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神の言葉を聞く道

2020年10月4日

テサロニケの信徒への手紙一 第2章13-16節
川崎 公平

主日礼拝


■先週、教会員の皆さんに教会からの印刷物をまとめて郵送した中に、「2020年10月 鎌倉雪ノ下教会の祈り」というプリントがあったと思います。1階の受付のところにも置いてありますので、関心のある方はどなたでもお持ちくださって結構です。毎月発行しているこの祈りのプリントは、教会が教会としての祈りを集めて、今月は、こういうことについて皆で一緒に祈ろう、ということをまとめているものです。
 このプリントの最後の頁に、今年度から始めたことですが、私が短い説教を書いています。もう読んでくださった方もあるかもしれませんが、今朝は、その祈りのプリントに書いた小説教の紹介からお話を始めたいと思いました。
 『ミニストリー』という牧師のための雑誌があります。最近、その雑誌の中で読んだ文章を、その祈りのプリントの中でも引用したのですが、東京神学大学学長の芳賀力先生が、こういうことを書いておられます。「今は〈教会のコロナ捕囚〉の時である」というのです(『ミニストリー 第45号』5頁、キリスト新聞社)。「捕囚」というのは、捕らわれて囚人にさせられるということですが、旧約聖書のイスラエルの歴史の中でいちばん大きな出来事が、〈バビロン捕囚〉と呼ばれるものです。バビロニアという大国によって、エルサレムの神殿は破壊され、国の主だった人たちは皆捕らえられてバビロンに連れて行かれ、それは国が丸ごと滅ぼされるような出来事でありました。実は旧約聖書のかなりの部分は、この何十年と続いたバビロン捕囚という出来事を踏まえて書かれたものです。神よ、どうしてこんなことになったのですか。いつまでですか。……そのような旧約の歴史を振り返りながら、芳賀先生はこう言われるのです。

今は「教会のコロナ捕囚」の時である。だから今は耐える時である。やがて必ず捕囚の時は終わる。たとえディアスポラ(離散の民)の状況に置かれようとも、神がご自分の民を見捨てることは決してない。

私どもも、もうずいぶん長い間、異常としか言いようのない生活を強いられています。でも、これは仕方がないんだ、と言えば、そうなのかもしれません。芳賀先生は、同じ文章の中で、「他人の命を守るためには、礼拝や集会を自粛するのは当然だ」「動画配信などのメディアが与えられていることには感謝すべきだろう」と言われます。当然のことです。「しかし、これが当たり前だと思ってはならない。これに慣れてはならない」「同じ場所に集まることなしに、教会は存在しないのだ」と言われるのです。「教会」という言葉の原語のギリシア語、エクレーシアという言葉が既に「集められたもの」という意味です。集まらないエクレーシアというのは、教会が教会であることをやめるに等しい。とにかくそれが、「教会のコロナ捕囚」という言葉の意味です。
 けれども、必ず捕囚の時は終わる。芳賀学長も、そう書いてくださいました。しかし、いつまで待たなければならないのでしょうか。もう半年以上、教会堂に来ることを控えている教会の仲間も少なくないのであります。バビロン捕囚は60年続いた。まあ、それに比べれば、半年くらい大したことないですよね、などと申し上げるつもりは、まったくありません。「必ず捕囚の時は終わる。神がご自分の民を見捨てることは決してない」。しかし、いつまで待たなければならないのでしょうか。私どもは、そんなに強くないのであります。

■今、バビロン捕囚の話と、現在の私どもの教会の話を重ね合わせてみましたが、今日私どもが読んだのは、テサロニケの信徒への手紙Ⅰであって、この聖書の言葉と今の話と、何がどう重なるのかと、いぶかっておられる方もあるかもしれません。しかし、私が今、特に心を打たれる思いで読まずにおれないのは、今日読んだところのすぐあとの、第2章17節以下です。

兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、――顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが――なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。

ここでパウロが切々と訴えているのは、顔を見ることができない悲しみです。「顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが」、だからこそ、「なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。だから、そちらへ行こうと思いました」。そして、一緒に礼拝をしたい、一緒に讃美歌を歌いたい、笑って語り合いたいという、苦しいほどの思いです。しかし今はそれができない。それは、サタンに妨げられているのだとパウロは断言します。ずいぶん激しい言葉ですが、それは旧約聖書がバビロンを罪の都と断じたことに通じるものがあるかもしれません。そして今私どもも、自由に礼拝堂に集まることもできない、聖餐も断念しなければならない、それは、もう仕方がないんだと言えば、そうなのかもしれませんが、ここでパウロが、自分がテサロニケに行けないことは「サタンの妨げ」だと断じた、その信仰的センスを、私どもも学ばなければならないと思うのです。

■しかし、です。だがしかし、同時に、今日読みましたパウロの言葉は、感謝から始まっています。もう一度、13節を読みます。

このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。

このパウロの感謝は、どういう種類の感謝なのでしょうか。サタンに妨げられて、自由にしたいことができない。それでもちょっと見方を変えれば、感謝できることもあるぞ、という話ではないと思います。「わたしたちは絶えず神に感謝しています」。過去形の感謝でもなく、将来に対する期待でもなく、今現在の感謝、しかも「絶えず感謝しています」と言います。この「絶えず」という翻訳はまったくその通りで、もう少し原文を丁寧に訳すと「中断されることがない」という意味の言葉です。「わたしたちは神に感謝しています。その感謝は、中断されることがありません」。私どもが日常的に感じている感謝の心というのは、たいへん脆いというか、本当につまらないことで中断されてしまうものだと思います。けれどもここでパウロは言うのです。「わたしたちは絶えず神に感謝しています」。サタンが何をどう妨げたって、絶対に中断されることのない、感謝すべき出来事が起こったのだ。それは何かと言うと……

なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。

この13節の言葉は、私が伝道者として決して忘れることのない言葉です。「テサロニケの教会よ、あなたがたがわたしたち伝道者から聞いたのは、人の言葉ではない。あなたがたは、神の言葉を聞いたのだ」と言います。それはたとえば、今皆さんが聞いている私の言葉のことを、ここでパウロは「神の言葉」と呼んでいるのです。私が今ここに立っているのは、人間の言葉ではなく、神の言葉を聞いていただくためです。これはたいへんな発言ですが、そこでどうしても合わせて読まなければならないのは、これに先立つ11節以下です。

あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。

私もここで、ひとりの説教者として何をするかというと、「父親がその子供に対するように、一人一人に呼びかけて」……この「呼びかける」という言葉は、原文に即して言えば「そばに呼ぶ」ということだと、前回の説教で説明しました。父親が子どもを呼ぶように、「こっちにおいで」。「お前なんかだめだ、どっかに行ってしまえ」というのではなくて、「そばに呼ばれる」のです。しかもそこで私どもは、牧師のそばに呼ばれるんじゃない。「神はあなたがたを招いておられます」。テサロニケの人たちも、パウロの呼びかけを聞きながら、そこに神の招きを聴き取り、それに答えたのです。そこに教会が生まれたのです。

■この鎌倉雪ノ下教会の歴史も、そのようにして造られてまいりました。神の招きの声を聞いて、それに答えたところに、この教会も生まれたのです。そしてこの教会の103年に及ぶ歴史は、神の言葉を聞き続ける歴史でしかありませんでした。もしもそうでなかったのなら、もしもこの教会が、神の言葉でなく、人間に呼ばれることによって集まったものでしかなかったならば、それは決して神の教会にはならないでしょう。ことに今年の3月以降、私どもは特別な試練の中に立ち続けました。けれどもだからこそ神は、み言葉をもってこの教会を生かしてくださったと思います。そのことのゆえに、私どももパウロと同じように、「わたしたちは絶えず神に感謝しています」と言うことができるならば、こんなに幸いなことはないだろうと思いますし、それができなかったとしても、今も聖書は、私どものためにも、感謝への招きを語ってくれているのではないでしょうか。「あなたも、あなたも、神に呼ばれているんだから、聞くべき言葉を聞こう」と呼びかけてくれているのではないでしょうか。
 テサロニケの教会も、時代も国も状況もまったく違いますが、やはり人間的に見れば、決して恵まれた境遇にはありませんでした。こんな立派な教会堂なんかなかったし、長老会だの執事会だの、そんな整った制度もないし、だいたいいちばん頼りにしていたパウロとシルワノと、ふたりの伝道者が一夜のうちに夜逃げをしなければならないほどの迫害を受けたのです。それは、サタンの妨げでしかありませんでした。けれども、そんなことで私どもの感謝が中断されることは決してないのです。なぜか。もう一度申します。私どもが、神の言葉を聞かせていただいているからです。
 パウロはそこで、「事実、それは神の言葉であり」と念を押すように申します。そしてそれは「また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」とも言うのです。
 神を信じて生きるとは、本当に具体的なことです。ちょっと善行に励んでみるとか、神さまにお祈りをしていれば、気の持ちようも変わってくるかもしれないとか、そんな話ではないのです。神を信じる生活をするということは、神の言葉を聞いて生きるということです。それをもっと具体的に言うと、ここでパウロが書いているように、「神の言葉は、信じているわたしたちの中に現に働いている」と言えるようになるということだと思います。神の言葉が、現に働いている。そうだ、本当に、神の言葉は今わたしの中に、現に働いているんだ。だから、今このようなわたしの生活があるのだ。

■しかしそこで残る問いは、神の言葉が私どもの中に現に働いているならば、そこで何が起こるのでしょうか。神の言葉をどんなに熱心に聞いているつもりでも、それが〈わたし〉の中で何の働きもしないとしたら、何の出来事も起こらないとしたら、こんなに寂しいことはないだろうと思います。しかしそこで、改めて問わなければならない。「神の言葉は、信じているわたしたちの中に現に働いているのです」と言うならば、それは具体的には何を意味するのでしょうか。
 この問いを少しだけ言い換えると、実はこういうことにもなると思います。今日は13節から16節までを読んだのに、まだ13節にしか触れていない。14節以下は何が書いてあるんだろうか。
 今日読みました箇所は、13節はともかく、14節以下は、既に聖書朗読を聞きながら、少し異様な気持ちになったかもしれません。ずいぶん厳しいことが書いてある。そして敏感な方は、きっとこういう聖書の言葉が、のちの時代のユダヤ人差別につながったのだろうと、そんなことまで心配なさったかもしれません。もちろん、こういう聖書の言葉を根拠にしてユダヤ人を差別したり、攻撃したりすることは間違っています。
 ここでパウロが言おうとしていることは、そんなにややこしいことではないと思います。先ほど申しましたように、14節以下を理解するための前提となるのは、13節の最後の言葉です。「神の言葉は、信じているあなたがたの中に現に働いている」。そのときに、何が起こるか、という話です。

兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです(14節)。

神の言葉が具体的にテサロニケの人びとの内に働いたとき、彼らは、先輩のキリスト者たちに倣う者となりました。特に、ユダヤ地方の諸教会と共通の歩みをするようになりました。その共通項は何かと言うと、「彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです」。同胞から苦しめられる。本当ならいちばんの仲間であるはずの人たちが、自分の敵になってしまう、という苦しみが、彼らの共通項であったと言うのです。神の言葉を聞き、それが自分の中で働き始めるとき、あなたがたはその信仰のゆえに、必ず孤独にならざるを得ない。これはしかし、テサロニケの教会にとっても、そしてまた現代日本の教会にとっても、説明抜きによく分かるのではないでしょうか。
 しかも、15節ではこうも言うのです。「ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し……」。実は、あなたがたはただ先輩のキリスト者たちに倣うだけじゃない。われわれすべてに先立って、「同胞から苦しめられる」、そういう苦しみを経験なさった方がおられる。それが、主イエス・キリストであります。
 主イエスは、ユダヤ人に殺されました。それはしかし、ユダヤ人が特別に罪深かったとか、もし主イエスが日本にお生まれになっていたら、日本人はあんな残酷なことはしなかっただろうとか、そんな話ではないのです。主イエスは、すべての人の主でありながら、何となく漠然と人間になられたのではなくて、本当に具体的に、ナザレの村のユダヤ人になられたのです。そして家族と一緒に、仲間たちと一緒に、同じ村の人たちと一緒に生きる生活をなさりながら、最後には、その同胞から疎まれ、憎まれ、捨てられる経験をなさいました。テサロニケの教会の人たちにもまさって、あるいはバビロンに無理やり連れて行かれたイスラエルの民にまさって、深い苦しみをお受けになったのは、神の御子ご自身であったのです。いちばん愛していた者に裏切られ、最後には十字架につけられたのです。
 そんな御子イエスにとって、最後の最後には、父なる神以外に頼るべきものはありませんでした。自分の国も、自分の故郷も、愛する家族も、仲間たちも、最後の最後には、本当の支えにはならず、主が最後に呼び続けたのは、父なる神の名でしかなかったのです。「神よ、わたしの神よ、わたしを見捨てないでください」。私どもも、主イエスと共に、そこに立つのです。そのために、私どもも、神の言葉を聞き続けます。私どもを招いてくださる、わたしの父、私どもの父なる神であります。「父親がその子供に対するように、一人一人に呼びかけて」、私どもを招いてくださる神のもとに、今しっかりと立ちたいと願います。祈ります。

神よ、あなたこそわたしの父、私どもの父です。他の何を奪われたとしても、あなたの招きの言葉を、あなたの愛の言葉を、聞き取りそこなうことだけはありませんように。私どもは、あなたのものです。感謝して、主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン