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甘くて苦い神の言葉

2021年7月4日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第10章1-11節

主日礼拝

■ヨハネには、神からお預かりした言葉がありました。今日読みました黙示録の第10章には、「神の言葉の巻物を食べなさい。それは、あなたの口には蜜のように甘いが、食べると、腹は苦くなる」という、たいへん不思議な言葉がありました。しかも、その甘くて苦い神の言葉というのは、ただヨハネがひとりでその味を味わっていればいいようなものではなくて、第10章の最後のところには、「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない」と、そう書いてあります。甘くて苦い神の言葉を委ねられているのは、しかし、私どもの教会も同じだと思います。

もう1年以上続くコロナ・パンデミックの中で、改めて問い続けていることがあります。いったい何のために教会は生きているのか、ということです。神は、いったい何のために、この教会を生かしておられるのだろうか。さまざまな面で、教会の活動を制限しなければならないのは、これはある意味では当然のことです。最初は異常事態だと思っていたことも、いつの間にか、それが「いつものこと」になってしまっている面もたくさんあるような気がします。今日も長老たちの会議をこのあと行いますが、教会のいろんな集会、奉仕活動について、これはどうしようか、いつから再開しようか、というようなことが毎月話題になります。しかしそういうところで、いつもふと問い直すことがあるのです。いったい、何のために教会は生きているのか。

黙示録が書かれた当時も、教会にとって、伝道がしやすい時代では決してありませんでした。もっとも、そんなことを言ったら、それなら伝道のしやすい時代って、いつのことだと言われてしまうかもしれませんが、それにしても黙示録の書かれた時代は、やはり特別なものがあったかもしれません。

ヨハネは、パトモスという小さな島でこの黙示録を書きました。神から幻を見せていただいたのです。ヨハネが、どういう経緯でパトモス島にいるのか。これはよく分かりません。当時のローマ帝国当局の暴力的な措置により、島流しに遭ったのだと考える人もいますし、むしろヨハネが自主的にパトモス島に亡命したのだと考えられなくもない。いずれにしても、当時のローマ帝国が教会に対して厳しい態度をとっていたことは間違いのないことです。今日読みました最後の11節を、もう一度読んでみます。

すると、わたしにこう語りかける声が聞こえた。「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない」。

ヨハネにとって、これは決して、聞きやすい言葉ではなかったと思います。まさにこういうことについて、ヨハネは悩んでいたのだと言うことができると思いますし、事実ヨハネは、典型的には第13章以降、かなり明確な言葉でローマ帝国の崩壊を告げなければなりません。この獣の支配は、必ず倒れる。そのような預言の言葉、神から委ねられた言葉について、「この言葉は、あなたの口には蜜のように甘いが、腹には苦い」と言われることも、印象深いものがあります。ヨハネは、その苦さを腹の中にじくじく感じながら、しかも同時に、神の恵みの甘さに慰められながら、語るべき言葉を語らせていただくことができました。今朝、私どもも限られた時間の中で、この教会に委ねられたみ言葉の甘さと苦さを、改めて学び直したい、味わい直したいと願います。

■そうは言っても、今日読みました第10章は、それほど多くの内容を語っているわけではありません。新共同訳の小見出しには「天使が小さな巻物を渡す」と書いてありますが、言ってみればそれだけです。ひとりの力強い、巨大な天使が現れた。その天使が手に持っていた小さな巻物を、ヨハネが受け取って食べたら、言われた通りそれは口に甘く、腹に苦かった。ただそれだけのことですが、読めば読むほど、これはものすごい光景だということにお気づきになるのではないかと思います。

改めて1節から読んでみますと、「わたしはまた、もう一人の力強い天使が、雲を身にまとい、天から降って来るのを見た」とあります。この「力強い天使」というのは本当に力が強いので、「頭には虹をいただき、顔は太陽のようで、足は火の柱のようであり」と、ちょっとわれわれの想像力が追い付かないようなところがあります。「右足で海を、左足で地を踏まえて」とあります。左足で地面に立つのは分かるけれども、右足で海を踏まえて、というのはどういうことだろうか。かつてイエスさまが湖の上を歩かれたように、この天使の右足もなぜか水に沈まなかったのだと読めなくもないですが、おそらくそれとは少し雰囲気が違うようです。むしろこの天使はとてつもなく巨大なので、深い海もこの天使にとっては浅瀬のようなものでしかない。なぜそう考えられるかというと、5節の最後の行に「右手を天に上げ」とあります。何気ない表現のようですが、原文をきちんと理解すると、ただ右手を上に上げたという話ではなくて、「右手を天の中に上げた」、つまり、この巨大な天使が右手を上げたら、手が雲の向こうにまで突き抜けてしまった、ということのようです。ですから「右足で海を、左足で地を踏まえて」というのも、私のような足の短い人間が、右足だけを海に突っ込んでヨロヨロしているという姿ではないんで、文字通り世界を股にかけるように仁王立ちをしている天使が、右手を高く天の中にまで突っ込んでいる。

その巨大な天使が、さらに3節以下を読みますと、「獅子がほえるような大声で叫んだ。天使が叫んだとき、七つの雷がそれぞれの声で語った。七つの雷が語ったとき、わたしは書き留めようとした。すると、天から声があって、『七つの雷が語ったことは秘めておけ。それを書き留めてはいけない』と言うのが聞こえた」。その声もまた、人間には書き留めることすら許されないほどのものであったというのです。

こういうものすごい幻を見せられて、ヨハネは圧倒されたかもしれない。けれどもまた、深く慰められたのではないか。それまで自分が恐れていたこと、思い煩っていたことが、全部一気に吹き飛ばされるような思いがしなかっただろうかと思うのです。

想像してみてください。どういう経緯か、ヨハネはパトモスという小さな島にいるのです。自分が心にかけている教会の仲間たちからは引き離されて、顔を見ることができない、一緒に礼拝することができない。心細かっただろうと思います。いったい自分は、こんなところで何をしているんだろう。もちろんヨハネは、それでも日曜日の礼拝をさぼったりはしませんでした。ひとりの礼拝を続けたかもしれないし、もしかしたら少人数であっても、礼拝を共にする仲間がいたかもしれません。それでもやっぱり、心細い思いにとらわれることも、稀ではなかったでありましょう。もしかして自分は、このままこの小さな島で、孤独の中で、一生を終える運命なんじゃないか。

ところがそんなヨハネの前に、超巨大な天使が現れて……その巨大な天使が、ちょっと足を「ドン」とやっただけでローマ帝国は滅びたかもしれないし、その天使が特別な息で「フーッ」とやれば、われわれを悩ませている疫病もたちまち収まった、なんて話をも期待するかもしれません。ところが、その超巨大天使が、ヨハネの前に現れて、何をしてくれたかというと、その大きな、大きな手の上に、小さな、ごくごく小さな巻物を乗せて、「これを食べなさい」と、ヨハネに渡してくれたというのです。本当に小さな巻物ですから、食べることができます。それは、本当に甘かったのだと思いますし、しかしまた、この世のものとも思えないほど苦かったのだと思います。その甘さと苦さを同時に味わいながら、ヨハネは再び天の声を聞きました。「わたしはあなたに、神の言葉を預ける」。「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない」。

ヨハネが食べた、この小さな巻物は、私どもの教会にも、どの時代の教会にも、大きな教会、小さな教会を問わず、どんな教会にも、等しく神から預けられているものです。しかし、それが甘くて苦いと言われるのは、いったい何を意味するのでしょうか。

■少し話が変わるようですけれども、雪ノ下通信の先月号の牧師室だよりに、説教塾という私が属している集まりの、オンライン・セミナーについて書きました。通常なら三泊四日とか四泊五日で行うセミナーが、今はできませんから、月に一、二度のペースで、オンラインでセミナーを続けました。ひとつの聖書の箇所を巡って、もちろんその聖書の箇所を説教することを目指して、60人を超える仲間と一緒に丁寧に学びを続けていたのですが、これがあまりにも丁寧すぎて、遅々として進まず、遂に「かたつむりセミナー」と呼ばれるようになりました。しかしようやく参加者の全員が説教原稿を提出するところまで行き着いて、今月中には終わりそうです。

このセミナーの中で、いろんなことを語り合いましたが、一度ならず話題に上ったのは、香港の教会のことです。中国共産党による香港弾圧が厳しさを増していることは、社会的にも大きな事柄になってきていると思いますが、その香港に生きるキリスト教会もまた、たいへん厳しいところに追われているということを、皆さんもお聞きになったことがあるかもしれません。投獄され、あるいは亡命しなければならなくなり、ということが現実のことになっています。大げさでも何でもなく、今香港の教会は黙示録的な状況の中に立たされていると思います。

説教の学びのセミナーで、どうしてそういう話題になるかというと、この一年近く学んできた聖書の箇所というのが、ローマの信徒への手紙第13章の後半なのです。その中の12節に「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」とあります。いったい、「夜が更けた」というのはどういうことなんだろうか。しかもそれと同時に、「日は近づいた」というのは、いったいどこに見える現実なんだろうか。考えてみると非常に不思議な言葉で、夜の闇がどんどん深まっていく、しかも同時に、「日は近づいた」、昼の光がもうそこまで来ている、というのです。まあね、夜が1時間分更けたら、夜明けまでの時間も当然1時間分短くなるわけですが、この手紙を書いたパウロはそんな屁理屈を言っているのではなくて、夜の闇の深さを、目の前でいやというほど見せつけられながら、しかもそこで同時に、神の約束の光を目の当たりに見せていただいているのです。

ヨハネの教会も、香港の教会も、きっとわれわれが知る以上に、深い闇の中に閉じ込められるような思いであったに違いない。夜の闇は、ますます深まっているのです。けれどもその闇と同時に、神の光を見ているのです。

そんなことを考えていたら、先週、ある教会の方が、中国共産党創立100周年祝賀大会の動画を紹介してくださいました。皆さんもいろんなニュースを得ておられると思いますが、私もその方から紹介された2時間近い動画を飛ばし飛ばし見て、中国という国が今どんなに大きな力を持っているか、改めて見せつけられるような思いがいたしました。ある意味で、世界でいちばん大きな力を持っている国を、ほとんどひとりの人が支配している。その支配者の前に何万という人が集まり、熱狂的な喝采を送りながら、その言葉に耳を傾けている姿を見ながら、やはり複雑な思いを抱かざるを得ませんでした。もちろん、皆さんの中にもいろんな立場や考え方があるでしょう。政治の世界というのは、きっと私が知る以上に複雑で難しいものであるのかもしれません。けれども私は、こんなに大きな力を持った国が、ただイエスさまを信じることを喜びとしている小さな教会をいじめるような世界は、やはり間違っていると思うのです。

■だがしかし、教会は、神から言葉をお預かりしています。もしそうであるならば、今私どもも心新たに、そこに立ちたいと思うのです。この教会に神が与えてくださる力は、み言葉以外、何もない。ヨハネが小さな巻物を食べさせていただいたように、教会というのは、それがどんなに小さな教会であっても、11節にあるように、「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない」という、そのような神の言葉をお預かりしているし、そのお預かりしている神の言葉が、口には甘く腹には苦いというのも、いつの時代にも変わらない真理であると思うのです。

なぜヨハネに与えられた巻物は小さかったのだろうか。そしてそれは、なぜ甘かったのだろうか。なぜ苦かったのだろうか。ここで多くの説明の言葉を重ねるよりも、ただ十字架につけられた主イエスのことを思い起こさなければならないだろうと思います。主が十字架につけられたとき、それこそ超巨大な天使が助けに来てくれるようなことを期待した人も、もしかしたら隠れていたかもしれませんが、主の十字架の周りで、そんなことはひとつも起こりませんでした。誰もこのお方を助けませんでした。むしろ、主イエスが武器を持った人たちに捕らえられそうになったとき、弟子のひとりが剣を振り回して、イエスさまを守ろうとした。ところが主は、「そんなことはするな」。「剣を取る者は、剣で滅びる」。そしてこう言われたというのです。「もしわたしが父にお願いすれば、ただちに天使の大軍団が飛んで来るだろう。けれどもそんなことをしてしまったら、聖書の言葉が実現しないんだ」。そう言って、主イエスは十字架への道を歩んで行かれたのです。世界の誰よりも小さくなってくださった主イエスは、誰よりも深く神の恵みの甘さを味わっておられたはずですが、だからこそ、それを押しつぶそうとする人間の罪の中で、十字架の苦さを味わい尽くさなければなりませんでした。

教会には、この小さな巻物しか与えられていないと、そう申しました。これをしかし、もうひと言だけ言い換えると、「教会には、十字架につけられたイエス・キリストしか、与えられていない」と言うことができると思います。ですから、この小さな巻物の小ささとは、主イエス・キリストご自身の小ささです。そしてその苦さとは、十字架の苦さであり、私どもの罪の苦さであり、また神の裁きの厳しさのことでもあります。私どもも、聖書のみ言葉を読みながら、もちろん神の恵みの甘さを喜ぶでしょう。けれども、腹の深いところにはいつも、主の十字架の痛みがあるでしょう。ところがそれを伝道の言葉として、証しの言葉として人に向かって語るとき、それは私どもを生かすいのちの甘さを失うことはないのであります。

教会が、この神の言葉の恵みにしっかりと立つことができるように。そのために、ヨハネの前に現れた力強い天使も、教会を励ましてくれます。7節ではこう言うのです。

「第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する。それは、神が御自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げられたとおりである」。

神は必ず、み心を行ってくださる。あなたがたのために。それは、「預言者たちに良い知らせとして告げられたとおりである」。「良い知らせ」というのはつまり、福音であります。喜びの知らせです。神はご自分の預言者たちに、喜びの知らせしかお告げになったことはない。その喜びの成就の時まで、「もはや時がない」と、6節の最後では言われるのです。「もはや時がない」、「これ以上待つ必要はない」というのです。

神が今、み心を行ってくださることを信じて、しかもそのために、神がこの教会を、み言葉の担い手として用いてくださることを、感謝と驚きをもって受け止め直したいと願います。お祈りをいたします。

父なる御神、あなたこそ、天地の支配者でいてくださいます。私どもの生きるこの世界にあって、そのことを信じ抜くことは決して容易でないことを、あなたもよく理解してくださると思います。私どもの作る罪の世界の中で、誰よりも深くその苦さを味わってくださった御子イエスのことを思いながら、今私どもも、腹にこたえる苦さを知り、けれどもまた、み言葉の恵みの甘さを心いっぱいに告げ続けることができますように。今私どもにも、新しい幻を与えてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン