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負わなくてよい重荷

2021年3月7日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第2章18-29節

主日礼拝

■ヨハネの黙示録の第2章から第3章にかけて記される七つの教会への手紙、今日はそのちょうど真ん中に位置する、ティアティラの教会への手紙を読みました。黙示録を書いたヨハネは、この七つの教会の霊的指導者であったとも言われます。ひとつひとつの教会のことをいつも心にかけていたし、ここでも教会のことを愛して、愛の手紙を書いたことだろうと思います。しかし、ヨハネがよく知っていたことがある。ティアティラの教会のことをいちばん知っていてくださるのは、主イエス・キリストだ。わたしじゃない。そのキリストの愛を担う手紙を、ヨハネは書かせていただくことができました。

「目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子が、次のように言われる」。ずいぶん異様な描写ですが、これは既に第1章14節、15節にも出てきた、幻におけるキリストの姿です。このお方が世界の支配者でいてくださり、また教会の主でいてくださる。そのお方が言われる。「わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。更に、あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることも知っている」(19節)。

まず「あなたの行い」と言います。その「行い」の内容を具体的に「愛、信仰、奉仕、忍耐」と説明しています。ただ、ここでときどきこういうことを言う人がいます。たくさんの言葉を並べているけれども、どれも中身のない、形式的な言葉でしかない。しかし私はそうは思いません。確かに、あまりよく知らない人からこういうことを言われたら、「わたしのこと、何も知らないくせに……」と思うかもしれない。けれども、自分のことをいちばん心配してくれている人、自分のことをいちばんよく知ってくれている人から、こう言われたらどうでしょうか。

「愛、信仰、奉仕、忍耐」。考えてみると、どれひとつとっても、重い内容の言葉です。自分の愛を、自分の信仰を、主イエスが知っていてくださるんだろうか。そうだとして、「あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっている」と、そんなこと言ってもらえるだろうか。奉仕。いやなことがあっても仕える。いや正確に言えば、いやな人のためにも仕え抜くことです。そして、忍耐。思うようにいかないことがあっても、耐えることであります。しかも、私どもが実はよく知っていることは、愛と信仰と奉仕と忍耐と、この四つの内の、ただのひとつもうまくできないから、私どもは失敗するのです。それで悩むのです。苦しむのです。しかし、それを全部主イエスが知っていてくださるとしたら、それは既に大きな慰めだろうと思います。

何も具体的なことを言わなくたって、ティアティラの教会とヨハネとの間には、思いが通じ合う関係ができていたのだと思います。いや、そんなことよりも、教会の主であるキリストご自身が、ティアティラの教会の愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っていてくださいました。しかもここでは、ティアティラの教会は、まずほめられています。「あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることも知っている」。第2章の最初に、エフェソの教会に対しては、「あなたは最初の愛から落ちてしまった」、「だから、最初の行いに帰れ」と言われましたが、ティアティラの教会はそれとちょうど逆で、最初の頃よりも、愛においても信仰においても進歩したと言われます。自分の何がどう進歩したんだろうかと、思わず目をつぶって自分の来し方を振り返り、また考え込んでしまった人もいたかもしれません。もし進歩があったとしたら、それは主が助けてくださったとしか言いようがなかっただろうと思います。

■しかし、20節。「しかし、あなたに対して言うべきことがある」。それに続けて言われることは、今触れた「愛、信仰、奉仕、忍耐」と無関係なことではないだろうと思います。愛と信仰と奉仕と忍耐というものが、ここで問題になっているイゼベルという女を巡って、厳しく問われてしまったのです。20節以下に、こう書いてあります。

「しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女はみだらな行いを悔い改めようとしない」(20~21節)。

このイゼベルという女が何者なのか、残念ながら私どもには、これ以上のことは何も分かりません。しかしティアティラの教会の人たちは、これだけですべてを理解したに違いありません。雄弁な説教者でもあったようです。「自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え」、その巧みな言葉に誘われる人たちが、教会の中にも生まれていたようです。その次の「みだらなことをさせ」というのは、セックスに関わるような事柄というよりも、旧約聖書以来、他の神々に心を寄せることを、姦淫とか、みだらな行いというような言い方で象徴的に表現することがありました。その次の「偶像に献げた肉を食べさせている」というのも、同じように理解することができます。ところがあなたがたは、「あのイゼベルという女のすることを大目に見ている」。明らかに問題を感じながらも、どうしたらいいのか分からなかったのかもしれません。

このイゼベルという女性について、ほぼすべての人の意見が一致していることは、これは象徴的な名前であるということです。簡単に言えば、あだ名である。そしてそれは、旧約聖書の列王記に出てくる、悪名高い王妃イゼベルのことを思い起こさせているのだ、ということです。なぜそういう推測が成り立つかというと、イゼベルという名前は、他のどこにも同じ名前の人は見つからないからだ、というのですが、そう言われるとちょっと気になる。今でもヨーロッパの方に行くとイザベルさんとかイザベラさんとか、たくさんいるじゃないか。それで調べてみたら、われわれが今も親しんでいるイザベラとかイザベルという名前は、聖書にも出てくるエリサベトに由来するもので、あの王妃イゼベルとは語学的に何の関係もないということです。

黙示録を読んでおりますと、あちこちに旧約聖書のイメージを読み取ることができます。ティアティラの教会の人たちも、おそらく私ども以上に旧約聖書に親しんでいたし、イゼベルという名前を聞いただけでイスラエルの歴史を思い起こしながら、しかもそれを、自分たちの教会の歩みと重ね合わせないわけにはいかなかったと思うのです。

■そこで私は改めて、旧約聖書の列王記を読んでみました。列王記下第9章において、遂にイゼベルが窓から突き落とされ、これを葬るために人びとが行ってみると、既に犬に食われて、頭蓋骨と両足、両手首しか残っていなかった、というところまでを読み直してみました。イゼベルというひとりの王女を巡って、イスラエルがどんなに苦しんだかということは、私どもにも胸が痛いほどのものがあります。

中でも私どもの印象に残るのは、イゼベルと預言者エリヤとの対決の物語であります。イゼベルは、アハブというイスラエルの王の妃となりながら、同時にバアルという異教の神を拝むことに熱心であった。そのために神の怒りを招き、何年間も雨が降らなくなり、深刻な飢饉がイスラエルを襲います。そういう時に、預言者エリヤが現れて、バアルの預言者450人と戦って、見事にこれに打ち勝ちます。それと同時に、3年ぶりに雨が降り出したというのです。私が子どもの頃、この物語を読んだときの快感を、今でも忘れることができません。

ところが話はそこで終わらないので、イゼベルは決して悔い改めようとしない。ティアティラの教会が経験したとおりです。「わたしは悔い改める機会を与えたが、この女はみだらな行いを悔い改めようとしない」(21節)。旧約の方の本家のイゼベルも、悔い改めるどころか、むしろ怒りに燃えて、何としてでもエリヤを殺してやると誓います。それを聞いたエリヤは恐れて逃げ出します。荒れ野を逃げ続け、えにしだの木の下に倒れ込むようにして、「主よ、もうだめです。わたしはそんなに強くないのです」と自殺を願ったエリヤの祈りは、もしかしたら、既にティアティラの教会の人たちの祈りにもなり始めていたかもしれません。

エリヤは、40日40夜歩き続けて、遂に神の山ホレブに着きました。そこで神の声を聞きました。「エリヤよ、ここで何をしているのか」。そのあとの話は、皆さんの多くが記憶しておられるところかもしれません。激しい風が起こった。けれども、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こった。けれども、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。けれども、火の中にも主はおられなかった。そして、火のあとに、静かな細い声が聞こえた、というのです。「わたしはイスラエルに、バアルにひざまずかなかった七千人を残す」。あなたはひとりではない。主は、エリヤのためにそう言われたというのです。そして、エリヤの聞いた「静かにささやく声」は、ティアティラの教会の人たちにとっても、最後の確かな望みであったに違いないと、思うのです。まさにそのために、この黙示録が与えられているのです。

■ティアティラの町について、ひとつよく知られていることは、これが商業都市であったということです。そしてそこには、いろいろな職業別の組合、いわゆるギルドというようなものがあって、しかもその職業別にそれぞれの神々がついていたそうです。預言者エリヤが対決しなければならなかったバアルという神が、もともと豊作の神であった、豊かさを約束してくれる神であったということをここで思い起こしてもよいかもしれません。それはある意味では、非常に現代的な意味を持つとも言えるのです。特にティアティラという町において、このバアル信仰の誘惑とでも言うべきものがたいへん深刻な形で表れてきたわけで、けれども、生きるためには何か仕事をしなければなりませんし、そうしたら、何らかの組合に入らなければならず、時にはその組合の神のためにお祭りをし、時にお供え物をし、宴会をし、もしかしたらそういうところで肉体的な意味でのみだらな交わりも起こったかもしれない。そのような悩みは、日本という異教社会に生きる私どもにとっても、容易に共感できるものがあると思います。この国で、キリスト者として生き抜いていくことは、時に困難なことでもあるのです。そういうところで、ティアティラにいたイゼベルという女預言者は、異教の神々も大いに結構、というようなことを、説得的に語り続けたのかもしれません。

けれども、そのようなイゼベル主義なるものに、正面から立ち向かってくださるのは、キリストご自身である。22節以下。

「見よ、わたしはこの女を床に伏せさせよう。この女と共にみだらなことをする者たちも、その行いを悔い改めないなら、ひどい苦しみに遭わせよう。また、この女の子供たちも打ち殺そう」。

そこで繰り返し問われることは、「目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子」、このお方のことを私どもがどのように受け止めているかということです。23節の後半には、さらに大切なことが書いてあります。

「こうして、全教会は、わたしが人の思いや判断を見通す者だということを悟るようになる」。

私どもが毎日の生活を造るとき、いろんなことを思い、悩み、判断し、決断していく、そういうときに、私どもの思いや判断を、主が見通していてくださるし、見守っていてくださる。この方こそが、私の王、私どもの王なのだという事実を、本当に慰めとして受け止めることができるなら、私どもも、いわゆるイゼベル的なさまざまな事柄に対して、ふさわしい判断をしていくことができるだろうと思うのです。

■今日読みましたところで際立った輝きを見せるのは、24節だと思います。

「ティアティラの人たちの中にいて、この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる奥深い秘密を知らないあなたがたに言う。わたしは、あなたがたに別の重荷を負わせない」。

「サタンのいわゆる奥深い秘密」というのは、少し丁寧に訳し過ぎたかもしれません。単純に直訳すると、「サタンの深み」です。それをあなたがたは知らない。知らなくてよい、と言われるのです。

しかし、サタンの深みとは何でしょうか。ひとつの読み方は、イゼベル一派が「サタンの深み」ということを教えていたというのです。われわれは、サタンの深みに生きる。キリスト者は世間知らずで、きれいごとばかり言っている。けれども本当は、世界がどんなにドロドロしたものか、人間というものの深みにどんなに悪いものがあるか。きちんとその深みに立たないと。けれども、ここで主は言われるのです。あなたがたは、そんなサタンの深みを知らない。知る必要もない。そのようなあなたがたに言う。「わたしは、あなたがたに別の重荷を負わせない」。私は、これは黙示録の中でも最も慰めに満ちた言葉だと思います。負わなくてもよい重荷を負うな。そう言われるのであります。

サタンの深み。私どもは知っております。主イエスご自身が、既にたったひとりで、その深みに立ってくださったことを。その主の姿は、イゼベルに悩まされたエリヤの姿にも深く重なるものがあると思います。えにしだの木の下で、「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」とまで言わなければならなかったエリヤの姿は、既にゲツセマネの主のお姿を、影のように映し出していると思います。主は、恐れ悶えながら、「わたしは悲しみのあまり、死にそうだ」とまで言われたのであります。あのエリヤよりも、もっとみじめなところに立ち、たったひとりで孤独な祈りをなさったのであります。その主が言われるのです。あなたは、わたしと同じ苦しみを知る必要はない。わたしがあなたのために、サタンの深みに立ったのだ。あなたに代わって、十字架の深みを知り尽くしたのだ。「わたしは、あなたがたに別の重荷を負わせない」。

そして25節で続けて言われるのです。「ただ、わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ」。「別の重荷を負わせない」というのですから、負うべき重荷はちゃんとあるのです。「今持っているものを固く守れ」。それは最初に確認したことで、愛すること。信じること。どんな人にも、仕え抜くこと。忍耐すること。決して簡単なことではありません。けれども主が、「わたしは、あなたがたに別の重荷を負わせない」、決してあなたがたを、サタンの深みに引き渡すようなことはしないと声をかけてくださるのですから、ここに立ち続けるほかないではありませんか。「わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ」。「わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている」。そのように語りかけてくださる主イエス・キリストこそ、私どもの望みであり、慰めなのです。

■26節以下は、最後に与えられる救いの約束です。その中でも、文字通り輝いているのは、28節の後半です。「勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える」。この黙示録を最後まで読みますと、第22章の16節で、主イエスご自身が、「わたしこそ、輝く明けの明星である」と言われます。それをあなたがたに与えようと言われるのですから、言ってみれば、主イエスご自身が私どもの手の中に入ってきてくださるようなものです。それはしかし、今はまだ、明けの明星のごとく、遠くに輝いているだけにしか見えないかもしれません。それだけに、心細く思うことも、いくらでもあるに違いないのです。けれども、どんなに遠くに輝いていたとしても、その約束に揺らぐところはひとつもない。この方こそ私どもの主、神の子、救い主なのです。お祈りをいたします。

揺らいでばかりの私どもであります。けれども既に、明けの明星は輝いています。エリヤが聞いたあなたの声は、静かな細い声であったと言います。私どもの見ている明けの明星の光も、時に暗すぎると思えることもあるかもしれません。どうかみ霊とみ言葉とによって私どもの心を開き、既に朝は近いことを悟らせてください。耐えることを、耐えて愛に生きることを学ばせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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