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復讐か、殉教か

2021年5月16日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第6章1-17節

主日礼拝

■ハイデルベルク信仰問答という、約450年前に書かれた信仰の書物があります。450年も昔の言葉が、今でも私どもの信仰を支える力を持ち続けているということは、ちょっとした奇跡であると言えるかもしれません。暗誦するに足る、宝石のような言葉をいくつも見つけることができます。そのひとつは、使徒信条の冒頭の「わたしは、天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という言葉を説き明かすところです。全能の父を信じるというのは、言い換えれば、神の〈摂理〉を信じることだと言います。摂理とは難しい言葉ですが、全能の父なる神が、いちばんよいお考えをもって、世界のすべてを支えていてくださる、導いていてくださるという信仰です。そこで、このように言うのです。

問27 神の摂理とは、何である、と思いますか。
答 それは、神の全能なる、今働く力であります。その力によって、神は、天と地と、そのすべての被造物をも、み手をもってするごとくに、保ちまた支配して下さり、木の葉も草も、雨もひでりも、実り豊かな年も実らぬ年も、食べることも、飲むことも、健康も病気も、富も貧しさも、すべてのものが、偶然からではなく、父としてのみ手によって、われわれに、来るのであります。
(竹森満佐一訳、新教出版社)

お聞きになるだけでも、だいたいの内容は理解できると思います。神は、天と地とそこにあるすべてのものを支配していてくださる。そうすると、どういうことになるのだろうか。この世界には、良いものもあれば悪いものもあるのです。そして私どもにとって深刻な問題になることは、神がお造りになったはずのこの世界に、悪いことの方がずっと多いように見えるということなのです。戦争があり、疫病があり、飢饉があり、貧しさがあり……ところがこの信仰問答が言うことは、「健康も病気も、富も貧しさも、すべてのものが、偶然からではなく、父としてのみ手によって、われわれに、来るのであります」。ただ「神」とは言わず、「父としてのみ手によって」、つまり、私どもをご自分の子として愛してくださるお父さまの手から、すべては来る。私は、この全能の父を信じる、と言うのです。しかしそこに、すぐに大きな問いが生まれることにもお気づきになると思います。

この信仰問答の言葉が、私の心に深く刻まれることになった、たいへん具体的なきっかけがありました。もう20年近く昔のこと、私が神学校を卒業して1年目というときに、教会でハイデルベルク信仰問答の学びをする集会を始めました。ところがこの問27を読んだときに、ひとりの教会員がかみついた。病気も貧しさも、神さまのみ手から来るって、そんなひどい話があるか。悪いものをわたしに押し付ける神さまなんて、どうしてそんな神を信じることができるか。その方は、お子さんの障害のことでたいへんな苦労をなさった人で、当時まだ27歳の伝道師であった私は、ほとんど何も気の利いた答えをすることができませんでした。けれども、その集会に出ていた別の方が、助け舟を出してくれました。「本当にそうか。悪いものは神さまとは無関係のところから来ると考えて、それが本当に救いになるか。もしもこの世界の中に、神さまの手の及ばないところがあるとしたら。そのようなところから、あらゆる悪いものが生じるのであって、神さまといえども手出しはできないということであるならば、いったいどうやって耐えることができるだろうか」。

■ヨハネの黙示録を読み続けています。もしもヨハネがハイデルベルク信仰問答を読んだとしたら、「そうだ、わたしもそのことを書きたかったんだ」と言うに違いないと私は思います。ヨハネがここで見つめているのも、神の支配です。もし神がおられるのなら、神のご支配の姿がどこに、どのように見えるのか。そのことを示す壮大な幻を、ヨハネは見せていただきました。第4章の最初のところで、「ここへ上って来い」という大きな声が聞こえて、そこでヨハネが約束していただいたことは、「この後必ず起こることをあなたに示そう」。神がこの世界をどうなさるのか、その神のご計画を教えよう、というのです。それで第5章に進みますと、「玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た」(第5章1節)というのです。そこに明らかに、神のご計画が記されている。ところが3節。「しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開くことのできる者、見ることのできる者は、だれもいなかった」。それでヨハネは、激しく泣き続けたというのです。

神を信じて生きる者は、神を信じるからこそ、このヨハネの流した涙を知っています。神がおられることは信じる。ところがその巻物を開くことができないのです。悲しみがあり、痛みがあり、人間の言葉ではどうしても説明することのできない、理不尽なことがたくさんある。そこで神のみ心を尋ねようと思っても、それが見えないところに流される涙というのは、繰り返しますが、神を信じる者だけが知っている、しかも、日常的に知っている涙であると思うのです。

黙示録というのは、ヨハネの見た幻の記録です。黙示録をいくら読んでも、どうも日常の現実からは遠く離れているとしか思えないという、消極的な感想を持つ方もあるかもしれませんけれども、それは大きな誤解だと私は思います。「この巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見当たらなかったので、わたしは激しく泣いていた」。私どもの知る現実そのものではないかと思うのです。そんなヨハネに、天にいる長老のひとりが声をかけてくれました。

「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる」。わたしはまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見た(5、6節)。

「屠られたような小羊」というのですから、十字架の傷がはっきりと見えていたのかもしれません。けれども、既に勝利を得ておられる小羊イエスが立っておられる、これにまさる確かな現実はないのです。そのところから、ヨハネの伝える幻は始まります。

■そこで、今日読みました第6章です。小羊が遂に巻物を開いてくださいます。そこでヨハネが見せていただいたのは、神が支配しておられるこの世界の将来です。まず第一の封印が開かれると白い馬が現れる。第二の封印からは赤い馬、第三の封印から黒い馬、そして第四の封印から青白い馬と、四頭の馬が登場します。

第一の白い馬に乗った騎士は、冠をかぶり、既に勝利しています。その「勝利の上に更に勝利を得ようと出て行った」と記されます。これはキリストのことだと言う人もいますが、よく考えるとそれはおかしいので、小羊イエスが封印を開いたときに最初に出てきたのがイエスさまご自身だったというのは、いくら何でも不自然です。そこで多くの人が、これはむしろ、滅びをもたらす軍事力の象徴だと考えます。そうすると、すぐに第二の「火のように赤い馬」が飛び出して来て、「地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる」というのです。

第三の馬は黒い馬であります。「小麦は一コイニクスで一デナリオン。大麦は三コイニクスで一デナリオン」と、馴染みのない単位が出て来ますが、簡単に言えば「お米1キロ1万円」というような世界を考えていただければよいと思います。5キロのお米を一袋買おうとしたら5万円。それでは普通の人は生活できませんから、白いお米はめったなことでは食べられない、麦飯やさつまいもで凌ぐほかない、というような戦中戦後の生活を思い起こす方もあるかもしれません。

そのあとの「オリーブ油とぶどう酒とを損なうな」という言葉は解釈が非常に難しくて、いろんな人がいろんな意見を言いますが、私がいちばん説得された説明はこうです。当時のローマ皇帝ドミティアーヌスがオリーブ畑とぶどう畑の減反政策を強行しようとした、という記録があるらしいのです。つまり、帝国内のオリーブ畑とぶどう畑が増えると、その分オリーブ油とぶどう酒の値段が下がってしまって、自分のお友達の既得権益を守れなくなりますから、「今後、新しいぶどう畑を作ってはならん。今あるぶどうの木も、少なくとも半分は切り倒せ」というたいへん乱暴な通達を出し、自分のお友達の利権はしっかりと守りながら、他方で貧しい民衆は「お米1キロ1万円」という世界で苦しんでいる。

けれどもそこに声が聞こえる。「わたしは、四つの生き物の間から出る声のようなものが、こう言うのを聞いた」(6節)というのは、第4章からの話から明らかなように、神ご自身の声が聞こえたということです。「オリーブ油とぶどう酒とを損なうな」。金持ちの利権のために、ぶどうの木を切り倒すようなことをするな、という神の声が聞こえた。その意味では、この「黒い馬」というのは、痛々しいほどに現代的であります。

■けれども、貧しい人も豊かな人も、第四の馬が出てきたらおしまいです。「見よ、青白い馬が現れ、乗っている者の名は『死』といい、これに陰府が従っていた。彼らには、地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられた」。「剣と飢饉と死をもって」とありますが、最後の「死」という言葉は「疫病」と訳した方がよいという意見もあります。いずれにしてもいちばんの問題は、死にしても、疫病にしても、それが神の手から出てきたかのように書いてあることです。人間いつかは必ず死ぬ、というような呑気な話ではないので、人を死に追いやる滅びの力が、小羊イエスが封印を解くことによって飛び出してきたというのです。まさしくハイデルベルク信仰問答が言うように、「健康も病気も、富も貧しさも、すべてのものが、偶然からではなく、父としてのみ手によって、われわれに、来るのであります」。

8節の最後にこう書いてありました。「彼らには、地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威が〈与えられた〉」。「与えられた」って、誰が与えたのか。4節にも「地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が〈与えられた〉。また、この者には大きな剣が〈与えられた〉」と書いてありました。「与えられた」というのはつまり、神が与えたのです。戦争も経済危機も疫病も、神の手から来る。受け入れがたい話かもしれません。しかしむしろ、こう考えるべきだと思います。ここに登場する馬たちは、自分自身の権限で行動しているわけではない。ただ神から一時的に与えられただけだ。また神さまに力を取り上げられたら、その瞬間に消え去るのです。死の力を見据えながら、これは決して絶対的な、それ自体で存在し得る力ではないと言うことができたとき、既にそこにヨハネは望みを見ていたと思います。

■けれどもまだ話は終わりません。第五の封印、第六の封印が開かれます。このところについては、多くの説明をする必要もないと思います。信仰のゆえに殺された殉教者たちの叫びが聞こえます。神の怒りのゆえに天地が激しく揺さぶられる姿が、ヨハネの眼前に生々しく現れます。その神の怒りに触れるくらいなら、山と岩に押しつぶされた方がましだとさえ言うのです。あまりに現実離れしているとお感じになる方もあるかもしれません。しかしむしろ、まさにここに世界の現実が正直に描かれていると読むべきではないでしょうか。この世界は、神の怒りによって滅ぼされるべき世界でしかないのです。そのことを、黙示録は醒めた目で冷静に見つめていると思います。

けれども第7章に入りますと、どこから現れたのでしょうか、「この後、わたしは大地の四隅に四人の天使が立っているのを見た。彼らは、大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて、――これは明らかに滅びの風、死の大風です――大地にも海にも、どんな木にも吹きつけないようにしていた」(1節)というのです。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない」(3節)。神が最後まで守ってくださるもの、それは神の僕たちであると言います。その神の守りを別の表現で言い表したのが、第6章11節です。

すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた。

「白い衣」、明らかに甦りのいのちを示す色です。祭壇の下で呻いている殉教者たち、ひとりひとりに白い衣が与えられている姿を見ながら、「仲間の僕たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つように」と言われます。ヨハネ自身、自分もまた殉教者の数を満たすために、神に待たれていると感じたかもしれません。恐れることはない。神は必ず、あなたを守る。白い衣を着せてくださる。

ここで封印を解いているのは小羊キリストです。既に一度殺された小羊です。考えてみますと、ここで殉教者たちが「神よ、いつまで裁きを行わずにいるのですか」と叫んでいるのは、本当はまず主イエスご自身の叫びであったはずです。神の御子イエスは、私どもの誰よりもこの世の現実を知っておられました。「小麦は一コイニクスで一デナリオン。大麦は三コイニクスで一デナリオン」という世界で生きることが、どんなにつらいことか、このお方は骨身に染みて理解してくださっていたし、「剣と飢饉と死をもって……人を滅ぼす権威が与えられた」という青白い馬の前に立ちながら、私どもの誰よりも怖がっておられたのは主イエスご自身であったのです。その主イエスがしかし、今は勝利しておられる。そして私どもひとりひとりのためにも、勝利のしるしである白い衣を着せてくださるのです。

■ヨハネの黙示録のたいへん優れた註解を書いた佐竹明先生という人が、第一の白い馬についてこういう解釈をしています。白い馬に乗っている騎士がキリストでないことは確かだ。しかし、軍事力の象徴というのでもないだろう。むしろ、これこそキリスト者の群れではないか、というのです。勝利を得た小羊が第一の封印を解かれた時、先頭を切って走り出したのは、キリスト教会であったと言うのです。もしかしたら、白い馬と11節の白い衣と、関係があるのかもしれません。「冠を与えられ、勝利の上に更に勝利を得ようと出て行く」のです。だがしかし、キリストの勝利を知れば知るほど、この世の悲しみに無関心であるわけにはいきません。まさにそこで、神に祈るのです。神よ、み心を行ってください。天におけるように、地の上にも。

この佐竹先生の註解書を読みながら、ふと思い起こしたことがあります。10年以上前に、東京代々木のオリンピックセンターで、説教塾という集まりのシンポジウムを開催したことがありました。海外からも講師を呼び、全国から数百人の説教者が集まり、大きな集会になりました。その説教塾の中心的な指導を担ってくださっているのは、かつてこの教会の牧師でもあった加藤常昭先生です。実はそのときのシンポジウムは、加藤先生の喜寿、77歳のお祝いも兼ねておりまして、加藤先生が挨拶の中でこんな話をなさった。この代々木のオリンピックセンターは、かつて日本陸軍の練兵場であった。子どもの頃、加藤先生も近くに住んでいて、もちろん本当はいけないことだけれども、よく金網の破れ目から中に入って、そこが格好の遊び場であったといいます。ある日、天皇陛下が閲兵のために代々木においでになると聞いて、友達と一緒にこっそり見に行った、というのです。天皇陛下は現人神であって、直に見たら目が潰れると教えられていたけれども、こっそり忍び込んで……遠くからでもすぐに分かったと言います。天皇だけは、白い馬に乗っていたから。友達と目を見合わせて、「目は潰れていないね」。

そこで加藤先生はさらに、こう言われました。かつて私は、まさにこの場所で、白い馬に乗った天皇を見た。白い馬というのは、くどいようですが、かつての日本人にとっても、二千年前のヨハネにとっても、勝利を得た者の象徴でしょう。白い馬に跨った天皇の姿は、今もまだまぶたに焼き付いていると、加藤先生は言われました。絶対に滅びないと誰もが信じて疑わなかった、天皇が支配していたこの場所に、今大勢の説教者が集まって、ただ神の言葉だけで戦おうとしている。ポロポロ涙を流しながらそう語られた加藤先生の涙は、赤い馬、黒い馬、青白い馬の現実を知っている人間の涙でもあったかもしれませんが、それにもまして、小羊イエスの勝利を信じる者の、感謝の涙だと思いました。

白い衣を着せられた私どもは、悲しみを知っているのです。キリストの勝利を知るがゆえに、だからこそ流すべき涙を知っているはずなのです。すべては、父なる神と小羊イエスのご支配のもとにある。望みを失うことなく、神の摂理、すなわち神の全能の、今働く力を信じ抜きたいと願います。お祈りをいたします。

主イエス・キリストの父なる御神、私どもが生きているこの国において、この世界において、あなたのご支配を信じ抜くことは、必ずしも容易ではありません。だからこそ、今も新しく、確かな幻を見せてください。小羊イエスが勝利者であることを、それゆえに、私どもひとりひとりのためにも、既に勝利の冠が約束されていることを信じて、ふさわしく戦い続けることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン