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悪魔の最後の悪あがき

2021年7月25日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第12章1〜18節

主日礼拝

■最近私が教会の生活の中で感謝しているひとつのことは、先週の主礼拝後、久しぶりに「説教を聴き分かち合う会」という集会を再開することができたことです。今聞いたばかりの説教について自由に語り合いながら、与えられた恵みを豊かに分かち合う場所にしたいというのがいちばんの願いですが、今日の話はよく分からなかった、という感想だってあり得ると思います。そういう疑問を、説教者に質問し直すというよりも、他の教会の仲間に「あなたはどう聞きましたか?」と尋ねてみてもよいのです。

先週、久しぶりにそういう時間を作ることができて、やはりありがたいことだと思いました。こんなによい聴き手に恵まれて、自分は本当に幸せな説教者の生活をさせていただいているのだと、感謝を新しくいたしました。しかし一方で、自分の説教について反省させられたこともあるのです。先週の分かち合いの会に限らず、しばしばこういう感想が私の耳にも入ってきます。それは、「やっぱり聖書は難しいですね」という感想なのです。特に、ヨハネの黙示録はわけが分からない。けれども、川崎牧師が分かりやすく説明してくれると、よく分かります(……と言われるのは、お世辞かもしれませんが)。そういう感想を聞きますと、もちろん一方では嬉しいんですよ。それだけ説教に期待してくださっているということですから。しかし説教者としては、やはり反省させられます。むしろ説教を聴きながら、聖書のすばらしさに目を開かれて、ああ、そうなんだ、聖書は私のために書かれた神の言葉なんだ。それなら、もっともっと自分で聖書を読んでみよう、という意欲が湧いてくるような説教ができたらいいな、と思うのです。もとよりこれは、ひとえに説教者である私の責任だと思います。

たとえばこういうことを考えていただいてもよいのです。ヨハネというひとりの牧師が、パトモスという島で神から幻を見せていただいた。それを記録したのが黙示録です。そしてそれを、いろんな教会で回覧した。第2章、第3章にかけて、小アジアにある7つの教会に宛てて書かれた手紙がありますが、まずそのあたりの地域の教会で読まれたのでしょう。主の日の礼拝において、この黙示録がそのまま朗読されたのです。牧師の解説なんかなくても、黙示録の言葉は当時の教会の人びとの心に通じたし、もともとヨハネは、「信仰があれば理解できるはずだ」と信じて、この黙示録を書いたのです。当時の人たちもそれこそ礼拝のあとで、「説教を聴き分かち合う会」のようなことをして、この黙示録についても感想を言い合ったり、分からなかったところがあれば一緒に考えたりしたかもしれません。けれども基本的には、この黙示録の文章がそのまま朗読されて、それだけで言葉が伝わったのです。私どもには伝わらないのでしょうか。そんなことはないと思います。

もちろん、二千年前の小アジアと現代の日本では、文化も社会も、そして言語そのものも違います。それだけでもある程度の説明は必要です。けれどもそれは、あくまで表面的なことでしかありません。本質的なところにおいては、聖書は今、私のためにも分かるように書かれているし、そのように読まれなければならないものです。

■それで今日は、第12章を読みました。たとえばここに、「火のように赤い大きな竜」というのが出てきます。あるいは第13章に進みますと、二匹の獣が出て来ます。それよりも先に、第12章の最初に紹介されるのは、たいへん輝かしい姿をしながら、同時に竜によって追われているひとりの女であります。ずいぶん異様なイメージです。こういうところが、いちばん分かりにくいという感想が生まれやすいのかもしれません。当時の教会の人たちだって、さすがに竜とか女とか言われても、それだけでは何も分からなかったでしょう。けれども黙示録をちゃんと読めば、分かるように説明してあります。そして当時の教会の人たちは、この黙示録の言葉を聞いて、牧師の解説なんかなくたって、本当によく分かったのであります。しかし、何が分かったのでしょうか。なぜ分かったのでしょうか。

しばしばヨハネの黙示録について生じる誤解は、黙示録は将来のことを予言している書物だということです。そういう理解は、半分は正しいかもしれませんが、肝心なことは、黙示録は今目の前に起こっている現実を語っているということです。当時の教会の人たちは、そのことがよく分かったと思います。今自分たちが、この竜のために、あるいはこの獣のために、今ここでどんなに苦しい思いをしているか。私は、大げさでも何でもなく、この第12章、そして第13章が朗読されたときに、泣き出した人たちもいたのではないかと思います。ヨハネの黙示録というのは、遠い世界のおとぎ話でもなければ、いつ来るか分からない遠い未来の話でもないのです。「今あなたの生きている世界はこうだ」と、神のまなざしから見た世界の姿を、黙示録はこのように見せてくれるのです。

■そこでまず、竜であります。「見よ、火のように赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた」(3節)。われわれの想像力を超えるような姿が描かれています。しかし黙示録がここで丁寧に語ることは、なぜ今、この恐ろしい竜がわれわれの目の前に立っているのか、ということです。

さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた(7~9節)。

竜というのはサタン、あるいは悪魔のことです。「全人類を惑わす者」です。ところが天で戦いが起こって、「もはや天には彼らの居場所がなくなった」(8節)。その神の勝利を讃える歌が、10節以下に記されていますが、問題はそのあとです。「天に居場所がなくなった」サタンが、もう自分には勝ち目がないことが分かったものだから、だからこそ今われわれが住んでいるこの地上で、最後の悪あがきをしているのだと言うのです。

このサタンは、竜と呼ばれ、また「年を経た蛇」ととも呼ばれます。創世記第3章に登場し、アダムとエバをつまずかせた蛇のことかもしれません。決定的な敗北を喫した竜あるいは蛇が、天から追われて、第12章の最後の18節では、「そして、竜は海辺の砂の上に立った」と書いてあります。海辺に立って、この竜は怒りに燃えています。12節の後半にも、「地と海とは不幸である。悪魔は怒りに燃えて、お前たちのところへ降って行った。残された時が少ないのを知ったからである」と書いてあります。それは繰り返しますが、「残された時が少ない」、最後の悪あがきでしかないのですが、その竜に付け狙われた人たちにとっては、たまったものではありません。

この竜が、地上における自分の協力者として選んだのが、第13章に出てくる二匹の獣であります。海の中から出て来た一匹目の獣は、竜すなわちサタンから力を預かっている。そして二匹目の獣は、一匹目の獣を拝むようにと人びとを惑わしたと言います。ここで当時の教会の人たちは、ただちにこの一匹目の獣がローマ帝国の支配のことだと了解したと思います。当時の権力者を指差して、あれは人間の支配ではない、獣の支配だと言い切るということは、たいへん厳しいことです。しかもその獣も、実は自分の権力を行使しているのではなくて、天から追い落とされたサタンの操り人形にされているだけだ。それが、黙示録の基本的な歴史理解です。

来週の礼拝で読む第13章は、その獣の支配の具体的な姿を描きます。黙示録の中でも、いちばん読むのがつらい箇所であるかもしれません。そしてそれは当時の教会にとって、いつかこういう恐ろしい時代が来るぞ、という話ではなく、目の前にある現実のことでした。紀元1世紀は獣の支配で、今は違うのだろうか。そんなことはありません。今も変わらず、主が再び来てくださる再臨の時までは、ずっと獣の支配が続くのであります。

今私どもも、自分の周りを見回して、獣の支配の姿をいくらでも見出すことができると思います。ところが黙示録が教えてくれることは、その獣の支配の背後には、天から追われたサタンの支配があるのであって、しかもそれは、サタンの最後の悪あがきでしかない。そう言うのです。

■このサタンと呼ばれる存在には、どういう特色があるのだろうか。興味深いのは、10節の後半に「告発する者」という言葉が繰り返されることです。

我々の兄弟たちを告発する者、
昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
投げ落とされたからである。

「サタン」という言葉がもともと「告発する者」という意味であったらしいのです。本来悪魔というのは、私どもの罪を神の前に告発する者であった。その「告発する者」の支配が、今地上のすみずみにまで及んでいるというのです。

平和の祭典・オリンピックが始まりました。しかし、あまり平和を感じない人も多いかもしれません。ある音楽家が、昔、障害者に対してずいぶんひどい暴力行為を働いたということが問題になって、オリンピック・パラリンピックの要職から外されるということが起こりました。ここでその内容を繰り返すことも憚られるようなことで、そこにも、獣に支配された人間のひとつの姿が現れているのかもしれません。ある程度の社会的な制裁もやむを得ないのかもしれません。ところで、その件の音楽家の息子もまた音楽家である。その息子が、ネット上でずいぶんひどくいじめられているという話を読んで、本当にやりきれない思いになりました。私自身がひとりの息子の父親であるということによる特別な感情が働くのかもしれませんが、いや、息子には意地悪しないでくれよ、と反射的に考えてしまいます。人を告発するというのは、特別な快感を伴うことです。だがしかし、人間がいちばん悪魔的になるのは、まさにそのような局面であると思うのです。IT社会などと呼ばれるようになって、ますますそのような人間の罪深さが露わになっていると思います。あの人が悪い、あの人も悪い、でもあの人がいちばん悪い……。そこにも私どもは、天から追い落とされたサタン、すなわち「告発する者」の悪あがきの姿を見るべきだと思うのです。

■その獣の支配の続く期間の長さが、第13章の5節では、42か月、つまり3年半と言われます。同じ長さの時間が、今日読んだ第12章の6節にも、「1260日」と表現されますし、14節の後半にも同じ長さの時間が別の表現で出て来ます。3年半というのは、先週も説明しましたが、7年の半分です。7というのは、神の救いの完全さを意味する完全数。その半分です。獣の支配は、必ず途中で挫折するに決まっている。それにしても、その3年半の中に生きることは、辛いことであります。

その3年半の間、サタンが特に目の敵にしたのが、ここに出てくるひとりの女であった。14節には「女はここで、蛇から逃れて、一年、その後二年、またその後半年の間、養われることになっていた」とあります。悪魔の支配する3年半、けれどもその間、この女は「養われることになっていた」と書いてあります。もちろん、神がこの女を養ってくださる。いったい、この女とは誰のことでしょうか。

5節には、「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた」と書いてあります。この男の子というのは主イエス以外考えられませんから、女というのは母マリアのことだろう、ということになりそうです。けれども17節を読みますと、「竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たちと戦おうとして出て行った」と書いてあります。この女には、子孫がたくさんいるらしい。もちろん私どものことです。竜はこの女のみならず、その子孫の者たち、「すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たち」にも戦いを挑んだと言います。私ども自身の話が、ここに書いてある。そうすると、この女というのは、教会のことである、あるいはもっと広く、〈神の民〉のことだと考えたほうがよさそうです。主イエスもまた、その神の民のひとりとしてお生まれになったのです。

この女には特別な地位が与えられておりました。1節には、「一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」と、およそ世界中にある輝きをすべて身にまとっている。これが自分たちの母なる教会の姿であると悟ったとき、ヨハネはどんなに深く慰められたかと思います。けれども竜は、この女を憎みました。ことに竜がいちばん恐れたのは、この女が男の子を産んでしまうことであった。だから、産んだとたんに食べてしまおうとしていたと、4節には書いてあります。あのヘロデ王が、赤ちゃんのイエスさまを殺そうとして、その地方一帯の2歳以下の男の子を皆殺しにしたという話を思い起こしてもよいと思います。まさしく、獣であります。

主が十字架につけられたのも、この竜の最後の悪あがきの現れでしかなかったのであります。ところが、まさにそのことを通して、神のご支配が明らかにされました。御子イエスはお甦りになって、5節に書いてあるように、「子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた」。「この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた」。遂に竜は、この男の子を食い殺すことができませんでした。けれども、だからこそ竜はこの女を追い続けた。今も追い続けているというのです。

女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった(6節)。

私どもは、今まさに、荒れ野における3年半を生きているのです。決して生きやすい場所ではありません。だからこそ神が養ってくださいます。そこにヨハネは、教会の歴史を見ています。13節以下にも、荒れ野に逃げ込んだ女の姿が描かれています。14節には、「女には大きな鷲の翼が二つ与えられた」と書いてあります。「荒れ野にある自分の場所へ飛んで行くためである。女はここで、蛇から逃れて、一年、その後二年、またその後半年の間、養われることになっていた」。いったい、どのように養ってくださるのでしょうか。今、私どもは、どのような養いを神からいただいているのでしょうか。

説教の最初のところで、「聖書は、牧師の解説なんかなくても分かる」ということを力説した以上、あまりこのことについて、つまり神による養いの具体的な内容について、私が語り過ぎないほうがよいかもしれません。皆さんがそれぞれに、自分自身が今神からいただいている養いについて、具体的に思い起こしてくださればよいのです。それにしても、その関連でどうしても触れておきたいのは11節です。

兄弟たちは、小羊の血と
自分たちの証しの言葉とで、/彼に打ち勝った。
彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。

小羊イエスの血が、教会を守りました。しかしまた、「自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った」と書いてあります。証しの言葉、「小羊イエスこそ勝利者である」という証しの言葉を、今私どもも聞かせていただいているし、それを自分自身の証しの言葉として語り始めるとき、私どももまた、天の戦いに参与することになるのです。しかもそのとき、私どもは決して孤独になることはありません。

黙示録を書いたヨハネ自身、パトモスにあって、海辺の砂浜に立つ竜の姿を見て、深い恐れを抱いたかもしれない。けれども、「兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った」。自分は決して孤独ではない。兄弟たちと共に、この勝利の戦いを戦うのだと、望みを新しくさせられたと思います。そしてここに、私どもの望みもあるのです。お祈りをいたします。

獣の支配、竜の支配に怯えながら、しかし今私どもも、小羊イエスの勝利を信じて立つことができますように。サタンの支配は、たった3年半だと言われます。私どもにはしかし、無限の時間のように思えてなりません。今新しく、望みの言葉を、養いのみ言葉を与えてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン