1. HOME
  2. 礼拝説教
  3. 主よ、わたしの足も洗っていただけるのですか

主よ、わたしの足も洗っていただけるのですか

2021年4月1日

川崎 公平
ヨハネによる福音書 第13章1-20節

受難週木曜日礼拝

 

■皆さんの中に、もしかしたら、11年前の4月1日のことを記憶していてくださる方があるかもしれません。2010年の4月1日木曜日、私はこの教会の牧師として着任いたしました。その4月1日の夜、受難週木曜日の聖餐礼拝の司式・説教をするところから、この教会での歩みを始めました。そのときにも、先ほど読みましたヨハネによる福音書第13章の記事を説教しました。私が自分でこの箇所を選んだわけではなくて、おそらく落合先生あたりが決めたんでしょう。しかし私は、この聖書の言葉は、本当に神さまが与えてくださったのだ、私のためにこのみ言葉を与えてくださったのだと感謝しながら、この教会での最初の説教をさせていただきました。11年前と同じく、4月1日木曜日、受難週の木曜日の礼拝をここでする。初心に帰ってみよう、などということをことさらに強調するつもりもないのですが、もう一度この聖書の言葉を皆さんと一緒に読んでみたいと思わされました。

一度読んだら忘れることのできない情景だと思います。既に最初の弟子たちが、ここで主のなさったこと、主がお語りになったこと、そのとき主の息遣いから仕草から、そのときの空気感まで、生涯忘れることができない記憶として、このように書き残してくれたのだと思います。4節。「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ」、その瞬間の動揺というか驚きというか、それを弟子たちは決して忘れなかっただろうと思います。「手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」。その水の冷たさも、手ぬぐいの肌触りも、ひとつひとつが鮮明な記憶として残ったことだろうと思います。

のちに、ここで主に足を洗っていただいた12人の弟子たち、正確にはその中のイスカリオテのユダを除く11人は、教会の伝道者として歩き始めました。一度は全員がつまずきましたが、もう一度立ち直って、つまり、自分の足でしっかりと立ち上がって、主がしてくださったことを証しする者として立たせられました。そのときに、おそらくこの弟子たちが、絶えず思い起こしたことは……今自分が、このように立っている。歩いている。伝道のために、町々、村々を訪ね歩いている、このわたしの足というのは、主が洗ってくださった足なのだ。このわたしの足もとに、主が奴隷のごとくひざまずいて、この足を洗ってくださった、清めてくださった、その足でもって、わたしは今立っている。「いかに美しいことか、良い知らせを伝える者の足は」というイザヤ書第52章の言葉をここで思い起こすことは、決してそんなに的外れなことではないだろうと思います。

日常の生活の中で、イエス・キリストというお方をどのようにイメージしているか、これは私どもの信仰の生活を作る上で、決して小さなことではないと思います。天の高みで、父なる神の右に座しておられるキリストを思い浮かべることもあるでしょう。私の横に伴い歩んでくださる主のお姿が、いつの間にか自分の生活の基盤になっている方だってあるでしょう。わたしの心の中に主はおられる。あるいは、わたしの前を主が歩いていてくださって、いつもわたしはその主の背を見つめている。いずれも間違いではありません。けれどもここで、福音書記者ヨハネがたいへん印象深く描いてくれた、弟子たちの足もとにひざまずく主のお姿を忘れることはできないだろうと思うのです。何気なく椅子に座っているときに、自分の足もとにうずくまるようにひざまずいておられる主のお姿を思うことが、あるでしょうか、ないでしょうか、などと質問してみてもしょうがないかもしれません。そんな主のお姿を想像することは、もしかしたら、私どもにとっても、ちょっと耐えられないくらいのところがあるかもしれないと、思うのであります。

■最初の十二弟子は、そのような主のお姿を、ただ夢の中で想像したんじゃない、生で体験したのであります。それは稀に見る僥倖と言わなければならないのかもしれませんけれども、このような出来事をどんなに近くで、生で体験したとしても、その体験の意味を正確に理解することができたかどうか、それはまた別問題です。7節にこのような主の言葉があります。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」。主のしておられることが分からなかったからこそ、ペトロは「わたしの足など、決して洗わないでください」と言ったのでしょう。この驚くべき出来事の意味を何も理解しなかったからこそ、ペトロは三度も繰り返して主イエスとの関わりを否認したのでしょう。「わたしはあんな人のことは知らない」。「わたしは、あの人に愛されたことなんかない。あの人を愛したこともない。あの人とは何のかかわりもない!」と言いながら、それでも主イエスはペトロのことを知っていてくださる、そのことの意味を、ペトロは理解することができませんでした。後で、分かるようになったのです。

8節の後半で、主はペトロに言われました。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」。これは無限の重みを持つ言葉だと、私は思います。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」。だがしかし、わたしは何としてもあなたの足を洗う。ペトロの足も、ユダの足も、わたしは洗う。あなたが何を言おうと、あなたが何を否定しようと、わたしは、あなたとかかわりを持ちたいのだ。ペトロも、後になって、主に足を洗っていただいたことの意味を、よく理解できるようになりました。

しかし、何を理解したんだろうか。「後で、分かるようになる」。何が分かったんだろうか。第13章の1節は、そのような意味で弟子たちが後から理解したことを書いているのだと思います。

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

ああそうだ、私は、私たちは、このお方に愛されたのだ。このお方は、わたしたちを愛して、この上なく愛し抜かれたのだ。その主の愛のしぐさを、ヨハネはこのように丁寧に伝えてくれています。「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」。主の愛の、その息遣いまで伝わってくるようです。しかも私どもは、「後で、分かるようになる」などと回りくどいことを言われる必要すらないのです。「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と、今既にはっきりと教えられているからです。その意味では、私どもは今、あの木曜日の夜の弟子たちよりも、よほど祝福された場所に立たせていただいていると、言わなければなりません。

■「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と言います。「愛し抜かれた」というのはたいへんすぐれた翻訳で、原文のニュアンスを汲んで少し別の訳し方をすると、「愛を完成した」ということです。この愛は、終着点に着いた。途中で挫折しなかった。私どもの愛は、たいていあっちで転び、こっちでつまずき、愛が完成したなどとは到底言えないだろうと思います。「愛し抜く」ということができないのです。けれども、主の愛は、途中で挫折しなかった。

その主の愛の特質を言い表すもうひとつの大切な言葉が、しかし残念ながら、新共同訳では隠れてしまっているところがあります。「世にいる弟子たちを愛して」と書いてありますが、この「弟子たち」というのが少し訳し過ぎで、口語訳聖書では「世にいる自分の者たちを愛して」と訳されていました。「自分の者たち」。これが直訳です。興味深いことに、最近新しく刊行された聖書協会共同訳では、口語訳に戻るかのように、「世にいるご自分の者たちを愛して」と訳しました。余談ですが、この新しい聖書協会共同訳というのは、時々このように口語訳に戻るようなことをいたします。この人たちは、わたしのものだ。わたしイエスのものだ。他の誰の所有にもならない。そして、ヨハネによる福音書は、この「自分のもの」という表現を、大切なところで用います。たとえば第10章3節、4節に、このような印象深い言葉があります。

「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」。

この羊はわたしの羊であって、他の人の手に渡すわけにはいかない。だから12節以下には、ここにも逆の意味で「自分の」という言葉が出てきますが、こう言われるのです。

「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである」。

けれどもわたしは違う。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(11節)。そう言われるのです。自分の所有である弟子たちのために、また私どものために、主は命を捨ててくださいました。弟子たちの足を洗う主のお姿は、この主の十字架の意味をそのままに表すものでしかありません。ここに、愛の完成が見えるのであります。

もうひとつ、「自分のもの」という表現が際立っているのは、第1章11節です。新共同訳では、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とありますが、実はここも「自分の民」というのが訳し過ぎなんで、口語訳では「彼は自分のところにきた」、そしてこれまた聖書協会共同訳が口語訳に戻るように、「言は自分のところへ来た」と訳しました。丁寧に言えば、主イエスは、ご自分の所有である者たちのところに来た、ということであります。ところが、その「主の所有」である者たちが、御子イエスを受け入れなかった。それどころか、これを足げにした。ところが、そのご自分のものたちの足を、主が洗ってくださったというのです。

「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」。しかし、わたしはあなたの足を洗う。何が何でも、あなたとかかわりを持つ。あなたは、わたしのものだからだ。ほかの誰にも、渡すもんか! だがそのために、私どもを神のものとするために、神にとっては他のいかなる方法も残らず、ただ御子イエスの命をお与えになるほかありませんでした。

■18節に、「わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった」とあります。これは明らかに、詩編第41篇10節の引用です。詩編の方を読むと、「わたしのパンを食べる者が威張ってわたしを足げにします」と書いてあります。それなら、福音書の引用の方も、同じように「足げにします」と訳した方がよかったのではないかと思います。はっきりそう書いてあるのですから(くどいようですが、聖書協会共同訳はきちんと、「私を足蹴にした」と訳してくれました)。そしてすぐにお気づきになると思います。「わたしのパンを食べている者が、わたしを足げにした」、その足というのは、主イエスがひざまずいて洗ってくださった足であり、よりにもよってその足が主イエスを足げにしたというのは……しかし不思議なことでも何でもないと思います。そのようなことは、私どもが毎日の生活の中でしてしまっていることでしかないのであります。

そのことを今、深く悲しみつつ、けれどもだからこそ、主の言葉に耳を傾けたいと思います。12節で、改めて主は言われました。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか」。今は、分かります。主イエスが、わたしのために何をしてくださったか。あのペトロが、どんなに主の愛を足げにするようなことがあったとしても、そのペトロの足を主が洗ってくださったという事実に揺らぐところはひとつもなかったし、今私どもが主の所有とされている、その事実が揺らぐこともないのであります。わたしは主のもの。わたしは、主の羊。そのような私どもが聞くべき言葉が、なお14節以下に、このように続きます。

ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである(14~17節)。

「幸いである」。「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、あなたは幸いである」。確かな祝福を告げる主の言葉のもとに、この鎌倉雪ノ下教会も集められております。そしてまさにこの教会において、主の愛が完成していることを、私どもの望みとし、確信としたいと願います。お祈りをいたします。

主イエスの御言葉が、今も私どもの耳に響き続けています。主が、「ご自分のもの」と呼んでくださったひとりひとりの足を洗い、きれいに拭ってくださったお姿は、私どもにとって慕わしいものであり、しかしまた、深い心の痛みを呼び起こされるものがあります。主の十字架と復活において完成したあなたの愛の中に、今まっすぐに立つことができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン