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戸を開けて、一緒に食事をしよう

2021年4月18日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第3章14-22節

主日聖餐礼拝

■1年と2か月ぶりに、主の食卓を祝います。「うれしくて、いつもより早起きしました」という人は、きっと私ひとりではないだろうと思います。もとより聖餐の食卓の中心に立つのは、私どもの喜びではありません。主がこの祝いの食卓を、どんなに喜んでくださっているか。その主の喜びに、私どもの思いを寄せたいと思うのです。先ほど、ヨハネの黙示録第3章の最後の部分を読みました。この聖餐の祝いの日にいちばんふさわしい御言葉を、神が与えてくださったと思います。20節に、このような主イエスの招きの言葉がありました。

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。

「戸を開けて、一緒に食事をしよう」。そのために、主イエスは私どもの扉、「心の扉」と言ってもよいかもしれません、その扉を主がたたいていてくださる。それに答えて戸を開けるならば、わたしは喜んで、すぐに中に入ろう、そして一緒に食事をしようと、主が言われるのです。多くの人が、この言葉を聖餐の食卓との関わりで理解しました。私どもと一緒に食事をすることを、誰よりも切実に望んでおられるのは主イエス・キリスト。その主の願いに答えて戸を開けるというのは、しかし、何も聖餐の場面に限ったことでもないだろうと思います。

この聖書の言葉は、おそらくですが、多くの人の愛誦の聖句にもなっていると思います。この聖句をもとにした讃美歌を、いくつも見つけることができます。一日の終わりに、布団に入るときに、ふっとこの聖書の言葉を思い起こすことがあってもよいかもしれません。ああ、そう言えば、イエスさまは一日中わたしの戸をたたいておられたんだろうな……。その主の声を聞いて戸を開けるときには、私どもはどうしたって、感謝と共に、申し訳なかった、という思いに至らないわけにはいかないだろうと思います。

■ここには、「戸口に立って、たたいている」とか、「だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば」、と言われます。ここで「戸」と訳されている言葉は、もしかしたら「門」と訳した方がよかったかもしれません。なぜかと言うと、原文では同じ言葉がこの箇所のすぐ前後にも出て来て、そこでは「門」と訳されているからです。ひとつは第3章の8節です。

「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない」。

先々週のイースターの礼拝でこの言葉について説教しました。「見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた」というのは、直訳すると、「見よ、わたしはあなたの前に、開かれた門を与えた」という文章です。「開かれた門」、それを主が私どものためにプレゼントしてくださる。そしてそれを閉じることは、誰にもできないと言われるのです。この表現が大切な意味を持つのは、第4章の1節にも同じ表現が出てくるからです。

その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。

ところがこのふたつの箇所に挟まれるように、ラオディキアの教会に対しては、第3章20節でこう言われるのです。「見よ、わたしは門の前に立って、たたいている」。「どうしてこの門を開けてくれないんだ。わたしはずっとたたき続けているよ」と、そう言われるのです。フィラデルフィアの教会のためには開かれた門が贈られて、けれどもラオディキアの教会のためには、主は門を開けておいてくださらないのだろうか。それは差別だ、などと考える人は、おそらくいらっしゃらないだろうと思います。

私どもだって、主イエスに対して門を閉ざすことがいくらでもあると思うのです。けれどもそんな私どもにも、主のみ声が聞こえてきたのです。「どうか、開けてくれないか。わたしを中に入れてくれないか」と言って戸をたたく音を、私どもも聞いたのです。それに答えて私どもが門を開けるということが、もしも起こるならば、それはしかし、主が辛抱強く門をたたき続けてくださったからでしかないのであって、その意味ではやはりこの「開かれた門」は、主が私どもに与えてくださる、贈ってくださるものでしかないのです。もしも主が、そうではなくて、「もう、うんざりだ」と、たたくのをおやめになったとしたら、私どもは閉ざされた門の中に永遠にひとりぼっちでいるしかなかったのであります。そのような私どもの信仰生活の現実を、このラオディキアの教会に宛てて書かれた手紙は、特に明らかにしてくれていると思います。

■先ほど読んだ20節と並んで、多くの人の印象に残ったのは、15節以下だと思います。

「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(15~16節)。

皆さんは、熱いでしょうか、冷たいでしょうか、それとも、なまぬるいでしょうか。おそらく多くの人は、自分はなまぬるいグループだと言うと思います。そこには謙遜の思いも混じっているかもしれません。しかしここは、謙遜なんかしている場合ではないので、なまぬるければ吐き出されるのです。もうひとつ言葉の説明をしておくと、ここで「わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」と言われているのは、口に含んだものをすぐにペッと吐き出すという意味ではなくて、汚い話で恐縮ですが、胃の中の物を嘔吐する、吐き戻すという意味です。

「熱くも冷たくもなく、なまぬるい。気持ち悪くて、吐きそうだ」。熱いお茶、それはたいへん結構。キンキンに冷えたビール、もう最高。けれどもあなたは、気持ち悪くて反吐が出ると、主が私どもにそう言われるのであります。これは非常に激しい発言です。もしも誰かにこんなことを言われたら、私どもは一生その人のことを赦さないでしょうし、しかし、いやちょっと待てよ、自分はその人に対してそこまでの態度を取ってしまったのだろうかと、その心の傷というか自責の念は、そう簡単には癒えないだろうと思います。しかしここでの問題は、こういうことを言われたのが主イエスご自身だということなのです。私どもが、主イエスに吐き気を催させるほどの存在になってしまっているというのは、しかしなお具体的には、どういうことなのでしょうか。

■ここで問題になるのは、「なまぬるい」とはどういうことか、ということです。「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしは吐き気がする」と言われるのです。なまぬるいとは、どういうことなのでしょうか。実は、主が既にその理由を17節で述べておられます。新共同訳の翻訳に注文を付けるようで申し訳ないのですが、原文では17節の冒頭に「なぜならば」という接続詞があります。16節から続けて読むと、こういう感じです。

「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。なぜかと言うと、あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているからだ」。

満ち足りて、豊か過ぎて、何ひとつ足りないことはない、神もいらないというほどの豊かさは、私どもと決して無縁ではないと思います。そしてそういう私どもの豊かさが、主イエスにとっては吐き気を催すほどのものになっているというのです。

ヨハネの黙示録の註解書などを読みますと、ほとんど例外なく、当時のラオディキアという町の豊かさを具体的に説明してくれています。18節には、金を手に入れなさい、白い衣を買いなさい、目薬を買いなさいと書いてありますが、これは当時のラオディキアの豊かさを具体的に反映した言葉遣いだそうです。ラオディキアには銀行がたくさんあった。それから有名な織物の産業が盛んであった。そして先進的な医学の進んだ町で、ことにラオディキアの目薬は有名だったと言います。そういう豊かさの中で、しかしラオディキアの教会の人たちは、「わたしは満ち足りている。何一つ必要な物はない」。神もいらない。そう言っていたというのです。

私どもにもよく分かります。皆さんの中には、物質的に豊かな生活をしている人もいるでしょうし、いくら何でも自分は豊かとは言えないな、と思われる方もいるだろうと思います。けれども、どんなに貧しい人も、「神さまなんかいらない」と言える程度の豊かさは持っているものだと思います。自分は豊かだから、自分にはこれがあるから、あれがあるから……自分のちょっとした特技だって、財産だって、はるか昔の学歴だって、何だっていいんです。私どもは例外なく、「神なんかいなくてもいい」と言える程度の豊かさは持っているのです。誰にだって、神以外のものにしがみついている〈何か〉があると思うのです。まさにそこで、私どもは、主イエスに吐き気を催させてしまう存在になってしまうのです。

けれどもそんな私どもに主は言われるのです。あなたは、何も持っていないではないか。お金もなければ着る物もない、目薬も持っていない。だからあなたは貧しいし、裸だし、目が見えていないではないか。「そこで、あなたに勧める」(18節)。わたしから金を買いなさい。わたしから、白い衣を買いなさい。そして、わたしから、目薬を買いなさい。

ある聖書学者が、おもしろい指摘をしてくれています。「金を買いなさい」とは、考えてみると奇妙な命令だ。なぜかと言うと、お札なんかない時代のことです、もし金を十分に持っている人なら改めて金を買い直す必要はないし、逆にもし金を持っていなければ金を買うこともできないではないか。しかしだからこそ、ここでの強調点が明らかになるのであって、大切なことは、〈わたしから〉買いなさい、ということだ。あなたの本当の貧しさに気付いているか。そのあなたを豊かにし、あなたの裸を覆い、あなたの盲目を癒すために、「わたしから」買うべきものを買いなさい。

何を買えばよいのでしょうか。どこで、何を、どう買えばよいのでしょうか。しかしこれ以上余計な言葉を重ねる必要もないと思います。まさにそのために私どもは、この聖餐にあずかるのであります。主イエスの声を聞いて戸を開けるとき、既に私どもは自分の貧しさに気付いております。そのとき既に、私どもはもう、なまぬるい存在ではなくなっているのです。

見よ! わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。

■この聖書の言葉と、一見矛盾するかのような聖書の記事があります。ヨハネによる福音書第20章です。主イエスがお甦りになった日の夕方、主の弟子たちは、既に主の復活の知らせを聞いていたにもかかわらず、家の戸に鍵をかけて閉じこもっていたというのです。ところがお甦りになった主イエスは、戸をたたくこともせず、壁を通り抜けて来られたのでしょうか、突然弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた、というのです。興味深いのは、そのときたまたま一緒にいなかったトマスという弟子がいた。他の弟子たちがそのトマスのために、こういうふうにイエスさまが訪ねて来られてね、ということを一所懸命伝えたけれども、トマスは絶対に信じようとしない。それで次の日曜日、今度はトマスも一緒に、やはり家の戸に鍵をかけて閉じこもっていたら、同じように主イエスが真ん中に立ち、また同じように「あなたがたに平和があるように」と言われたというのです。

お甦りの主を真ん中にお迎えした弟子たちは、まさにそこで、自分たちの根本的な貧しさを知ったのではないでしょうか。死の恐れと深く結びつく貧しさであり、しかしまたその貧しさは、私どもの不信仰とひとつになるような貧しさであります。その私どもの根本的な貧しさを癒す主の豊かさを、この弟子たちは鮮やかに見せていただいたのであります。

先ほど、ヨハネ福音書では、主は戸をたたくこともせずに入って来られたではないか、黙示録の言葉と矛盾するようではないかと申しましたが、もちろん矛盾でも何でもありません。最後まで信じようとしなかったトマスのために、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と主が言われたとき、まさにそこで主はトマスのためにいちばん激しく戸をたたいてくださったのではないでしょうか。

■毎月第3木曜日の教会祈祷会で、中村牧師が旧約聖書のエレミヤ書を1章ずつ説き進めています。エレミヤ書について、ここで長い話をするいとまはありませんが、まさに今の時代に教会が聞くべきみ言葉のひとつだと思いますし、実を申しますと、私がヨハネの黙示録を読み始める前、もうひとつ私の礼拝説教のテキスト候補として考えていたのが、エレミヤ書であったのです。先週の祈祷会で、エレミヤ書第15章を読みました。私は、特に第15章5節以下の言葉に、戦慄とも言うべき感覚を覚えました。

エルサレムよ、誰がお前を憐れみ
誰がお前のために嘆くであろうか。
誰が安否を問おうとして、立ち寄るであろうか。
お前はわたしを捨て、背いて行ったと
主は言われる。
わたしは手を伸ばしてお前を滅ぼす。
お前を憐れむことに疲れた。

神さまにも疲れることがあるのだろうか、などとのんきな読み方はできないだろうと思います。神を疲れさせるような、あるいは主イエスに吐き気を催させてしまうような私どもの罪に気づくべきです。しかしまた、疲れ果てるまでに私どもを愛し抜かれた神の愛は、結局のところ、主の十字架に至らざるを得ず、あのトマスの前にも突き付けられた主の手の傷、わき腹の傷は、「お前を憐れむことに疲れた」と言われるほどの神の苦しみの極みであると同時に、神の愛の勝利のしるしでもあったのであります。

その神の勝利の食卓に、今私どもも招かれるのです。最後の21節以下に、こう書いてありました。

「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」(21~22節)。

今、主と共に、勝利の食卓を囲みます。お祈りをいたします。

私どもを招いてくださる主のみ声を聞きつつ、今私どもも、門を開いてあなたのみ前に立ちます。あなたを悩ませてしまったことを、今心から申し訳なく思いながら、疲れ果てるほどに私どもを愛し抜いてくださったあなたの愛を、心からの感謝をもって受け入れたいと願います。今、1年2か月ぶりに聖餐を祝います。しかし、私どもがあなたを悩ませ、疲れさせてしまった時間は、1年2か月などという数字では言い表すことができないと思います。復活の日の夕方の弟子たちのごとく、私どももお甦りの主をお迎えしながら、悔い改めて、今共に勝利の座につくことができますように。この祈りを、心からの感謝と喜びをもって、主のみ名によってみ前にささげます。アーメン