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神の腕

2024年4月21日

ヨハネによる福音書 第12章36b-50節
嶋貫 佐地子

主日礼拝

 

誰でも「聖書」に初めて出会った時というものがあるものです。初めて聖書の言葉を聴いたという時や実際に聖書を手にとって読んでみた時のことです。昔のことで覚えてないなーと、いわれる方も多いかもしれません。今日はこの礼拝に中高生も出ていますが、今がそうです、という人もいることでしょう。でもそんな人もこれからわかっていかれると思います。聖書を読んでいると時々、刺さります。それもまるで今の自分を知っているみたいな、自分にぴったりな言葉が用意されていたりします。

自分のことは、自分でもよくわからなかったりしますが、そんな自分が「誰かに知られている」と思うと、恐ろしくなりますし、でもそれが、神様なら、そうなんですね、と素直に受け取っていいのだと思います。

だから聖書には自分みたいな人がよく出てきます。だめな人や、おっちょこちょい。頑固者。悪いことを考える人。それから、自分のことが嫌になる人。私たちのことを聖書はよく知っています。でも本当は、聖書は、私たちのことを中心に書いているのではなく神様のことが書かれてあります。神様はどんなお方か。神様は、どんなことをなさったかということが書かれてあるのです。

旧約聖書と新約聖書がありますけれども、でもそれは一つのつながったお話です。ある外国の作家が、それはたとえば、と言ってこんなふうに言いました。「たとえば、まるで危険をかえりみず、遠い国から失われた者を取り返しに行く、勇敢な王子の愛の物語。」

メルヘンに聞こえるかもしれませんが、うなずくことができます。まるで危険をかえりみず、遠い国から、すべてを投げうって失われた者を取り返しに「来た」、一人の王子の愛の物語。それで聖書は一つにつながっていますし、そしてそれは、ほんとうに起こったと言われているのです。

そのように聖書が「愛の物語」だとしたら、その中でも「愛の中の愛」と言える言葉があります。このヨハネ福音書の第3章16節の言葉です。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

神様はどうしようもなく世を愛された。だから、一人息子を与えようと思った。それはその子を信じる人が、永遠の命をもらって、決して死ぬことがないように。

この言葉はとても多くの人に親しまれており、教会学校のクリスマスでも、いつも最後に子どもたちと中高生がみんなで告げる言葉です。クリスマスに告げられるべき御言葉です。神様はその独り子をお与えになったほどに、どうしようもなく世を愛された。それはその子を信じる人が、永遠の命をもらって、決して死ぬことがないように。

神様にはその目的があったのです。
私たちが決して死ぬことがないようにと神様は願われました。「御子を信じる者が一人も滅びないで」とあるように、「永遠の命」というのは、「滅びない命」です。
「滅び」というのは「裁き」に関係があります。神様は、罪がある世を裁く方であることを、ちゃんとわきまえなくてはなりません。ですから、「滅び」とか「裁き」は、神様から見捨てられる状態をいいますが、でもそれは神様が見捨てるというよりも、人が救いを拒否するから、そんな状態になるのです。

でもさっきの言葉に続く第3章17節をみますと、こうあります。

「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。

神様が独り子を遣わされたのは、「裁く」ためではなく「救う」ため。神様がご自分を拒否する世を、「裁く」ためではなく、「救う」ため。

神様には、そんな大きな目的があったのです。
そのようにして私たちが決して滅びないように、決して死なないように。「永遠の命」を与える、そのために神様は一人息子を与えたというのです。「与えた」というのは、十字架に「与える」という意味をもっています。神様は一人息子を十字架に与えられました。それほどに世を愛された、というのです。愛する者のために、どのような犠牲を払うか、といったら、神様はその一人息子をお与えになったというのです。

それで今日は、その同じヨハネ福音書の第12章の終わりになりました。この12章の終わりは、一つの区切りになっていて、これまでのことがまとめられているようです。それでこの愛がどうなったか、というと、今日の初めにこうありました。「イエスは……彼らから身を隠された」(12:36)。主イエスが、身を隠されて、人々の前からいなくなられたのです。

この後になりますと13章からは弟子たちとの最後の晩餐の時となって、かけがえのない時となって、もう主イエスは人々の前には現れておいでになりません。そして次に主が世の人々の前に出て来られるのは、それはもう十字架の時です。

そうすると、世の人々に、主イエスが最後に、お話しになったのは何だったのだろう、というと、この直前のところでした。35節からです。

「光は、今しばらく、あなたがたの間にある。闇に捕らえられることがないように、光のあるうちに歩きなさい。」

最後の言葉は、光のあるうちに歩け、という言葉でした。もうすぐ闇になるからとおっしゃいました。今は夕方で、もうすぐ暗闇になるから、光のあるうちに、光を信じなさい。でも、それが人々への最後の言葉になったのです。なぜなら、彼らが信じなかった(12:37)からです。

主イエスが彼らの前で多くのしるしをなさったのに、彼らが主イエスを信じなかったからです。そうしたら彼らの前から、光が消えたのです。

そしてその闇の中で、人々は十字架の相談をしてゆきます。

すると、その闇の中で声が聴こえてきました。旧約聖書の預言者であるイザヤの言葉でした。

「主よ、誰が私たちの知らせを信じましたか。/主の腕は、誰に示されましたか。」

「主の腕」といわれる、神様の腕が伸ばされたのに、愛の腕が伸ばされたのに、でも世は信じなかった。そのうえ、人々が信じなかった理由を、預言者イザヤはこう言いました。

「神は彼らの目を見えなくし/心をかたくなにされた。/彼らが目で見ず/心で悟らず、立ち帰ることのないためである。/私は彼らを癒やさない。」(12:40)

とても厳しいことが言われています。これは、裁きの言葉です。神様が裁きの言葉を語られました。彼らの目を見えなくする。心をかたくなにする。それで信じることができなくなる。

信じることができないというのは、つらいことです。それは求道者の皆様だけでなく、もう何十年も信仰をもっている人も、そういう危うさをもっています。ふと、わからなくなります。この愛がわからなくなります。そういうことが、自分の意に反して襲ってくるのです。こわくなるのです。

そういうことを考えますと、これはどうしてかと思います。すると彼らが信じなかったのは、神様のせい?となって。でもそれではどうにもならないです、と思わされます。

そもそも信じるとは何でしょう。この数日も「信じるって何ですか?」と何回か聞かれました。そうですねと答えました。私もわかりません。
でも、信じるということが、なぜか、自分の中で起こります。信じようと、自分でがんばっても信じられるようになるわけでもなく、ただ自分の真ん中にそういうことが起こってきます。

そうすると、それは誰がなさるんでしょう?信じるとはどこから来るのでしょう?誰が信じさせてくれるのでしょう?ある女性の伝道者が「私にもわからないわ。だって神様からのいただきものだもの」と言われたことを聞きました。信じるとは、神様からのいただきものだもの。だってそうでしょう?そうですね。信じるとは神様からいただくものなのでしょう。神様から来るのでしょう。

でもそれがここでは閉ざされてしまいました。どうしてでしょうか?
そうして読みますと、このイザヤの言葉は一体いつのことでしょうか?イザヤという人は昔の人で、この時代から500年以上も前の人です。それなのに、福音書は言います。

「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。」(12:41)

イザヤは主イエスの栄光を見た、と福音書は言いました。イザヤはその時すでに、主イエスに神の栄光を見た。それで語ったというのです。栄光とはここでは十字架のことですから。だからイザヤはその十字架を見て、主イエスについて語ったのだ。いや、イザヤはそれを神様から見せられて言わされたのだ。
人は信じない。
神様はわかっていた。
神様は彼らが拒否するとわかっておられた。それで神はさらに彼らを頑なにされた。悟らないように目を見えなくされた。どうしてか。

神様には目的があったから。
十字架という目的があったから。人々が十字架に進んでゆく時に、さらに彼らを頑なにされた。「神は、その独り子をお与えになったほどに」。一人息子を十字架に与えるほどに。ご自分を拒む、その世を裁く、しかしその裁きを受けるのは、一人息子だったから。
神様は、信じない者さえ用いられて、その目的を遂行されました。

それほどまでに神は「世を愛された。」

そのイザヤの「主の腕は、誰に示されましたか」というのは、先ほど読みました旧約聖書のイザヤ書第53章1節の言葉です。そこは「苦難の僕の歌」と呼ばれているところです。「彼が担ったのは私たちの病/彼が負ったのは私たちの痛み」(イザヤ53:4)というところです。主イエスの十字架そのものが預言されている所です。聖書が一つにつながっているということが、わかるところです。そしてそのことがほんとうに起こったので、私たちもここにいるのです。この愛がなされたので、私たちも「一人も滅びないで」という、神様の真剣な思いの中にいるのです。

イザヤの預言のあと、もう一つの声が暗闇の中に聴こえてきました。主イエスの声です。主イエスが「叫んでいる」と言われています。

これは主イエスが身を隠されたあと、もう一度主が、人々の前に現れたのではなく、これまで主イエスが言われていたことがもう一度、ここで繰り返されているのです。これまで、12章まで、主が叫ばれてきたことがもう一度、トンネルの中で響いて来るように、闇の中で聴こえてくるのです。そしてその中にこうありました。

「私は、世を裁くためではなく、世を救うために来た」(12:47)。

さっきの「神は、その独り子を」の言葉のすぐ後に、主イエスが言われていた言葉が、また繰り返されました。「神が私を遣わされたのは、世を裁くためではなく、救うため。」それがもう一度。もう一度ここで、聴こえてきたのです。

私は、裁きに来たのではなく、救いに来た。

私どもはその声を聴き続けます。たとえ、自分が闇の中にいたとしても、その声が聴こえてきます。私自身も思います。私もどうなってしまうだろうと思わされました。もし主イエスが自分の中にいなくなられたら、どうなってしまうだろう。どうなってしまっていただろう。私どもも私どもの中に、主イエスがいなくなられたら、どうなってしまうでしょう。どうなってしまっていたでしょう。

死んじゃうだろうなと思いました。ほんとうに死んじゃうだろう。主イエスが、この自分の中にすべてを投げうって来てくださらなければ、死んじゃっていただろう。とうに滅んでいただろう。
でもそんな自分に、主が「私はあなたを裁きに来たのではなく、救いに来た」とおっしゃってくださったら、私どもは皆、この愛を信じるしか、ほかになにもないのです。

私ども一人ひとり、その光の中を、歩いてゆきたいと思うのです。

 

天の父なる神様
この愛を信じさせてください。
主の御名によって祈ります。アーメン