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とりこを放つ

2021年6月13日

嶋貫 佐地子
ヨハネによる福音書 第8章31-47節

主日礼拝

教会で葬儀が続きました。その葬儀の説教のなかで、こういう言葉が語られました。
「本物」。
「この人は、本物を求めた人だった。
偽物じゃだめだった。」
そう語られました。
そしてもうお一人の方は、あるときの川﨑先生のお話にこう言われたそうです。

「今日、本物の言葉を聴いた。」
今日、わたしは本物の言葉を聴いた。
思えば、私どもの人生というのは、本物と、出会うためのものではないかと思います。そして本物に出会えたなら、すべて、いいんだと思います。

主イエスは今日、真理と言われました。

「真理はあなたたちを自由にする。」(8:32)

この真理とは何か。
真理というのは、ほんとうのこと。間違いのないことです。それは神様しか持たれないものです。神様の真理です。
ほんものです。

そして主イエスがここで言われている真理は、神様の意志と思われます。神様の、人を救おうとされるお心。罪のとりこから人を自由にされようとするお心です。その確固たる意志。そしてそのお心が実現される時、人はほんとうに自由にされます。
そのために、主イエスは来られました。主イエスのミッションは、この真理を人にお与えになることです。神様の意志をお与えになることです。ですから、主イエスの言葉、主イエスのなさることに真理があり、そしてもはや、この方そのものが真理であって、この方そのものが神様の意志であって、それで主イエスは、ご自身を与えながら言われました。
「真理はあなたたちを自由にする。」
神を知ると、人は自由になる。

それは私どもも経験していることです。特に私どもが礼拝から帰るときに起こるあのことです。主イエスの言葉を聴いて、ほんとうに自由になっている。自分を取り巻く状況は何も変わらないのに、自分が全く新しくされて、楽になって、ほんとうに自由になっている。そういうことです。
主イエスがこのことを言われたのはユダヤ人たちにでした。それも今日の前のところで、主イエスの言葉を聴いて信じた人たちでした。彼らは主の言葉を聴いて信じたのです。その彼らに主は言われました。

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(8:31-32)

主は、その人たちに、一度聞いて信じただけでなく、真理の言葉にとどまれと言われたのでした。そうしたら、あなたたちはほんとうにわたしの弟子である。

でも、彼らは、主の言葉にとどまることができませんでした。彼らは主イエスの言われた「自由」という言葉につまずいてしまいました。種まきのたとえでいうなら、種は蒔かれたのに、サタンがとっていってしまいました。彼らは言いました。自由とはなんだ?わたしたちはいつも自由だ。わたしたちはれっきとしたアブラハムの子孫で、これまで奴隷になったことなんてないんだ。
でも、よく考えてみますと、アブラハムの子孫である神の民は、エジプトで奴隷になり、神様が奴隷の家より導き出してくださいました。またそのあとも、バビロン捕囚から神様が解放してくださいました。そうやって何度も捕らわれから救い出されましたのに、それなのに、人というのは忘れっぽいです。覚えていろと言われても、すぐに忘れてしまいます。特に神様がなさったことこそ、よく忘れてしまいます。それに自分の置かれている状況もよくわからないところがあります。
それで主は言われました。

「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」(8:34)

あなたたちはわたしを殺そうとしている。(8:37)

あなたたちは罪に縛られている。
ほんとうに不自由だね。

そういわれますと私どもも胸が痛くなります。私どもも自由とは言えないときがあります。私どもには、それぞれに置かれている境遇がありますが、その境遇の中で自由が揺らぐことがあります。苦しくて。どうしようもない。しようとすることはできないし、したくないことはしてしまう。よくない思いに駆られる。ずっとそのことばかり考えている。自分では、抜け出せない。

それで、主イエスが言われるには、そういうときにあなたは違う家に入っちゃっている、というのです。

主イエスが、ここで不思議なことを言われております。

「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。」(8:35)

奴隷は、家にいつまでもいるわけにはいかない。でも子はいつまでも家にいる。

奴隷というのは自由がない人です。ほんとうは自由の権利をもっているのに、それを奪われてしまっている人です。そうすると自分の家もないのです。家にいつまでもいたいと思っていても、自分の家はなくて、望んでいないところに、連れて行かれる。

それで連れて行かれる家は、悪魔がいる家だと、主は言われました。主はユダヤ人たちに言われました。

「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分は偽り者であり、その父だからである。」(8:44)

その家は、悪魔の父がいる家だ。主はユダヤ人たちに、あなたたちの父は悪魔だと言われました。大変厳しいお言葉です。悪魔の父というのは、これまでの人の罪の歴史です。でもそれほどに、悪魔は人の心を乗っ取って住みつく。そしてその子どもたちを奴隷にして欲望を満たす。主は言われました。悪魔は最初から人殺しで、そして偽り者。だから悪魔はほんものを殺したい。それで現に彼らは、この話のあと、主イエスに石を投げつけて殺そうとします。

ここに激しい対立があります。真理対いつわり。光対闇。その激しい対立の中で、主イエスは、あなたたちの家は、ほんとうはそっちではないと言われている。あなたはそっちにいちゃいけないと言われている。そっちは偽物。偽物じゃだめなのです。ほんものじゃないと。そっちではなくて、あなたのほんとうの家は、こっち。

ほんとうの父の家。神の家だ。「子はいつまでもいる。」(8:35)と、主イエスが言われた「子」というのは、まず主イエスのことです。「子はいつまでもいる。」
いつまでも。永遠の神の家です。

主イエスはその神様の家の「うちの子」でいらして、そしてそこからこの世においでになって、また父の家にお帰りになる。そして将来また私どものところにおいでになりますけれども、そののちも、いつまでも父の家におられる。その父の家の、ほんとうの子が、神様の子どもになる者たちを迎えに来てくださいました。

罪からの自由を与えに来てくださいました。「子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」(8:35-36)主イエスが、その子たちを本当に自由にする。そしてその子たちはいつまでも父の家にいる。
これは永遠のいのちのことです。

そしてもう、主イエスは来られたので、その子たちはもう真理を知っている。神様が何をされたか知っている。その心を知っている。だからその子たちは、今もう自由で、悪いものに引き込まれないし、奴隷にもならない。そしていつか、ほんとうのお父さんのところに帰る。その子たちは父なる神様の「うちの子」なのです。

だから、この言葉はほんとうに恵み深いと思うのです。「子」はいつまでもいる。主が、いつまでもいる。そこに、私どもも帰れるのですから、私どもも、何の恐れもないですし、何からも自由です。

このあと讃美歌の「もろびとこぞりて」を歌います。クリスマスではないのになぜだろうと思われたかもしれません。でもこれはキリストのミッションの歌です。もとの英語の歌詞では、彼は来ると何度も歌われます。彼は来る。主は来る。何のために来るか。ミッションの一つは、捕らわれていた人たちを解放するためです。
日本語訳ではそれを「悪魔のひとやを打ち砕きて」と歌います。悪魔の「人屋」というのは、人という字に家屋の屋で「人屋」、「牢屋」のことです。悪魔の牢屋に入れられた人たちを、キリストは解放する。どうやって解放するのか。

もとの歌では真鍮の門を壊すっていうのです。この門は悪魔の牢屋の門で、昔の日本語訳ではくろがね、「鉄の扉を打ち砕き、とりこを放てる」と歌われていたそうです。頑丈な扉を打ち砕く。それは十字架と復活で打ち砕く。十字架と復活の破壊力は、悪魔の牢屋を破壊して、罪と死を滅ぼしたのです。

そのとき、主は、まことに自由に、
父のお心に従われました。
ほんとうに自由に。

神こそ、十字架を与えるほどに自由です。

そしてこの神の自由が束縛する連中を一気に破壊したのです。

だからその子どもたちは本当に自由。
どんな境遇にあっても、
その人は自由です。

昨日も葬儀がありました。その前に、中村先生がその方のもとにお祈りに行ってくださいました。その方は、もうお話もできないご様子だったそうですが、先生の言葉をお聴きになりながら、目を瞑り、涙を流されたそうです。

地上の最後の最後まで、主の言葉にとどまり続ける。

主は「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」と言われましたが、主はその方に言ってくださったと思います。

あなたは、何からも自由。
あなたは本当にわたしの弟子で、
父の家に帰る、父のほんとうの
「うちの子」だ。

 

父なる神様
御子の自由に、私どもも従えますように。主イエスにずっとついていかれますように。
主の御名によって祈ります。
アーメン