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わたしはある

2021年5月9日

嶋貫 佐地子
ヨハネによる福音書 第8章21-30節

主日礼拝

あなたはどなたですか?
そのように、彼らは主イエスに尋ねました。
あなたはどなたですか?
それに主は答えられました。
「わたしはある。」

このところ、入門講座ですとか、まだ洗礼を受けておられない方々、求道者の方々とよくお話をさせていただいております。そしてそこで話題になるのは、神様のような、どなたかがおいでになるのはわかっている。でもその方がどういうお方であるのかがわからない、ということでした。その方がどなたであるのか、どういうお方であるのか。それがわからないから、信じるということもなんだかピンとこない。するとある方が、長老でいらっしゃいますけれども、それは十字架を見たらわかる。と言われました。神様というお方がどういうお方であるか、それは十字架を見ればわかる。

今日のところは、第7章から続いていると思われる、主イエスとユダヤ人たちとの対話であります。そのときは仮庵の祭りであった。だから大勢の人たちがエルサレムに来ていて、その神殿の境内で主イエスは大胆に教えておられました。そしてそれを聞いた人たちの中には主を信じる人たちも出てきた。それで、ユダヤ人たち、特にファリサイ派の人たちは主イエスを捕まえたかったけれども、どうも捕まえることができない。彼らはいらいらしている。そういうユダヤの人たちに、主イエスが言われたのは、厳しい、審きの言葉でした。

「わたしは去ってゆく。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」(8:21)

そしてさらに「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」(8:24)とも言われました。

自分の罪のうちに死ぬことになる。
あなたたちは、罪のうちに死ぬ。
突き刺さるような言葉であります。恐怖を覚えますけれども、そのことを私どももまた、きちんととらえなくてはなりません。私どももまた、罪のうちに死ぬかもしれない。いつ死ぬかわからないのです。今日かもしれないし数年後かもしれない。でもそのときに、罪に堕ちているかもしれない。
けれども、そこで主イエスはこうおっしゃっているのです。
罪のうちに死ぬな。

「『わたしはある』ということを信じないならば」、あなたたちは罪のうちに死ぬ。そしてわたしの行くところに、あなたたちは来ることができない。わたしが属している上のところに、あなたたちは来ることができない。

すると彼らは尋ねたのです。「あなたは、いったい、どなたですか?」(8:25)そういうことを言うなら、わたしたちはあなたが何であると信じたらよいのか。ということであります。

すると主はそのあとも繰り返されました。
「わたしはある」
この言葉は、英語でいいますとI am. アイアム。という言葉で、ほんとうに短い。でもすべてを表しているような言葉です。I am. わたしであるとか、わたしだ、という意味です。
わたしである。わたしだ。
この言葉は、父なる神様がモーセに、ご自分のことを言われたときのお言葉でした。

「わたしはある。わたしはあるという者だ。」(出3:14)

それは言葉的には、わたしこそ、という意味があって、わたしこそ、「ある」のである。そしてそのとおりに、そのご存在は、ただおひとり、唯一であり、唯一の永遠であり、唯一の真実です。あなただけがほんとうのお方。あなただけが真実というお方なのです。そして真実だけがまことに存在される。その真実がなければ、すべてのものは存在しない。このお方はそういうご存在であります。

その父なる神様の「わたしはある」というお言葉で主イエスがここで言われたことには、もっと深く多くの意味がおありになっただろうと思われます。でも人はだれもそのことをふさわしく語ることはできないでしょうし、それに立ち入って考えることも不遜であると思われます。でもそれほどに、「わたしはある」、それだけですべてを表す。そして父なる神様もそのときに、ほかのことは何も付け加えられませんでした。わたしは神であるとも、わたしは創造者であるとも言われませんでした。でも、ただ神が、わたしだ、と言われたなら、そんなふうに、わたしはわたしだと言われたなら、それで十分なのであります。

その父のご自分を現すお言葉が、肉声といってもいいかもしれません。私どものところにやって来て、「わたしはある」と言われたのです。

主が二度目にそう言われたときには、主はこうおっしゃいました。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて『わたしはある』ということ」(8:28)が、わかるだろう。

「人の子」というのは主イエスのことで、「上げたとき」というのは十字架に上げたときのことです。ですから、あなたたちが、わたしを十字架に上げたとき、あなたたちは初めて、「わたしはある」ということがわかるだろうと言われたのです。そのときに初めて、わたしだ、ということが、わかる。

けれどもここに希望があったのです。あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。このままだとそうなる。こんなに悲惨なことはないので、主イエスだけがこの悲痛をご存じでいらして、だから「信じないならば」と付け加えられたのです。信じないなら罪のうちに死ぬ。だが、「わたしはある」ということを信じるなら、罪のうちに死ぬことはない。

わたしを信じるなら死ぬことはない。
ここにいた人たちの中で、多くの人が主を信じた(8:30)と最後にありますが、多くの人が主を信じた。その言葉を聴いて主を信じた。その人たちにも「信じるならば」と言われたことで希望が与えられましたし、怒っていた人たちにもそうです。「あなたたち」がわたしを上げたとき、それは「あなたたち」が自分の罪のうちに死ぬためではなくて、「あなたたち」が信じて、赦されるためだった。そうやって自分たちが流した血を、信仰によって飲むためだった。そうだったんだと、そのときに初めてわかる。

そのとき初めて、神がわかる。
上げられた方を見て初めてわかる。
わたしだと言われた方、これが神だ。
それほどまでに「あなたたち」をあがなうと言われた、父なる神の御心がここにある。
だから神がどういうお方であるか、
それは十字架を見ればわかるんだ。

主イエスがこの人たちを見たとき、その父の御心を見て、あなたたちは死ぬなと、おっしゃったのです。
それが父の御心であるから。
主は、だからここでご自分が父なる神として理解されないためにきちんとおっしゃいました。わたしは父が教えられたとおりに話している。自分勝手には何もしない。

「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」(8:29)

父と子はいつもごいっしょで。子はいつも父の御心を行う。それはいつも。だから今もです。
このあいだ、施設のなかで小児洗礼入会式がありました。そこにも、わたしはある。
このあいだ結婚式がありました。
そこにも、わたしはある。
葬儀がありました。そこにも。
昨日は納骨式がありました。
そこにも、わたしはある。
そして今も、
わたしだ。

そのことを信じる。信じるというのは難しいですけれども。でも、主が、その存在を与えてくださるのです。

そういえば、このヨハネ福音書の最後のところもそうでした。復活の主が、ガリラヤの湖に弟子たちをお訪ねくださいました。落ち込んでいた弟子たちに、主が会いに来てくださって、湖の岸辺で、主が「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(21:12)と言われて、いっしょにご飯をたべた。そのときに、みんな黙っていて、そしてこういわれています。「弟子たちは誰も『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」(21:12)
弟子たちは、もう「あなたはどなたですか?」と聞かなかった。主であることを知っていたからである。この方は主である。それを知っているということは、信じているからです。

今日はこのあと試問会があります。転入会と受洗志願の方たちが長老会の試問を受けます。
でもそこにも、わたしはある。
そこに来る人たちは、
もう「あなたはどなたですか?」と尋ねなくていい。

主であることを、知っているからである。

お祈りをいたします。

父なる神様
「わたしはある」ということをいつも、信じさせてください。
主の御名によって祈ります。アーメン