恐れるな、わたしは既に死に勝っている
川崎 公平
ヨハネの黙示録 第1章9-19節
主日礼拝
■礼拝において、ヨハネの黙示録を読み始めております。今年最初の日曜日から始めて、できれば今年中に読み終えることを一応の目標にしています、と本日お配りした雪ノ下通信の牧師室だよりに書きましたが、改めて計画を見直してみて、ちょっと1年では厳しい。来年の1月、2月、あるいは3月くらいまでかかってしまうかもしれません。それだけの時間をかける価値があると信じてのことですが、そういう計画を立てながらも私どもが自然と考えることは、いくら何でも黙示録を読み終える頃には、思いっきり讃美歌を歌えるようになっていてほしい、毎月聖餐を祝えるようになっていてほしい、制限なく自由に礼拝堂に集まることができるようになっていてほしい。そんなことを願いながら、なお許される限りの方法において、黙示録を読みながら礼拝の生活を続けていきたいと願います。
「ヨハネの黙示録」と呼びますが、黙示というのは、言い換えれば「啓示」ということです。神がヨハネに啓き、示してくださった幻を、黙示録は伝えます。「黙示録」なんて物々しい呼び方ではなくて、「ヨハネの見た幻」と言い換えても、そんなに差支えはないと思います。ただ、〈幻〉という日本語の響きは、たいへん儚いような、必ずしも積極的な意味を持たないかもしれません。けれどもヨハネが見たものは、もっと確かなものです。幻というのは、英語で言えばヴィジョンです。単純に言えば「見ること」。むしろわれわれの曇った肉眼では見えないもの、神が見せてくださるのでなければ見えないものを、けれども神が鮮やかに見せてくださる。その意味では私どもがふつうに肉眼で見ている現実よりももっと深い、もっと確かな神の現実を、ヨハネは見せていただいた。
どこで、どのように、ヨハネはこの幻を見たのでしょうか。9節以下にこう書いてありました。
わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた(9~10節)。
場所はパトモスという島です。なぜヨハネがパトモスという離れ小島にいなければならなかったか、これは実はよく分からないところがあります。ローマ帝国当局による追放、いわゆる島流しに遭っていたのだと見る人もいますが、むしろヨハネ自ら、最悪の事態を避けるために、パトモスに避難していたのだという意見もあります。
■しかしここで大切なことは、ヨハネがこの幻を見たのは、「ある主の日のこと」、つまり日曜日の出来事であったということです。そこで改めて皆さんにも考えていただきたいことがあります。聖書を素朴に読むならば、ヨハネはこの神からいただいた幻、われわれの区切り方から言えば全22章からなる黙示を、「ある主の日に」、いちどきに見せていただいたのだと思います。何時間もかけて、このような幻を見たのかもしれませんし、しかしもしかしたら、一瞬のうちにこのような壮大な幻を見せていただいたのかもしれません。大切なことは、ヨハネの見た幻の経験というのは、実は主の日の礼拝の生活の中で起こったということなのです。そして、この黙示録を書き送られた各地の教会もまた、日曜日の朝の礼拝で、これを最初から最後まで通して読んだに違いないのです。1年以上かけて、ゆっくりゆっくり読み解いていくなんてことはしていない。もちろんそれを形だけ真似しても意味はないでしょう。大切なことは、これが主の日の礼拝の生活の中で与えられる幻だということです。
「主の日」と、私どもは日曜日のことをそう呼びます。主イエス・キリストのご復活以来、教会は日曜日の朝に礼拝をするようになりました。ただし、今と違うのは、日曜日が休日であったわけではないということです。当時の記録によれば、キリスト者たちは日曜日の朝、仕事の始まる前に集まって、新しく昇る太陽のごとくお甦りになったキリストを思い起こしながら賛美を歌い、説教を聴き、祝福を受けて、そののち働きに出たと言われます。
けれども、ここでヨハネはパトモスという島で何をしていたか。やはり礼拝をしていたに違いない。少数であっても、なお共に礼拝をする仲間がいたかもしれませんし、もしかしたら、たったひとりで孤独な礼拝をしなければならなかったかもしれません。
■私が黙示録の説教の準備のためにいつも参照している書物の中に、ハンス・リルエというドイツの牧師が書いた講解があります(『ヨハネ黙示録――聖書の最後の書』聖文舎)。このリルエという人は、ヒトラー率いるナチ政権に抵抗した、ドイツ告白教会の指導者のひとりで、ゲシュタポと呼ばれるナチの秘密警察によって逮捕され、その獄中でなお、この黙示録の講解を書き続けたといいます。ナチス・ドイツが教会に対してしばしばしたことは、有力な指導者を教会から引き離すということであった。ところで、このリルエという人が、この箇所を説き明かしながら、さりげなくこう書いています。「小アジアの教会のもっとも尊敬された霊的首長であるヨハネにとって、この日曜日の朝の別離の悲しみは、生々しいものがあった」。そういう文章を書いたリルエにとってもいちばんつらかったことは、「日曜日の朝の別離の悲しみ」であったのかもしれません。
私どもも、この日曜日の朝の悲しみを知っていると思います。それはたとえば、ここでリルエが「別離の悲しみ」と書いているように、感染症のために教会の仲間に会うことができない、たまたま会えたとしても、やたらとおしゃべりしたり抱き合ったりできない、そういう別離の悲しみもあるかもしれませんが、必ずしもそんな特殊な事柄には限られないと思います。日曜日の朝、主がお甦りになったことを思い起こしながら、だからこそますます深くなっている悲しみがあると思うのです。「主はお甦りになった、ハレルヤ」と歌いながら、けれどもそれならばなぜ、この世界の現実はこんなに暗いのですか。神さま、あなたは本当におられるのですか……。
先週、まさに今お話ししたあたりの原稿をパソコンで書いていたときに、そのパソコンに知り合いの牧師からメールの着信がありました。新しいアメリカ大統領の就任演説を聞いていたら、聖書の引用があったのだけれども、どの箇所か分からないので教えてほしい、というのです。アメリカ合衆国では、新型コロナ感染症で40万人以上の死者が出たといいます。日本の約100倍です。しかし、被害がいちばん甚大な時期は、むしろこれから始まるだろう。そのような文脈で、新しい大統領が演説の中で引用した聖書の言葉は、「夜もすがら泣き悲しんでも/朝と共に喜びが来る」。そう言って「この苦しみの夜を共に乗り越えよう」と言うのだけれども、この聖書の箇所はどこですか? 私はすぐに「詩編第30篇6節」と返信しました。自慢ではありませんが、聖書も開かずに節の数字まで思い出すことができました。一昨年に亡くなった、現役のオルガニストでもあった教会員の葬儀がきっかけで、私の愛誦聖句にもなりました。新共同訳ではこう訳されています。
泣きながら夜を過ごす人にも
喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。
キリスト教会は、その歴史の最初から、主の日の朝に礼拝をしたと申しました。夜は終わり、朝日が昇る。まさにその朝日のごとくお甦りになった主イエスの確かなご支配を賛美しながら、けれども私どももまた共通に問わずにおれないことは、「神よ、本当の朝はいつ来るのですか」。皆さんも、ひとりひとり、それぞれに、「泣きながら夜を過ごす」経験を知っておられると思うのです。「喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」と言うけれども、神よ、それはいったい、いつのことですか。
■そのような主の日の礼拝において、ヨハネが見せていただいた幻は、実際の時間からしたら、もしかしたら一瞬の幻であったかもしれません。けれども、永遠の重みを持つ幻を、ヨハネは見せていだたきました。「ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた」(10節)というのです。この地上では聞こえるはずのないような、大きな声を聞いた。
わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く……(12~14節)
このような主イエスのお姿の描写について、ひとつひとつ説明する必要もないと思います。ちなみに先ほど紹介したリルエは、今日読んだ9節から20節までの部分について、「皇帝キリスト」というタイトルを付けています。われわれの肉眼に見える、この世の皇帝ではなくて、神が見せてくださる真実の支配者はイエス・キリスト。私どもも、今主の日の礼拝において、真実の王の前に立つのです。そこで大切なことは、このお方がどんな姿をしておられたか、ということに加えて、その方がヨハネのために何を語ってくださったかということです。17節。
わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな」。
全22章からなるヨハネの黙示録。言い換えればヨハネに神が与えてくださった啓示、その第一声は、考えてみれば、この「恐れるな」というひと言であったのです。あなたは、怖がる必要は何もないし、だから、恐れてはならないんだ。そしてそれは、もう一度申します、今私どもがしているように、主の日の礼拝においてこそ聞くべき言葉であり、主の日の礼拝においてこそ見るべき幻だと言わなければならないと思うのです。
「その方は右手をわたしの上に置いて言われた」と書いてあります。それはたとえば、何か怖いことがあってぶるぶる震えている、目に涙を浮かべている小さな子どものところに、父親か母親がぎゅっと寄り添って、右手をその子の上に置いて、「恐れるな」。「だいじょうぶだよ。こわくないよ」。このような圧倒的な慰めの幻から、ヨハネの黙示録は始まります。全22章にわたるヨハネの黙示録の中心が、この「恐れるな」というひと言に集中していると言ってもよいと思います。
■思えば、主がベツレヘムの馬小屋にお生まれになったとき、天使が羊飼いたちに告げてくださった最初の言葉も、「恐れるな」というこのひと言であったし、それに先立って、主イエスの父ヨセフと母マリアのところに、それぞれに天使が現れて聞かせてくださった言葉もまた、「恐れるな」というものであったことを考えると、神がみ子イエスをこの世界に遣わしてくださったご意志のすべてが、この「恐れるな」というひと言に集中していると言うこともできるかもしれません。神がこの世界のありさまをじっとご覧になって、これはもう、わが子イエスの命をもってするほか救いようがないと決意なさった。その神の決意というものが、「恐れるな」というひと言に集中しているということは、まことに深いものがあると思うのです。
私どもも、いろんなことを怖がっております。自分自身のこととして思うのですが、人間のあらゆる感情の中で、実はいちばんやっかいなのは、この〈恐れ〉という感情なのではないかと思います。「怖い」という、この一種類の感情だけでも本当に克服することができたら、私どもの人生の問題の大半は片が付いてしまうのではないかと思うほどですが、それができないのです。そして「怖い」という感情にとらえられた人間は、ふつうでいることができなくなります。今、クリスマスに関する話をいくつかあげましたが、主イエスがベツレヘムにお生まれになったときに、羊飼いよりも、ヨセフやマリアよりも、おそらくいちばん深刻な恐怖にとらえられたのは、ヘロデという王であった。そのヘロデが、何としても新しい王を殺さなくてはならんと思いつめて、ベツレヘムとその周辺にいた2歳以下の男の子を皆殺しにさせたというのですが、それはヘロデがいちばん怖がっていたからだと言うほかないのであります。そして、黙示録が書かれた当時のローマ皇帝が、何の武力も持たない、暴動なんかいちばん起こしそうにもないキリスト教会をむきになって圧迫したのも、皇帝がどんなにおびえていたかという証拠でしかないのであります。しかしこれは、私どもにとっても他人事ではないと思うのです。
黙示録が書かれた当時の教会も、またヨハネ自身も、深刻な恐れの中にあったことは間違いありません。けれどもそのヨハネの前に、皇帝キリスト、真実の支配者が現れたときに、ヨハネは「その足もとに倒れて、死んだようになった」といいます。それまでヨハネが恐れていたいろんなもの、たとえばローマ皇帝とか、ありとあらゆる怖いものを全部吹き飛ばしてしまうほどの神の子の栄光の前に、倒れて死にそうになる経験を、私どももしなければならないのかもしれません。そのお方に、「恐れるな」「こわくないよ」と語りかけていただくことがない限り、私どもの人生は、最初から最後まで、恐怖のとりこになりっぱなしなのかもしれません。
■ところで、「恐れることはない」と語りかけてくださった主は、恐れる必要がない、その根拠をこのようにお語りになりました。「わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」というのです。お甦りになった方が、私の上にしっかりと手を置いていてくださるのであれば、恐れることはないというのも当然かもしれません。ところがこの方は、「一度は死んだ」方であるとも言われるのです。私どもも、よく承知しているのです。ここでヨハネの前に現れてくださった栄光の主が、実は誰よりもいちばん死ぬことを怖がっておられたことを。ゲツセマネの園で、身もだえするほどに恐れに取りつかれておられた主のお姿は、そばにいた弟子たちにとっては、当惑の種でしかなかったのであります。「泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」と詩編は歌いますが、イエス・キリストこそ、誰よりも深い嘆きの夜を経験なさったのであります。
けれども主イエスは、それこそ父なる神に力強い手を置いていただいて、「わが子イエスよ、恐れることはない」と、墓の中から引き上げられました。誰よりも深い死の恐れと、誰よりも確かな命の慰めを経験なさった御子キリストが、今私どものためにも、その御手を私どもの上に置いて、「恐れるな、わたしがここにいるよ。あなたと一緒にいるよ」と語りかけてくださる。そのことを知るための、主の日の礼拝であります。
9節に、少し特色ある言葉がありました。「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである」と言うのです。私どもも「共にイエスと結ばれて」います。それがどのように結ばれているかというと、「その苦難と、支配と、忍耐と」を共有しているというのです。私どもが苦しみに耐えなければならないとき、「神よ、いつまでですか。まだ朝は来ないのですか」と嘆くほかないときに、けれどもまさにそこで私どもは、お甦りの主とひとつに結ばれております。「泣きながら夜を過ごすときにも」、その嘆きが深ければ深いほど、私どもは既に、キリストと共に世界を支配している。他の何ものも私どもを支配することはできないことを、知るべきであります。今、「恐れるな、恐れるな」と私どもに語りかけてくださる主に、すべての栄光を帰することができますように。お祈りをいたします。
み子イエスよ、あなたこそ、最初の者にして最後の者、また生きておられるお方です。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っておられます。私どもも今、あなたにしっかりと手を置いていただいて、「恐れるな、恐れるな」と語りかけていただきながら、主の苦難と支配と忍耐を共にしつつ、この恵みを新しく証しすることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン