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いつまで懲りないのか

2021年6月20日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第9章1-21節

主日礼拝

■今日は、このあと聖餐を祝います。この聖餐と呼ばれる食事の源流をさかのぼると、旧約聖書出エジプト記第12章に出てくる、〈主の過越〉と呼ばれる食事に行き着きます。神の民イスラエルは、かつて430年間もの間、エジプトの地で奴隷生活を強いられた。けれども神が、ご自分の民を顧み、これをエジプトの奴隷状態から解き放ってくださった。しかもその自由解放の出来事は、ひとつの明確な目的を目指していたのであって、「イスラエルよ、あなたがたはエジプトを出て、自由になって、主なるわたしを礼拝して生きるのだ」と、そう言われたのです。

神の民イスラエルがエジプトを出た、その最後の夜に、神がお命じになった食事が、〈主の過越〉です。なぜ食事の名前として「過ぎ越す」という言葉が出てくるかというと、これはたいへん生々しい話になるのですが、過越の食事のメインディッシュは小羊です。その小羊の血を、それぞれ自分の家の門の柱と鴨居に塗りなさい、と言われるのです。その夜、主なる神ご自身がエジプト中の家を一軒一軒訪ねて、すべての初子を撃ち殺した。つまり人間であれ動物であれ、母親のおなかから最初に出てきたものは、ことごとく神に撃たれて殺される。けれども、門の柱に小羊の血が塗ってある家は、これを主は過ぎ越して、通り越して、その家に災いが及ぶことはない。そういう話であります。そして事実、その夜、エジプト中の家で死人が出ました。エジプトの王ファラオの息子も例外でなく、家畜の初子すら見逃されることなく、そのためにその夜、エジプト中に泣き叫ぶ声が響き渡ったと言います。けれども、神の民イスラエルに属する家には、その門に小羊の血が塗ってあったために、ひとりも死人が出なかった。そのような出来事を経て、イスラエルはほとんど追い出されるように、エジプトを脱出したという話であります。

これは、たいへん不思議な話であります。信仰がなければ、とうてい理解できない話だろうと思います。

■礼拝の中で、ヨハネの黙示録を読み続けています。今日読みました第9章は、これだけでも1回の礼拝で読むには長すぎるようですが、本当は少なくとも第8章と合わせてひとつのまとまりとして読むべきところです。7人の天使が、ひとりずつラッパを吹いていくと、次々と新しい災いが起こるというのです。地上の3分の1が焼けた。海の3分の1が血に変わった。太陽の光が暗くなった。ひとつひとつ、「いったい何だ、これは」と首をかしげたくなる方も多いだろうと思います。今日読みました第9章では、まず前半ではたいへんないなごの害が起こり、しかもそのいなごは、草木や野菜を食い尽くすというのではない、人間にしか害を与えないというのです。その与える苦痛は、「さそりが人を刺したときの苦痛のようであった。この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く」(5、6節)。たいへん強烈な文章です。ところが第9章の後半では、今度はもうたくさんだと言いたくなるくらい、大勢の人が天使によって殺されたと言います。

これら、黙示録第8章と第9章が伝えるさまざまな災いを読みながら、多くの人が、出エジプトの出来事を思い起こします。出エジプト記を一度でもお読みになった方は、何となくであっても理解できるのではないかと思います。そう言えば、出エジプト記にも、水が血に変わったり、昼間なのに太陽が隠れたり、それこそいなごの災害があったり、大量の人が殺されたり、似たようなことがあったな、とお気づきになると思います。しかし、出エジプト記と最も深く重なり合うのは、最後の第9章20節以下であります。

これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。また彼らは人を殺すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めなかった。

■今申しましたように、イスラエルがエジプトを出て行こうというときに、主がエジプトにもたらされた災いは、すべての家の初子が殺される、ということだけではありませんでした。むしろそれは、10の災いの内の最後のものです。そしてそれは、聖書の中でも最もドラマチックな場面のひとつであるに違いありません。出エジプト記第7章の14節から、10の災いのひとつ目が始まります。なぜこのような災いがもたらされたかというと、イスラエルの指導者モーセが、エジプトの王ファラオにお願いをするのです。どうかわたしたちをエジプトから去らせてほしい、わたしたちは荒れ野で主なる神を礼拝しなければなりませんので、と言うのですが、ファラオは当然耳を貸さない。そこで最初に起こったのが「血の災い」です。ナイル川の水、それどころかエジプト中の水という水がすべて血に変わったために、人びとは水を飲むことができなくなった。ナイル川の魚も皆死んでしまったというのです。ところが、ファラオは心を頑なにして、イスラエルを去らせることはしませんでした。

それで第二の災い、「蛙の災い」が起こります。信じられない量の蛙が人びとの家に上がり込み、寝室にも台所にも食器の中にまで蛙だらけ。それでファラオは音を上げて、モーセに懇願します。どうかあなたの神にお願いして、この蛙をどうにかしてくれ。荒れ野でもどこにでも行っていいから。そこでモーセが主に願うと、たちまち蛙はいなくなった。ところが、ファラオは一息ついたと思ったら、また心を頑迷にして、モーセの言うことに耳を貸さなくなったというのです。

それで、第三、ぶよの災い。第四、あぶの災い。第五、疫病の災い。いちいち紹介する必要もありません。話の大筋は同じだからです。どんな災いを経験しても、ファラオは頑として、モーセの言葉を神の言葉として受け入れようとはしない。第六、はれ物の災い。第七、雹の災い。そして第八の災いが、いなごの災害であります。太陽も見えなくなるくらいのいなごの大群がエジプト全土を襲い、国中どこを探しても、緑色のものはひとつも残らなかったと言います。それでファラオは言いました。「わたしはあなたの神、主に対してとんでもない間違いを犯した。どうかわたしの過ちを赦してほしい。そして、前にもしてくれたように、この災いを何とかしてほしい。お願いだから」。モーセが主に願うと、たちまちいなごは去った。ところが、それでも、ファラオの頑なな心は治らなかったと言うのです。

その後第九の暗闇の災い。そして第十、最後の災いに至って、ファラオは自分の息子を失います。それどころか、国中の初子が神によって撃ち殺されたのであります。今度こそ、さすがのファラオも悔い改めたのでしょうか。いいえ、決してそんなことはありませんでした。この最後の災いのあと、イスラエルの人びとはエジプトを出た。けれどもファラオはまたもや考えを翻して、自ら軍勢を率いて、イスラエルを追撃しようとします。

■これ以上出エジプト記の聖書物語を続けることはしませんが、私は幼い頃、不思議で仕方がありませんでした。皆さんも、不思議に思わないでしょうか。なんでファラオは、ここまで頑なになることができたんだろうか。人間はここまで罪深くなれるものなのだろうか。いくら何でも、いい加減、懲りろよ! しかし今は、考えを改めました。私はむしろ、ファラオに同情するというとおかしいのですが、ファラオの心の動きは、とてもよく理解できます。自分にそっくりだとさえ思うのです。それとも私どもは、ファラオとは違って、もう十分に悔い改めたのでしょうか。黙示録はこう言うのです。

これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。また彼らは人を殺すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めなかった。

中心問題は、偶像を拝むのか、それとも、ただ神のみを神とするのか、ということです。それこそがヨハネの黙示録の中心問題であり、出エジプトの中心問題であるというにとどまらず、聖書の中心問題であったのです。黙示録が繰り返し伝える天使の言葉は、「神を礼拝せよ」というのです。神を神とすることができなかったら、人間は人間になることができないのであります。もしも人間が神を礼拝することをやめたら、それは人間の顔をしているだけの、実のところただの獣でしかない。けれども私ども自身、偶像の誘惑になかなか勝てないと思います。

偶像というのは、いわゆる金銀で造った像には限らないと思います。神さまよりも大事なものがあれば、それが偶像になるのです。そして私どもは、自分ではどんなに悔い改めたつもりでも、けれどもやっぱりこれだけは、と最後の最後にしがみついているものがあるだろうと思うのです。そしてもしもそういう「最後の偶像」がひとつでもあるならば、私どもは、たとえいなごや毒虫に襲われたって、それで自分の家族が死んだって、いや、そんな恐ろしいことがあればなおさらのこと、その「最後の偶像」に必死になってしがみつくと思います。

いつになったら懲りるのだろうか。どこまで行ったら、私どもは本当に神を神とするようになるのだろうか。おそらく私どもも、ファラオ以上に頑ななところがあると思うのです。だがしかし、そんな私どもが、今は現に、エジプトの奴隷の家にいるのではありません。そうではなくて、既に今事実として、このように聖餐の食事を祝っているのです。それはいったい、何を意味するのでしょうか。ただ、神の憐れみを受けたからだとしか、言いようがないではありませんか。

■出エジプト記は、遂に悔い改めることなく、最後の災いを経験してもなおイスラエルを奴隷として連れ戻そうとしたファラオとその軍勢が、海の中に呑まれてしまったことを伝えます。これもたいへん有名な聖書の物語で、モーセが杖を高く上げると、海がふたつに割れて、イスラエルは海の中の乾いた地面を歩いて海を渡ったというのです。そのあとの話は、もうこれ以上丁寧にする必要もないでしょう。最後まで悔い改めなかった者には、滅び以外の道はないということが、恐ろしいほど明瞭に告げられています。そしてヨハネの黙示録もまた、この悔い改めない人間の心が、遂に神を呪う心にまで変わって行くことをはっきりと描き出します。

そこで、聖書の解釈というか、黙示録の解釈においてふたつに分かれる点があります。ひとつの読み方は、黙示録は救われる者と滅びに至る者を、完全にふたつに分けている、と読むのです。第9章4節の表現で言えば、「額に神の刻印を押されている人・押されていない人」の間には大きな隔たりがあって、向こう側からこっち側に移って来る可能性はまったくない。特に「聖書学者」と呼ばれる人たちには、こういう読み方をする人の方が多いかもしれません。この読み方に従うならば、悔い改めの可能性はないのです。けれどももうひとつの読み方は、ここで悔い改めない者の姿を描いているのは、とりもなおさず悔い改めを呼び掛けているのだと考えるのです。けれども、皆さんも聖書を読みながら、不安になるかもしれません。悔い改めなさいって言ったって、第六の天使がラッパを吹いたとき、もう人間の3分の1が滅ぼされているではないか。悔い改めろったって、もうチャンスがないじゃないか。けれどもヨハネは、幻の中で3分の1の人が滅んでいく姿を見ているだけで、その幻を告げながら、今私どものためにも言うのです。どうか、あなたも、悔い改めてほしい。あなたがどこから救われなければならないのか、本当はどこに立たなければならないのか、よく考えてほしい。

私ども自身、神に呼ばれたから、今この食卓の前に立たせていただいているのです。性懲りもなく、偶像に誘われる私どもです。けれども、そんな私どもが、神に呼ばれたのです。思えば、エジプトを出たイスラエルもまた、何度も何度も、偶像の誘惑に誘われたのであります。エジプトで食べた肉鍋は本当においしかったとその生活を懐かしんだり、金の子牛の像を作ってその周りで踊り狂ったり……。けれどもそんなイスラエルを、神がどんなに大切に守り、辛抱強く導いてくださったか。イスラエルの人たちが繰り返し祝い続けた過越というのは、その神の愛を、一挙に思い起こさせるような食事でもあったと思います。

今私どもも、その神の愛の前に立ちます。そしてまさにここで、私どもは偶像礼拝から救われる。私どもの偶像礼拝の罪は、ちょっと決心したり、心がけを変えてみたりするくらいで治るものではありません。偶像というのは、魅力があるから、偶像なんです。そこから離れることは、容易ではありません。けれども黙示録ははっきりと言います。「このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである」。ここにもうひと言、「このような偶像は、わたしたちを愛してなんかいない」と付け足すことも、許されるかもしれません。しかし私どもは今、「見ることも、聞くことも、愛することもできない」偶像の前に立つのではない。神の愛の前に立つのです。それが、この聖餐の食卓です。

今から私どもが祝う聖餐は、過越の食事を原型としてはいますが、過越の食事そのものではありません。主イエス・キリストが新しく作り直してくださった、定め直してくださった食事です。過越の食事においては、小羊の血がイスラエルを滅びから守ってくれたと言われます。しかし今私どもを滅びから守るのは、主イエス・キリストご自身の血であります。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われた小羊イエスご自身の血を見つめながら、もう私どもは、偶像を拝むことなんかできません。神に愛され、ただ神のみを愛する者としてここに立つ幸いを、共に感謝したいと願います。お祈りをいたします。

 

あなたに愛されて、今私どももここに立ちます。イスラエルをエジプトの奴隷の家から導き出し、そして今私どもを御子イエスの血によって解き放ってくださった父なる御神、あなた以外にわたしの神はありません。どうかそこに、しっかりと立ち続けることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン