。

■何年か前に、やはり8月の礼拝説教の中で、サムエル記上第8章を読んだことがありました。サムエル記上下・列王記上下というのは実は全体でひとつの歴史書で、ひと言で言えば、なぜイスラエルは滅びたのか、そのことを明らかにしようとする歴史書です。その冒頭近く、サムエル記上第8章が伝えることは、イスラエルが王を求めたということです。どこの国にも立派そうな王さまがいるじゃないか。われわれも、王さまに支配される国になりたい。神さまの支配なんかどうでもいいから、王さまの支配が欲しい。それが、国が滅びる最初の、そして根本的なつまずきであったと見ています。

そこで神は言われました。よろしい、あなたがたの求めの通り王を与えよう。ただし、その王という人たちがどういうことをするのか、それだけは最初に言っておこう。「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ、千人隊の長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである」。「また、あなたたちの娘を徴用する。あなたたちの畑を没収する。家畜を奪い取る」。「こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分の選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ」。まさしく獣の支配であります。この国でも、天皇陛下万歳と言いながら、何百万という人が死んだのです。

数年前の8月に、こういう主旨の説教をしたあと、しかしこのような消極的な反応がありました。「キリスト者ではない私の家族は、天皇陛下に対する情愛の念を抱いている。おそらくこの説教を聴いたら、つまずいてしまうだろう」というのです。私は正直に申しまして、少しつらい思いをしました。「天皇に対する情愛の念」というのは、一方ではよく分かるのです。こんなことを説教の中で言う必要もないかもしれませんが、私も個人的には、今の天皇に対して情愛の念こそありませんが、人間として本当に尊敬できる人だと思っています。今の天皇のお母様はカトリックの深い感化を受けられた人ですから、天皇家の中にもどこかキリストの香りが生きているのではないかと、誇らしい思いにならないでもありません。サムエル記・列王記が伝える王たちだって、良い王も悪い王もいたのです。けれども根本的な問題は、この王さまはいい王さまか、悪い王さまか、という話ではなくて、人びとが王を欲しがったということなのです。今も変わらず日本人も、王を欲しがっていると思います。「天皇陛下に対する情愛の念」を抱いている人にはきつい言い方になってしまうかもしれませんが、その情愛の念というのが、実はいちばんやっかいだと思うのです。

そもそも、第一の獣と第二の獣は、どこから現れたのでしょうか。黙示録は、第一の獣は海の中から出てきた、第二の獣は地の底から上ってきたという言い方をしますが、文字通りの意味では違います。皆、ふつうの人間です。ローマ皇帝だって、どの天皇だって、あるいはヒトラーだって、本当は皆、ふつうの人間なのです。けれども、そのふつうの人間が、時に獣になってしまうのはなぜかと言うと、その人だけが悪いんじゃない。もともとは、天から追い落とされたサタンの働きです。そしてそのサタンにつけいられる隙がどこに生まれるかというと、サムエル記がいみじくも伝えているとおり、「王が欲しい。神さまの支配なんかどうでもいいから、立派な王さまが欲しい」という私ども自身の心なのです。だからこそ黙示録がここに描く「二匹の獣」は、遠い世界の話ではなくて、いつも私どもが目の前に見据えていなければならないものなのです。

■「地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう」(8節)。ここでヨハネは、獣に負けないように頑張ろう、なんて話はひとつもしていない。もしも、今ここで私どもが、獣ではなくて神を拝んでいるということが現実に起こっているならば、それはただ、神が私どもをそのような者として選んでくださったからでしかない。その神の選びは、天地創造の時にまでさかのぼるのです。選びというのは、私どもが偉いから選ばれたのではありません。何の条件もなく、ただ神の恵みによって選ばれて、私どもは今獣ではなく、神を礼拝しているのです。その神の選びの確かさを、ヨハネは続く第14章で改めて確信することができたと思います。

また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた(第14章1節)。

その14万4千人が、「新しい歌」(3節)を歌っていたというのです。地上では、獣を拝する歌しか聞こえない。教会が何を歌っても、簡単にかき消されそうです。けれども本当は違う。今も昔も、この世界を支えているのは、獣への賛美ではなく、小羊キリストをたたえる歌なのです。お祈りをいたします。

主イエス・キリストの父なる御神、今、この教会をあなたが生かしていてくださることを感謝いたします。獣の支配を求め、これを喜ぶ心が、私どもの内にもあることを正直に認めながらも、今あなたに選ばれて、私どもは新しい歌を歌います。小羊キリストだけをたたえます。その喜びと確信を、今新しく与えてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン