1. HOME
  2. 礼拝説教
  3. あなたの前に開かれた門

あなたの前に開かれた門

2021年4月4日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第3章7-13節

復活主日礼拝

■主のご復活、おめでとうございます。今年は、異例のことですが、教会員の皆さん全員に、教会からイースターのお祝いのカードをお送りしました。そのカードに私の字で、先ほど読みましたヨハネの黙示録第3章8節の御言葉を書きました。本日、復活の祝いの礼拝で、この聖書の言葉を説教することになっていたからです。

「見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない」。

イースターのお祝いのカードにこの聖句を書いたのも、そしてイースターの礼拝でこの聖書の言葉を説教するのも、私の人生で初めてのことです。それだけに、しみじみとこの主イエス・キリストの言葉を味わいました。改めて、7節から読んでみます。

「フィラデルフィアにある教会の天使にこう書き送れ。
『聖なる方、真実な方、
ダビデの鍵を持つ方、
この方が開けると、だれも閉じることなく、
閉じると、だれも開けることがない。
その方が次のように言われる。「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない」』」(7、8節)。

「わたしはあなたの前に門を開いておいた」。もう少し原文に近づけて直訳すると、「わたしはあなたの前に、開かれた門を与えた」というのです。キリストが、私どもに与えてくださるものがある。「見よ、わたしはあなたにこれをあげよう、開かれた門を」。その開かれた門というのは、ただ自然に開いたとか、最初から開けっぱなしだったというのではなくて、キリストだけが開けることができた門であり、「この方が開けると、だれも閉じることができない」。そういう門が、今も開かれた状態で、私どもに与えられているというのです。たいへん不思議な恵みを語るみ言葉だと思います。

■このような黙示録の言葉を読みながら、同時に私がふと思い起こしたのは、マタイによる福音書第16章18節の主イエスの言葉です。主がペトロというひとりの弟子に向かって、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」と言われたのですが、たいへん興味深いことに、「陰府の力もこれに対抗できない」というのは、直訳すると「陰府の〈門〉も、これに打ち勝つことはない」という言葉なのです。「陰府の門」、地獄の門、あるいは死の国の門と言ってもよいだろうと思います。こういうところは、「陰府の力」なんて気を利かせないで単純に直訳してくれればいいのに、と思わなくもありませんし、最近新しく刊行された聖書協会共同訳は、しっかりと「陰府の門もこれに打ち勝つことはできない」と訳しています。

どんなに覚悟していても、愛する者の死はいつも突然です。死の力が向こう側から飛び出して来て、われわれをガっと捕まえて、サッとさらって行ってしまって、その死の国の門が閉じられると、もうわれわれはどうしようもないのです。泣いても叫んでも、愛する者の亡骸にどんなにすがり付いても、うんともすんとも言わない。「陰府の門」というのは、そういうことです。ところが主イエス・キリストの教会は、陰府の門もこれに打ち勝つことのできない力を委ねられている。そう言うのです。

「見よ、わたしはあなたの前に、開かれた門を与えた。だれもこれを閉めることはできない」。

主が開いてくださった門であります。この「開かれた門」が与えられているからこそ、私どもは根本的なところでは、もう死を恐れる必要はなくなりました。特にこの1年の間、私どもの教会は、たいへんな数の教会の仲間の葬りをしなければなりませんでした。けれどもこの教会はいつも、主が開いてくださった門のことを証しすることができました。主はお甦りになりました。それ以来、陰府の門は、もはや私どもを永遠に閉じ込める力を持つものではなくなりました。

■もうひとつ、「門」という言葉で思い起こすのは、ヨハネによる福音書第10章です。ヨハネ福音書第10章でいちばん有名な言葉は、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という11節の言葉ではないかと思いますが、もうひとつこの第10章において大切なのが、「門」というキーワードです。第10章7節では主イエスご自身が「はっきり言っておく。わたしは羊の門である」と言われます。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」(9節)と書いてあります。言い換えれば、その門が見つからなかったら、羊たちはいつまでも牧草にありつけない。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」。

ここで、私どもが羊という動物に譬えられているのは、決してわかりにくいことではないと思います。羊というのは、たいへんに弱い動物です。弱いというのは、もう少し丁寧に言えば、守ってもらわなければならない、羊飼いに導かれなければならないということです。たとえば、羊というのは非常に視力が弱く(私と同じでド近眼だそうですが)、目の前に美味しそうな草が生えていても、自分とその美味しそうな草の間にフェンスか何かがあると、ちょっと回り道すれば草のところに行けるのに、延々とフェンスの前でウロウロし続けるなどという話をどこかで聞いたことがあります。けれども、その羊の目の前に開かれた門が与えられてさえいれば、それで十分なのです。問題は、その門を通って救われるのか。その門を無視して、フェンスか何かの前で延々とウロウロしながら、こんなに頑張っているのにどうにもならない、誰も助けてくれないとつぶやき続けるのか。

「見なさい! わたしはあなたの前に、開かれた門を与えた。だれもこれを閉めることはできない」。
「あなたの前に開かれた門」。死に打ち勝つ、命の門であります。「だれもこれを閉めることはできない」。

■それに続けて、「あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった」と言われます。しかしこの新共同訳の翻訳は、誤解を招くかもしれません。「あなたは力が弱かったが」、にもかかわらず、「わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった」という話ではないのです。つまり、もしあなたの力がもっと強かったら、容易にわたしの言葉を守れただろう、それなのにあなたは、力が弱かったのに案外見事に成し遂げた、という話ではないのです。原文を素直に直訳すると、こうなります。「あなたの力は弱い。そしてあなたはわたしの言葉を守った。そしてわたしの名を知らないと言わなかった」。むしろ、フィラデルフィアの教会は、力が弱かったからこそ、自分の前に開かれた門が与えられたときに、すぐに喜んでその門を通らないわけにはいかなかった。そういうことであります。ヨハネによる福音書の伝える羊の譬えと一緒です。目の前に牧草が見える。門が大きく開かれている。陰府の力も、これを妨げることはできない、というときに、フィラデルフィアの教会に生きた羊たちは、自分たちの力が弱かったからこそ、主の言葉を守らないわけにはいかなかったのであります。私どもの救い主イエスの名を、どんなことがあっても否定するわけにはいかなかったのであります。

その力の弱い者たちの群れ、羊の群れに相対するように立つのが、9節に出てくる「サタンの集い」です。創世記第3章は、人間が初めてサタンの誘惑に負けたいきさつを伝えています。蛇が女に言い寄って、食べてはならない木の実を取って食べるようにそそのかしたという、たいへんよく知られた聖書の記事があります。先々週の夕礼拝で、中村牧師がこの創世記第3章を説教してくださいました。その中村牧師の説教の中で、ひとつ私が印象深く聞いたこと、そしてこれは特に夕礼拝に集まる若い人の心にも届いただろうなと感じたことがあります。創世記第3章1節に、「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」と書いてあります。そこで中村牧師は言うのです。「なぜ最初の女エバは蛇の誘惑に負けたか。野の生き物の中でいちばん賢いのが蛇であったからだ」。つまり、もし蛇が賢くなかったら、エバも蛇の誘惑なんか相手にしなかっただろう。けれども私どもも、いちばん賢い人から、あなたもこうすれば賢くなれるぞ、力を持つことができるようになるぞ、と言われると、そういう誘惑に私どもはいちばん弱いのです。

「あなたは力が弱かった」。なぜそこに立ち続けることができないのだろうか。「あなたは力が弱かった。だからこそ、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった」。そこに立ちさえすればよいのに、けれども、そこから私どもを引っ張り出してしまおうとするのが、サタンの誘惑です。キリストの言葉なんか聞かなくたって、人間として十分立派にやっていけるぞ。そのような誘惑に負けるとき、私どもは、主が大きく開けてくださった命の門の存在を、その尊さを忘れるのだと思います。

■ここで「サタンの集い」と呼ばれているのは、具体的にはユダヤ人のことです。興味深いことに、「サタンの集い」と訳されている言葉を原文のまま紹介すると、「サタンのシナゴーグ」というのです。シナゴーグというのはユダヤ人の会堂のことです。ところがそのユダヤ人の会堂が、「サタンの会堂」と呼ばれてしまっている。「見よ、サタンの集いに属して、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ」(9節)。ずいぶん激しい発言です。このような聖書の言葉が、後の時代に生まれたユダヤ人差別のひとつの原因になったことは間違いありません。もちろん、聖書自身に責任はありません。聖書を読み間違えた人間の罪深さが現れただけの話です。けれども当時のフィラデルフィアの教会の置かれた状況においては、どうしてもこのような激しいものの言い方をしなければならなかった事情があったのだと思います。

もともと、ユダヤ人というのは、神に選ばれた民です。神の選びがなかったら、つまり神の愛がなかったら、ユダヤ人の存在は最初からなかった。ところが新約聖書が伝えることは、その神に愛されたユダヤ人が、神ご自身に他ならない御子イエスを受け入れようとしなかったということです。そして、後の時代の教会、たとえばフィラデルフィアの教会も、ユダヤ人の憎しみと戦わなければなりませんでした。そのような教会が、「あなたは力が弱かった」と言われるのです。フィラデルフィアの教会は、この言葉の意味が痛いほどによく分かっただろうと思います。そうだ、わたしたちは弱い。弱り果てている。けれども、そのような教会に、主はこのような約束を与えてくださいます。9節の後半です。「見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう」。これも非常に激しいものの言い方です。

「見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし」、けれども、そのあとに書いてあることが大事です。「わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう」。最後に勝つのは、神の愛です。そのときに、ユダヤ人たちも悟るようになる。ああ、そうだ、この人たちは、キリストの教会は、神に愛されていたのだ。そしてそのとき、ユダヤ人たちもまた、自分たちがなぜ神に選ばれたのか、なぜ自分たちが神に愛されたのか、その理由を思い起こすことになるだろうと思います。申命記第7章6節以下には、宝石のように輝く御言葉があります。

あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである(申命記第7章6-8節)。

自分たちも、小さかったのだ。弱かったのだ。「他のどの民よりも貧弱であった」と書いてあります。貧弱であった〈にもかかわらず〉、というのではなくて、むしろ弱かったからこそ、小さかったからこそ、その貧弱な民を神は選んで、これを愛し抜いて、だからこそ御子イエスを、われわれユダヤ人のためにも与えてくださったのだ。ですから、最後の日にユダヤ人たちがひれ伏すのは、神の愛の足もとにひれ伏すのであります。神の愛に打ち負かされて、その神の愛の足もとにひれ伏すのです。ところがここで黙示録が「見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし」と書いているのはなぜかと言うと、12節にあるように、私どもが神の神殿の柱とされるからです。

「勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう」(12節)。

このような神の神殿、すなわち新しいエルサレムを造るために、まず神の御子ご自身が、まさしく神の小羊として、十字架につけられ、お甦りにならなければなりませんでした。そこに、陰府の門も対抗できない、神の神殿が建ったのです。私どもひとりひとりが、その神殿の生きた柱とされる。何の力も持たなかったのに、いやそんな私どもだからこそ、神の神殿の柱とされて、神の愛の証しとさせていただいて、今ここに生かされるのです。お祈りをいたします。

主イエス・キリストの父なる御神、あなたは御子イエスを、死人の中から甦らせてくださいました。あなたの愛が勝利することを、憎しみは必ず打ち負かされることを、確証してくださいました。私どもも弱い者です。愛することができません。憎しみの心に負けてしまいます。自分自身のうちに住む憎しみがあり、また他者から感じる憎しみの心があります。あなたの愛の勝利を信じて、今私どもも、あなたの神殿の柱として生かされることができますように。兄弟姉妹、互いに愛し合うこの教会が、あなたの愛を証しするために、ふさわしく歩み続けることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン