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神の言葉が勝つ

2021年2月28日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第2章12-17節

主日礼拝

■ヨハネの黙示録の第2章から第3章にかけて、「七つの教会への手紙」と呼ばれる部分が続きます。この礼拝で、2月に入ってから、エフェソ、スミルナ、そして今日はペルガモンの教会への手紙を読みました。この七つの教会への手紙において、ひとつ際立っていることは、「わたしはあなたのことを知っている」という主イエス・キリストの言葉が七回繰り返されることです。七つの教会に宛ててそれぞれ、「わたしはあなたのことを知っている」、「わたしはあなたのこういうことを知っている」と繰り返される、その部分だけを取り出して学んでみるだけでも、豊かな収穫があるだろうと思います。

第2章の2節では、エフェソの教会に対して、「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っている」。第2章の9節では、スミルナの教会に対して、「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ」。既に皆さんもそれぞれに、具体的にいろんなことを考え始めておられるかもしれません。主が知っていてくださる〈わたしの労苦〉とは何だろうか。わたしが今こういうことで苦労している、忍耐している。それを主イエスが、どのくらい知っていてくださるのだろうか。主が知っていてくださる〈わたしの貧しさ〉とは何だろうか。「だが、本当はあなたは豊かなのだ」って、主はわたしの何をご覧になって、そんなことを言われるのだろうか。そんなことをひとつひとつ思い巡らせるだけでも、あっという間に礼拝の時間が終わってしまうだろうと思います。

今日読みましたところでは、ペルガモンの教会に宛てて、主はこう言われました。13節。「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある」。

特に私のような仕事をしておりますと、少なくとも一週間、寝ても覚めてもこの主イエスの言葉のことを考えます。「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている」。街を歩きながらも、ふっと空を見上げながら、一方では深く慰められるのです。「ああ、そうだよな。あの空の向こうから、主イエスは、この町のことを知っていてくださるんだよな」。テレビを見ても、新聞を読んでも、思うのです。この世界がどういう世界なのか、この国が今どういうことで悩んでいるのか。主イエスは、私ども人間の誰よりも、私どもの住んでいる世界のことをよく知っておられるに違いありません。しかもこういうことは別に、「この世界」とか何とか、そんな壮大なことを考える必要もないので、「あなたの住んでいる所」と言われてまず考えるのは、私どもの毎日の生活の場所だろうと思います。わたしはあなたの家庭のことを知っているよ。あなたの職場でも学校でもいいんです。ときどき出かけるところではなくて、私どもが住んでいるところ、生活しているところです。「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている」と主は言われるのです。主イエスから、そのように声をかけられて、当時のペルガモンに住む教会の人たちは、涙が出るほどうれしかったのではないかと思います。

■ペルガモンという町は、現在でも古代の遺跡が残っており、私は行ったことはありませんが、世界遺産に登録されているそうです。黙示録が書かれた当時、世界で一、二を争う図書館があり、またローマ皇帝を礼拝する皇帝礼拝の中心地のような位置を占めており、しかも他方で、昔からのギリシア的な神殿、つまりゼウスの祭壇とか、そういった古代の遺跡が現在でも観光名所になっているということを、インターネットなどでいくらでも楽しむことができます。

しかし、当然ですが、キリスト教会の遺跡はひとつも残っていません。教会堂なんてとんでもない、当時の教会は、人目につく形で礼拝をすることさえ難しかっただろうと思います。13節の後半にも、「しかし、あなたはわたしの名をしっかり守って、わたしの忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたの所で殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった」と、たいへん厳しいことが書いてあります。そのようにして、ペルガモンの教会は、世界遺産になるような遺跡は何ひとつ残さなくても、主イエスの記憶に確かに残る教会となりました。主がペルガモンの教会を知っていてくださった。殉教者を生んだペルガモンという町のことを、主が知っていてくださったということは、既にそれだけで、永遠の重みを持つのであります。

今からちょうど1年前の日曜日、正確には364日前の2020年3月1日以来、私どもの教会は、ずいぶん心細い歩みを強いられたと思います。そのことについて、今わざわざふりかえってみせる必要もないだろうと思います。問題はこれからだと思うからです。しかし、1年前の3月1日以来、私がひそかに問い続けてきたことは、「教会とは何か」ということです。もう少し丁寧に、「教会を教会たらしめるものは何か」と言い直してもよいかもしれません。実に細々と教会の歩みを造りながら……私はあるところで求められて原稿を書いて、その中で「教会から、ほとんどすべてのものがはぎとられてしまったようだ」という主旨のことを書きました。そんなことを思いながら、同時にペルガモンの教会のことを思うとき、ふとこんなことを思うのです。たとえば千年後、二千年後、鎌倉という町は残っているだろうか。鶴岡八幡宮は残っている。大仏の遺跡も立派な形で残っている。けれども、どんなに掘り返しても、鎌倉の町にキリスト教会が生きていた形跡を見つけることは、どうしてもできない、というようなことには、できればならないでほしいと心から願いますが、何の保証もありません。私は別に、教会の没落を予言しようとしているわけではありません。「教会とは何か」。「教会を教会として生かす力はどこにあるのか」。主がこの教会を知っていてくださり、私どもの生きている場所を知っていてくださるということは、その事実が既に、永遠の重みを持つのです。

■「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている」。しかし、どのように知っておられるのでしょうか。「そこにはサタンの王座がある」と言われます。あなたの住んでいる所には、サタンの総本山がある。だからこそ、主はこのペルガモンという町のことを、そこに住む教会のことを忘れることができなかったのだと、そう理解することもできます。それだけペルガモンの教会は、ほかと比べても厳しい状況にあったということかもしれませんが、他方から言えば、私どももペルガモンの教会に深く共感するものがあるだろうと思います。

先ほども読みましたように、ペルガモンの教会は、既にアンティパスという殉教者を出していたし、黙示録が書かれたあとにも、何人もの殉教者を出したようです。壮大なゼウスの神殿がそびえ立つその横で、吹けば飛ぶようなキリスト教会が生き続けている。それどころか、教会の仲間が殺される姿を見せつけられながら、ペルガモンの教会の人たちだって、揺れに揺れただろうと思います。主イエスよ、なぜですか。そのような教会を支えたのは、キリストの言葉以外にはありませんでした。「わたしはあなたのことを知っているよ。あなたの住んでいる場所が、どういうところか、本当のことを言うと、それをいちばん知っているのは、このわたしなんだよ」。

私どもがどこに住んでいるか。「住む」という言葉は、考えてみると、それなりの重みを持った言葉だと思います。片足だけ突っ込んで、いつでも逃げ出せるというわけにはいかないのです。そこに住んでいる。そこにわたしの、かけがえのない生活がある。けれどもそこで忘れてはならないことは、主イエスが地上に来てくださったのは、かりそめの客人としておいでになったのではなくて、きちんと住んでくださった。そして遂に十字架につけられたお方が、今もご自身の教会の生きる姿をじっと見つめながら、「わたしはあなたの住んでいる場所を知っているよ。そこには、サタンの王座がある」と言われるのです。

「あなたはわたしの名をしっかり守った」と、主はペルガモンの教会に言われました。あなたがたの仲間のアンティパスが殺された時でさえ、「あなたは、わたしに対する信仰を捨てなかった」と言われるのです。よくやったね。わたしは全部知っているよ。

ところで、ひとつ解釈上の問題が生じるのは、13節の最後の「わたしに対する信仰を捨てなかった」という、この文章であります。「捨てる」と訳されているのは、もともとは「否定する、否認する」という意味の言葉です。4つの福音書が共通に伝えていることは、弟子のペトロが最後の最後に、「わたしはイエスなんて、あんな人のことは知らない」と言った。そこでも同じ言葉が使われます。しかしここでは、「主イエスを否定しなかった」というのではなくて、原文を直訳すると、「あなたは、わたしの信仰を否定しなかった」と書いてあるのです。「わたしの信仰」、つまり、主イエス・キリストの信仰です。しかし、キリストの信仰をわれわれが捨てたり捨てなかったり、というのは少し分かりにくいので、新共同訳は「キリストに対する信仰を捨てなかった」と理解したわけですが、もうひとつの解釈は、「あなたは、わたしの真実を否定しなかった」というのです。キリストの真実です。ペトロが何回主イエスのことを否定したとしても、ペトロを捕らえてくださった主イエスの真実は、実は1ミリも揺らいだことはなかったのであって、その「わたしの真実」を、あなたも否定しなかったね。ありがとう。しかし、むしろペルガモンの人たちは、そのように主イエスに語りかけられて、改めて主の真実に目を開かれるような思いがしたのではないかと思います。

■しかし、14節。「しかし、あなたに対して少しばかり言うべきことがある」と、主は続けて言われます。そのあとに出てくる、バラムの教えがどうとか、ニコライ派の教えがどうとかいうところは、きっと皆さんも、「何だろう、これは」と思われたと思います。教会の信仰を惑わすいろんな教えが、特にペルガモンのような町にはあふれていたのだろうと推測することはできますが、具体的にはどういう内容のものであったか、学者たちもいろんな思い付きを口にしてみせますが、思い付きの域を出ません。けれどもある人は簡潔にこういうことを言いました。ニコライ派の中身をわれわれは知らない。なぜならば、教会がこれらに対する戦いに勝ったからだ。

しかもその教会の勝利は、教会自身が戦ったというよりも、主イエスが先頭に立って戦ってくださったのであって、そのことについて16節では、「だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう」と言われます。わたしはニコライ派と戦う。「わたしの口の剣で」と書いてあります。この言葉を典拠にして、しばしば絵描きたちが、口に両刃の剣(既に12節に、「鋭い両刃の剣を持っている方」という表現がありました)をくわえている主のお姿を描きました。しかしまた多くの人は、この口の剣というのは、何よりも御言葉の剣のことだと理解しました。

ペルガモンの教会というのは、本物の剣によって、教会の仲間が殺されるようなことさえ経験しなければならなかった。かと思えば、教会の中にも、ニコライ派やら何やらが入り込んできて、まさに内憂外患という教会のために、「鋭い両刃の剣を持っている方が」立ち上がってくださる。ところが、そのキリストの剣というのは、「口の剣」、み言葉の剣でしかなかったということは、私どもにも多くのことを教えてくれると思います。特にこの1年間、私どもが学び直したことは、教会には、み言葉の剣以外、何の武器も与えられていないということであったと思います。教会というのは、中からも外からも、悩まされるものであります。だがしかし、その悩みというものの真相を、主イエスは鋭く見つめておられたと思うのです。キリストの声を消そうとする力は、教会の中にも外にもあふれかえっている。そういうところに、あなたがたは住んでいるんだね。わたしは全部知っているよ。けれどもわたしは、わたしの言葉を消そうとするあらゆる力と、わたしの口の剣でもって戦う。あなたは、このわたしの御言葉の剣を信じるのか、信じないのか。私どももまた、問われていると思うのであります。

16節について、ある聖書学者はこういうことを言いました。「だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう」。この文章は、何度読んでもおかしいとその学者は言うのです。「悔い改めよ。さもなくば」と言うのなら、「さもないと、ただちにあなたを滅ぼしちゃうよ」と続くのが当然なのに、ここではそうではなくて、「すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう」。「その者ども」というのはつまり、ニコライ派とか、バラムの教えを奉ずる者とか、教会の敵であります。「悔い改めよ。さもないと、わたしがあなたの敵と戦ってあげる」って、全然意味が通らないではないか、とその聖書学者は言うのですが、それこそおかしなことで、私は、この黙示録の文章に何もおかしなところはないと信じております。

むしろ、こういう意味だと思います。「悔い改めよ。もしあなたがたが戦わないなら、わたしがひとりで戦う。これはもともと、わたしの戦いなのだから。しかし、できることなら、どうかあなたがたも悔い改めて、わたしと一緒に戦ってほしい」。その戦いというのは、もう一度申します、主イエスのみ言葉の剣による戦いであります。そのみ言葉の剣の鋭さは、愛の鋭さでしかないと私は思う。既に私ども自身、このみ言葉の剣によって心を刺されて、今はもう、あのキリストの真実を否定することができなくなっているのです。しかしだからこそ、今も新しく問われ続ける。あなたは、わたしの言葉を信じるのか。わたしのみ言葉の剣の力を信じるのか、信じないのか。「はい、信じます」と答えるほかない。そこにしか、教会の立つ場所はないのであります。

■最後の17節に、素敵な約束が記されています。「勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう」。マンナというのは、エジプトの奴隷の家から救い出されたイスラエルのために、神が用意してくださった食べ物のことです。ところがここでは、「隠されていたマンナ」と言われます。これを食べた人でなければ、他の人には、見えないし味も分からない。けれどもこのマンナを頂いた人は、これがどんなにすばらしいものであるか、忘れることができない。

さらに「白い小石」が与えられると言います。「その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている」。これも実は、解釈が分かれるところがありますが、ひとつの興味深い解釈は、昔の裁判のやり方で、判決を出すときに、石を手渡すことによって有罪か無罪かを伝えたというのです。被告は渡された石を箱の中から取り出して、それが白い石だと無罪を意味した。そういう罪の赦しを意味する白い石だと考える人もいます。

しかし面白いのはさらにその先で、「その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている」と書いてあります。「だれにも分からぬ新しい名」って、いったい誰の名前か。これまたよく分からないのです。キリストの御名だと考える人も、この石を受け取る人の名前だと言う人もいる。しかし、これは私の想像でしかありませんが、キリストの名と、自分の名が並べて記されるのかもしれないとも思います。私どもが洗礼を受けて、「キリスト者」という呼び名が与えられるというのは、まさにそういうことだと思います。その名前の新しさ、すばらしさは、「これを受ける者のほかにはだれにも分からない」。救われて初めて分かるものなのだと思います。

いつも洗礼入会式の時に、最後に司式者が祈りをする、その祈りの中に、「天にあるいのちの書に、その名を書き加えてくださいました」という言葉があります。そのことを思い起こしてくださってもよいと思います。白い小石に刻まれた新しい名前を見つめながら……いや、正確には、まだその白い小石は、主のみ手の中にある。それをいつか必ず、主がわたしに手渡してくださいます。そのことを望みとしながら、今ここで既に、「主が知っていてくださる」という根本的な慰めに立ちたいと願います。お祈りをいたします。

主イエス・キリストの父なる御神、私どもは今、ここにおります。この町に、この国に私どもは住んでおります。あなたは、私どもの住んでいる場所を、きっと私ども以上に、よく知っておられます。私どもの住んでいる場所が、サタンの住みかでもあるということを正しく受け入れることは、時に困難なことだと思います。しかし、あなたの御子が共にいてくださいます。いつも新しく、み言葉を聴かせ、勝利の約束を与えてくださいます。本当の支配者は、主よ、あなたなのです。その慰めの中に、今しっかりと立つことができますように。主のみ名によって祈ります。アーメン