1人は良いか良くないか
中村 慎太
創世記 第2章18-25節
コリントの信徒への手紙一 第7章1-7節
主日礼拝
私たちは、どのような生き方をするにせよ、主なる神の栄光を現し続けます。わたくしたちがもう主のものとされているからです。
今日読んだ新約のみ言葉、コリントの信徒への手紙一第7章では、伝道者パウロが、コリント教会のある問題に対して回答をしています。コリント教会の信徒が、以前伝道者パウロに、手紙で質問をしたのです。「パウロ先生、教会にこんな問題がある、こんな問題もある、どうしたらいいのでしょう」と。それらに関して、パウロは手紙で、一つ一つ答えているわけです。
今回のパウロの回答はこうです。コリントの信徒への手紙第7章1節から。
「そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。」
どうやらコリント教会員の中に、結婚関係の問題を抱えている者がいたようです。結婚していたはずが、その関係が壊れてしまった。さらには、配偶者以外の誰かと関係を持つという、みだらな行いまで起こっていたようです。
パウロは伝えます。独身であるなら、みだらに異性と関係を持たないようにしなさい、と。また、結婚する者は結婚し、配偶者以外と関係を持つようなことをしないように、と伝えます。
また、結婚をしているなら、互いの夫婦の間柄も、大切なものとしなさい、とパウロは伝えます。3節から。
「夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。互いに相手を拒んではいけません。ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。」
どうしてパウロがこのように伝えなければならなかったのか、それには当時の背景を知る必要がでてきます。当時の地中海世界には、ある禁欲主義が広がっていました。夫婦の間の営みを汚れと考え、そこから離れることで自らの魂をさらによくすることができる、などと考えるような思想が、地中海世界に広まっていたのです。人間の行為に善と悪を定めて、肉体的な行為を否定することで、自らを高めようとする、グノーシス思想と呼ばれるものです。このグノーシス思想は、教会の者たちをも、ずいぶん惑わせることとなりました。
コリント教会には、そのグノーシス思想などの影響で、禁欲主義に陥る人がいたようです。それによって、夫婦の間の関係が変わってしまった。欲求に負けて、配偶者ではない誰かとの関係を持つことで、みだらな関係が生まれてしまった。そのような問題が、教会員のうちに起こったようです。
パウロは、夫婦は夫婦として、その関係を大切にすることをパウロは認めます。祈りのために、一定期間夫婦の交わりに距離を持つことはあっても、変な禁欲主義に陥ることはないのだ、と。むしろ、そのような禁欲主義で、配偶者が誰かとのみだらな関係を求めてしまうようなことがあってはならない。そのようにして、サタンに付け入る隙を作らないようにしようではないか、とパウロは伝えるのです。
ここで改めて確認しますが、パウロは結婚を必ずしなさい、とも、必ず独身でいなさい、とも命令しません。独身者も、結婚する者も、どちらも教会のなかにいていいのだ、とパウロは伝えます。6節から。
「もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません。わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。」
パウロは、このように独身と結婚について、教えるのでした。
さて、今日の聖書の箇所はそのように単純に教会には独身の者と結婚する者がいていい。みだらな行いは避けなさい。とそれだけを伝えている箇所なのでしょうか。そのような、一般的なことだけを語っているのでしょうか。
それだけではないのです。独身にしろ、結婚にしろ、私たちは神さまの栄光のために、生きるのです。
特に私たちが今日注目したいみ言葉は、7節の、「人はそれぞれ神から賜物をいただいている」という言葉です。ある者は、パウロのように独身の生活をするという賜物を与えられている。そしてある者は、結婚をするという賜物を神さまから与えられている。
そのどちらであっても、そのように生きることは、賜物です。賜物、それは神さまからのものだということです。つまりは、その生き方という賜物は、神さまのために用いていくことなのです。独身でいることも、結婚することも、自分のためではないのです。
パウロが第7章で結婚の話をする前に、ずっと丁寧に語ってきたことがあります。それは、「あなたたちはもう神さまのものとされているのだ」ということです。第6章でもそのことが繰り返し、語られています。
あなたたちは「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」。第6章11節です。もう一か所。「あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」。第6章19節からです。
あなたたちは、かつては自分を自分のものだと考えていた。自分のために独身を選び、自分を高めることができると思った者もいたかもしれない。自分のために、配偶者を得たいと考えた者もいたかもしれない。配偶者のことまで、自分のものだと思ったことがあったかもしれない。そのように、どこまでも自分中心だったことがあるかもしれない。
しかし、私たちは、実は、主なる神さまのものだ。私たちを造り、愛し、救ってくださった、主なる神さまのために生きることこそ、私たち教会に集う者の生き方なのだ。なぜなら、あなたたちはその主なる神さまに、イエスさまに救われたのだから。もうその主の栄光のために生きるものとされているのだ。
そのようにパウロは伝え続けているのです。
独身であろうが、結婚しようが、私たちは自分のためではなく、主の栄光のためにその生き方をします。
例えば、結婚をとるにしても、その中心は主なる神さまです。結婚は、新郎新婦が中心のように思えるものですが、その真ん中に主なる神さまがいてくださらなければ結婚はあり得ません。
教会の結婚式準備で、新郎新婦となる者たちに必ず教えることがあります。それは、結婚式も礼拝だということ。そして、結婚式の中心は、新郎でも新婦でもなく、主なる神さまだ、ということです。
例えば、新郎と新婦は、結婚式という礼拝の間、ほとんど前を向きます。互いに向き合うことは、指輪の交換の時くらいです。結婚式で最も大切な、誓約も、新郎新婦が互いに向き合ってするのではありません。新郎と新婦が、一緒に主の方を向いて、主を見上げてそれぞれが誓約をするのです。一緒に主の方を見る二人に向かって、牧者は結婚の成立を宣言するのです。
結婚式一つをとっても、主なる神さまが中心であることが示されます。主に生かされている私たちが、どのような生き方を与えられたとしても、私たちはその生き方を主のためにささげます。
さて、私たちが主のものとされていることを、旧約で力強く言い表している書があります。しかも、その書においては、主なる神さまと私たちの間柄を、夫と妻として伝えるのです。つまりは、主なる神さまが夫として、私たちを妻として迎え入れるように、私たちが主のものとされたということです。
今日は旧約のホセア書も、私たちは共に聴きました。主なる神さまが、預言者ホセアを通して、イスラエルの民に向かって、信仰者の群れに向かって、語りかけます。
そこには、かつて主なる神さまに愛されていたはずなのに、主ではなく偶像に頼ってしまった民に対する怒りの言葉もありました。しかし、離れ去ってしまった民に向かって、主は憐みと慈しみと共に語り掛けるのです。ホセア書第2章 16節から。
「それゆえ、わたしは彼女をいざなって/荒れ野に導き、その心に語りかけよう。そのところで、わたしはぶどう園を与え/アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。そこで、彼女はわたしにこたえる。おとめであったとき/エジプトの地から上ってきた日のように。その日が来ればと/主は言われる。あなたはわたしを、「わが夫」と呼び/もはや、「わが主人(バアル)」とは呼ばない。わたしは、どのバアルの名をも/彼女の口から取り除く。もはやその名が唱えられることはない。」
イスラエルの民は、出エジプトの後、カナンの地に定住し、バアルと呼ばれる偶像崇拝対象に染まってしまいました。しかし、主はその民に言われるのです。出エジプトの後の荒れ野の時代のように、わたしはあなたとの関係を回復する。もう偶像に姦淫するようなことはするな。そして、私はあなたを、妻として迎え入れる、と。
さらに主なる神さまは言われます。ホセア書第2章21節から。
「わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。わたしは、あなたと契りを結び/正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。わたしはあなたとまことの契りを結ぶ。あなたは主を知るようになる。わたしは彼女を地に蒔き/ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ/ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって/「あなたはアンミ(わが民)」と言う。彼は、「わが神よ」とこたえる。」
主が私たちを慈しみ憐れみ、私たちと契りを結んでくださる。私たちは我が民、と呼ばれ、私たちもまた主なる神さまを、わが神よ、と呼べるようになる。主はこのように預言を与えてくださいました。
ホセア書には、実際に預言者ホセアが神さまからある結婚を与えられます。それは遊女であった女を、妻として迎え入れるということでした。このホセアの結婚は、神さまの人間への愛を表すための、預言の行いでもありました。
他の者と姦淫してしまう遊女のように、バアルなどの偶像に依り頼んでしまうイスラエルの民を、神さまは慈しみ憐れんでくださるというのです。関係を絶たれて、見捨てられてもおかしくなかったはずのその民を、主なる神さまは、まさに結婚するように、ご自分の民と、ご自分のものとしてくださるのです。
預言者ホセアは、そのように主なる神さまが私たちを慈しみ憐れみ、私たちと永遠の契りを結んでくださる時が来ることを預言しました。
この預言が成就する時は、主イエス・キリストの十字架の時でした。罪によって主から離れて、偶像を中心に、自分を中心に生きてしまう私たちを、主イエスは十字架によって救ってくださいました。その救いは、主イエスご自身が、十字架で、私たちよりさらに低いところに、深い苦しみを負ってくださることで実現しました。
教会は、主なる神の花嫁と例えられることがあります。私たちはこの主イエスの苦しみという代価によって、買い取られた者なのです。主イエスの十字架による罪の赦しで、主なる神さまの花嫁にまで引き上げられたのです。
伝道者パウロが、コリント教会の人々へ回答する際にも、ホセア書に示された主なる神さまの愛が根底にあるのです。主なる神は、あなたたちを愛して、妻に迎え入れるように、主のものとしてくださった。そのあなたたちは、もう偶像に陥るように、主から離れないように生きる道が示されている。独身であるにせよ、結婚するにせよ、主の愛を思いながら、主のものとされながら、主なる神さまの栄光を現していきていこうではないか。
この教会の群れも、主の愛を一身に受けつつ、主の栄光を現し続けましょう。