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天で起こっていること

2021年4月25日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第4章1-11節

主日聖餐礼拝

■先週の日曜日に引き続き、今朝も聖餐を祝います。もう1年以上聖餐を受けていないという方が、ほとんどだと思います。それに加えて、ぜひここにいる皆さんひとりひとりに覚えていただきたいことは、昨年この場所で洗礼を受けたけれども、まだ一度も聖餐の味を確かめていない、今日初めてその味わいを知るという教会の仲間がいるということです。既に先週、そういう仲間のひとりが、洗礼後ほぼ1年を経て、生まれて初めての聖餐を受けた。礼拝のあとに、ある方が感想を聞いたそうです。「初めての聖餐だったね。どうだった?」 その人は、「死ぬかと思った」と答えたそうです。私は、その人の言葉を、本当に嬉しく心に刻みました。「死ぬかと思った」というような感想が、思わず生まれるような、それほどの重みのある食事に、私どもはここで招かれるのです。

先週の礼拝でも同じようなことをお話ししたのですが、今日この場所に来ることができない仲間のことを忘れるわけにはいきません。先週も今週も、おそらく今後もしばらく、聖餐を受けることもできない、礼拝の動画配信を通して、聖餐の様子を画面越しに見るだけというのは、かえってつらいことかもしれません。しかしそこで、このように考えていただければよいと思います。もともと聖餐というのは、個々人がご利益にあずかるための儀式ではなく、教会がまさに教会である、そのことを明らかにするための行為です。「鎌倉雪ノ下教会は、聖餐を祝う共同体である」という事実が大切なのです。画面越しに聖餐を見ながらさびしい思いになるのは、むしろ当然のこと。だからこそ、まさにそこで、「私も主の教会につながるひと枝なのだ」という恵みの事実を思い起こすことができれば……本日発行した雪ノ下通信4月号にも、そういう主旨の文章を書きました。

新しい形の聖餐を準備するために、試行錯誤を重ねました。今日皆さんに取っていただくウエハースとぶどう液も、まず長老会のメンバー全員で試食をしました。「試食」という言い方は、人によってはちょっと抵抗を感じるかもしれませんが……。しかし私は、新しい形の聖餐の準備の過程で、ふとしたところで「試食」という言葉が出てきたとき、「いい言葉だな」と思いました。皆さんはここで、もちろん聖餐を試食するわけではないので、聖なる食事、そのものを味わうのです。けれども、そこで同時に私どもが知らなければならないことは、教会の祝う聖餐は、一方ではしかし、どこまで言っても試食の域を出ないという一面があるということです。試食というのはつまり、もっとすばらしい本番の食事が、あとに用意されている。それは、主が再び来てくださって、私どもが天の御国に迎えられたところでする、正真正銘の天国の祝宴です。だからこそ、私どもは聖餐を祝うたびに、「マラナ・タ」と歌うのです。「マラナ・タ」というのは、「主よ、来てください」という意味の言葉です。早く来てください、そしてどうか私どもを、あなたの祝宴に着かせてください。その時を渇望するような思いに誘われるということに関しては、実は、礼拝堂にいても動画配信を通してであっても、それほど変わらないかもしれません。けれども他方から言えば、試食と言えども、天の祝宴の試食をするわけですから、初めてそれを口にしたときに、「死ぬかと思った」という感想が生まれてくるのは、むしろ当然のことだと言わなければならないと思います。

■それで、「今日は何だか、前置きが長い」と感じられたかもしれませんが、今の話は前置きでも何でもなく、私は既にヨハネの黙示録の話を始めているつもりです。今日は、ヨハネの黙示録第4章を読みました。またもや先週と同じ話を繰り返すようで恐縮ですが、礼拝でヨハネの黙示録を読み進めてまいりまして、今日たまたまこの箇所を読んだのです。久しぶりに聖餐を祝う、この礼拝にいちばんふさわしい聖書の言葉を、神が与えてくださったと思います。それは、ヨハネが天の礼拝に招かれたという、たいへん不思議な幻の記録です。

ラッパの響きのような大きな声が、ヨハネに語りかけて言いました。「ここへ上って来い」。するとたちまちヨハネは開かれた天の門を通って、「わたしは、たちまち“霊”に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた」(2節)。言うまでもなく神です。その神の周りに、ライオン、雄牛、人間、鷲という4つの生き物がおり、さらにその周りに24人の長老たちがぐるりと座って、さらに第5章まで読み進めると、その長老たちの周りに、何万、何億という数の天使たちがいたということが書いてありますが、すべての者が神への賛美を歌い続けていたというのです。この第4章が語ることは、言ってみれば、それだけのことです。このような幻が、いったい私どもにとって、いかなる意味を持つでしょうか。

このヨハネという人が、幻を見る前も見たあともし続けたことは、人びとを礼拝に招くことでした。今私がしているのと同じように、と言ってよいと思います。礼拝を司式し、聖書の伝える福音を告げ、そして教会の仲間たちと共に聖餐を祝ったのです。そのヨハネが、ひと時も忘れなかったに違いないことは、天で何が起こっているか、天で何が行われているか、ということであったと思うのです。そのことをヨハネは、教会の仲間たちのために、何度でも語っただろうと思います。

11節に、「主よ、わたしたちの神よ」という、24人の長老たちの礼拝の言葉がありました。私が思いますに、ヨハネがこの賛美の歌を聞いたとき、涙が止まらないほどの思いを抱いたのではないか。なぜかと言うと、この言葉について学者が教えてくれることは、黙示録が書かれた当時、ドミティアヌスというローマ皇帝がいた。このドミティアヌスが新しく導入したローマ皇帝の呼び名があって、それがこの「主よ、わたしたちの神よ(ラテン語で Dominus et Deus noster)」という言い回しであったというのです。皇帝ドミティアヌスの名前を口にするたびに、必ずそれに添えて「主よ、わたしたちの神よ」と、誰もが言わなければならない。そのようなことを強制された教会が、どんなに苦しいところに追い詰められたか。そんな教会を慰めるために、神がヨハネに見せてくださった幻というのは、天において礼拝がひと時もやむことなく続けられている、ということであったのです。

ヨハネがいつもしていた礼拝も、さびしいものであったと思います。外に聞こえるような大きな声で賛美を歌うこともできない教会もあっただろうと思います。第2章12節以下のペルガモンの教会に宛てて書かれた手紙からはっきりすることは、当時の教会は、既に殉教者を生んでいたたということです。そういうところでなお主の日の朝に集まって、礼拝を続ける。いったい、自分たちは何をやっているんだろう。何のためにこんなことをしているんだろう。……けれどもそんな私どものためにも、天の礼拝の声が聞こえてきます。「主よ、わたしたちの神よ、/あなたこそ、/栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方」(11節)。その天の礼拝を見るために、「ここへ上って来い!」と、今私どものためにも天の門が開かれているし、そのための、この聖餐の食卓なのであります。

■私が説教の準備のときに必ず参照する書物の中に、矢内原忠雄という人の黙示録の聖書講義があります。戦中・戦後にかけて書かれたものです。矢内原先生は、無教会と呼ばれる集まりの指導者として有名な人ですが、戦前、東大経済学部の教授であった。ところが、南京事件、南京大虐殺とも言われる事件を批判したことが最後の決定的なきっかけになったとも言われますが、1937年、矢内原先生はすべての公的な立場を奪われることになります。この先生が、東大を追われたあと、改めて『嘉信』という個人雑誌を創刊なさり、ことに戦争中、その誌上で長く続けられたのが、まず旧約聖書ダニエル書の講義であり、さらにこのヨハネの黙示録の講義でした。その黙示録の聖書講義も、戦争が進むにつれて、ますます弾圧は甚だしくなり、矢内原先生の書いたものの中でもいちばん厳しい検閲の対象になったのが黙示録の講義であったと言います。遂に矢内原先生は筆を折る決断をし、終戦後、また講義の続きを執筆し、ようやく完結したものを、今私どもも自由に読むことができます。

矢内原先生の心中を、私のような者が忖度することも許されないかと思いますが、やっぱり、つらかったに違いないと思います。どんなに心細かったかと思うのです。私は別にここで、信仰の英雄の話をしようというのではありません。ただ矢内原先生が、ヨハネの黙示録の言葉にどんなに深く慰められていたか。どんなに大きな勇気を与えられたか。とりわけ、この第4章の説き明かしの言葉からは、そのことがよく分かると思います。たとえば、こういう言葉があります。

神の国は地にあるものを積み重ねて行つて成るのではない。地の状態を改善して天に達するのではない。神の国は天にあつて既に成つて居るのである。(『聖書講義Ⅳ』岩波書店、1978年、437頁)

本当に神はいるんだろうか。もし神がいるならば、そのしるしをどこに見出すことができるだろうか。誰もがそういう疑問を持つことがあるだろうと思いますし、その意味でこの矢内原先生の言葉は、決定的なことを語っています。右を見ても、左を見ても、神も仏もあるものかと言われたら、そうだ、その通りだと言うほかない。これは非常に悲観的な発言です。「神の国は地にあるものを積み重ねて行つて成るのではない。地の状態を改善して天に達するのではない」。地上で起こることについて、徹底的に絶望すること、正しく絶望することを教えるのです。こんなに徹底的な悲観論は他に見つからないかもしれない。けれども、そこで矢内原先生は言うのです。地上に神の国を見ようったって、つまり言い換えれば、神の支配のしるしを見ようとしたって、それは無理な注文だ。だがしかし、天を見よ。「神の国は天にあつて既に成つて居るのである」。さらに続けてこうも書いています。

我らは地によつて天を見ず、天によつて地zzを見る。天が我らの人生の立脚点であり、我らが世界の状態を見る監視哨である。

「監視哨」というのも面白い表現ですね。敵の動きを見るための場所のことです。われわれは、天の視点からこの世界を見る。そして言うのです。

されば世の波風が何だ。信仰維持に困難なる時勢が何だ。我らの立場は天にあって、既に勝利を得ているのである。

どれほどの覚悟をもって、このような文章を書いたかと思います。それだけに、主がヨハネに告げてくださった最初の言葉、「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう」というキリストの御声は、いつ終わるとも知れない戦争の中にあって、矢内原忠雄というひとりの人をどんなに深く慰めたかと思うのです。私どもが今経験している不安は、ヨハネのした経験に比べて、あるいは矢内原先生の経験に比べるならば、全然小さいなどと考える必要はないのであります。今私どもも、「ここへ上って来い」、「あなたも天の礼拝に参加せよ」と……その主の招きの声が、いちばんはっきり聞こえてくるのが、この聖餐の食卓であります。

■このあたりで説教を終えてしまってもよいかもしれませんが、しかしここでどうしても、第5章のことに触れないわけにはいかないと思います。本来、このふたつの章は続けて読むべきもので、それはつまり、第4章はそれだけで「めでたし、めでたし」という話には終わらなかったということなのです。むしろこれは、大きな物語の始まりに過ぎない。第5章の最初に、こう書いてあります。

またわたしは、玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た。表にも裏にも字が書いてあり、七つの封印で封じられていた。また、一人の力強い天使が、「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれか」と大声で告げるのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開くことのできる者、見ることのできる者は、だれもいなかった。この巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見当たらなかったので、わたしは激しく泣いていた(第5章1-4節)。

ヨハネは最初、幻のうちに天の礼拝に参加させていただいて、心躍る思いであったと思います。しかもそのヨハネの礼拝体験には、第4章1節にある通り、「この後必ず起こることをあなたに示そう」という神の約束が添えられていたのです。これからどうなるのだろうか。神さまは、どういうご計画をお持ちなのだろうか。その神のご計画が記されているであろう巻物には、ところが、封印がしてあって読めません。ひとりの力の強い天使が、誰かこの封印を解く者はいないかと叫びますが、名乗り出る者はどこにもおりません。

ヨハネは、激しく泣きました。神のみ旨が見えない、神さまが何を考えていらっしゃるのか、どこを見てもそれが分からないという絶望を、決定的な形で突き付けられたからです。本当は、誰もが知っている涙です。預言者矢内原忠雄が心のうちに流したであろう涙も、そのようなものであったに違いないと思います。

けれども、天にいる長老のひとりがヨハネに語りかけてくれました。「泣くな。見よ」。屠られた小羊が、七つの封印を開いて、その巻物を開いてくださる。屠られた小羊、十字架につけられ、けれどもお甦りになった主イエス・キリストです。

ここで私どもがいただくパンは、十字架につけられたお方の体。この杯は、あのお方が十字架で流された血。お甦りになった主の手とわき腹には、なおその傷が残っていたと言います。そのお方と共に、今私どもも食卓を囲ませていただくというときに、ただそこで個人的なご利益というようなみみっちいものを求めることはありません。この世界が既にこのお方のご支配の中にあることを、確かな希望として受け入れたいと願います。お祈りをいたします。

「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」。御子イエスが教えてくださったこの祈りは、私どもにとって、しばしばとてもつらい祈りになります。神さま、あなたが生きておられることを、どうかあなたご自身が明らかにしてください。何が見えなくなっても、たとえ世界中どこにもあなたへの賛美が聞こえなくなるようなことが、もしもあったとしても、天においては賛美と礼拝があふれていることを、確信をもって受け入れ、その事実に支えられて、なお私どもの礼拝の歩みを続けさせていただくことができますように。小羊イエスのご支配を心より感謝し、主のみ名によって祈り願います。アーメン